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2009-11-30

『完全教祖マニュアル』架神恭介・辰巳一郎著

書評です。

書評の一冊目からマイナス評価はゲンが悪いということで二冊目に回した本。と書けば、まあ、だいたいの評価はわかると思いますが…

『完全教祖マニュアル』架神恭介・辰巳一世著(ちくま新書)

「教祖になるためのマニュアル」という視点から書かれた宗教分析というところでしょうか。たぶん、著者も本気で、これで教祖になれるとは思っていないと思います。

そういう意味では類例のない斬新な視点ではないかと思います。

また、諸宗教について、書物からの知識とはいえ、よく調べています。たぶん、普段からこういうことに関心があって読んできたというのではなく、この本を書くために読んだのだろうと思いますが、なかなか多岐にわたり、感心します。

また、取り上げている事象についての分析や評価は、一面的かつ皮相的な(つまり多面的かつ本質的ではない)見解という断りをつければ、ほぼ妥当なものが多いと思います(著者自身の見解というより、ソースとなっている書物の中から採用した分析や評価というべきでしょうが)。

宗教に関わっている人であれば、立場上言えないことや気がつかないことも少なくないのですが、しがらみかないだけにあからさまに書いてあったりして、なかなかいいと思います。

まあ、宗教に関わったことのない人が書いたものとしては、なかなかのものと言えるのではないでしょうか。

宗教に関わったことのない人がかいたものとしては、ですが。

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theme : 書評
genre : 本・雑誌

2009-11-28

善人になろう

善人になりましょう。昨日とは逆のことを書くようですが、善人になることは大切です。

こう言うと「いや、人から悪人と見られていても、本当は人には見えないところで善行を積もうということですよね」と善意に解釈してくれる方がけっこういるのですが、そういう道徳的なことを言うつもりはありません。

それとはまったく逆で、人から善人と評価されるようにしましょう、人目を気にしましょうという話です。もちろん実際に善行をするということも大切なことですが、とりあえず今は関係ありません。

周囲から善人と評価されることが大切なのです。

なぜでしょうか。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-11-27

悪人になろう

悪人になろう…といっても、もちろん悪いことをしようというわけではありません。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)の書いた『歎異抄(たんにしょう)』に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや善人でさえ極楽浄土に往生できるのだから、まして悪人が往生できるのは間違いない)」という有名な一節があります。

悪人こそ、阿弥陀様がもっとも救いたいと願っておられる対象だ、というわけです。

ここでいう悪人というのもなかなか解釈が難しいところで、実際、悪人こそが救われるというのだから、積極的に悪を行ったほうが救われやすいのではないかと考えた人たちもいたようです。

少々難しい話になるので、定義とか何とかが面倒な人はとばしてもらってもいいのですが、浄土真宗の教学的には、末法の時代のすべての人間は純粋な善行を実践できない悪人であると考えるそうです。そして、悪人とは自分が悪人であることを自覚した悪人(自分は本当の善行を行うことができないから、阿弥陀様によって救っていただくしかないと自覚した人)、善人とは自分が悪人であることを自覚できていない悪人(自分は本当の善行を実践できないということを自覚できず、救われるために自力で善行を実践しようとする人)と定義するようです。

※末法の時代…お釈迦様が亡くなって1500年もしくは2000年以上経つと、お釈迦様の正しい教えが伝わらなくなり、覚りを開く人がいなくなる時代になるという考え方があり、その時代を末法という。日本では永承7年(1052)から末法の時代に入ると考えられていた。

それじゃあ、悪事を働くことに何の罪悪感も持ってない人たちはどうなるんだとか、いろいろな問題がありますが、今日はそういうややこしい問題には立ち入らず、「莫令傷心神(わがたましいをいたましむることなかれ)」という観点から、「悪人」ということを考えてみたいと思います。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-11-26

万能薬などない

およそ宗教でも自己啓発でもそうですが、「これさえやれば大丈夫」という万能薬を求めている人が多いように思います。

あるいは、宗教や自己啓発書、セミナーなどの側も、あたかも自分たちが推奨しているメソッドや実践方法が万能薬であるかのように宣伝します(自分たちでもそれを信じ込んでいたりします)。

プラス思考しかり、「ありがとう」を1日千回唱えるのもしかり、パワースポットに行くのもしかり、先祖供養するのもしかり、真言や祝詞を唱えるのもしかり、感謝するのもまたしかり。

それぞれ有効なツールではありますが、それさえやっていればいいというものではありません。それどころか、状況によってはマイナスに作用することさえあります。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-11-24

『ツキの大原則』西田文郎著

書評です。

実は、最近出た宗教関係の新書の書評をしようかと思ったのですが、初めての書評がマイナス評価のものからというのはどうかと思い直し、まず第一弾は今年読んだ本の中でもっともおもしろかったものを取り上げることにしました。

『ツキの大原則』西田文郎著(三笠書房/知的生きかた文庫)

今年読んだ本の中で一番おもしろかったというより、自己啓発関係ではここ数年来で一番です。文庫で手軽ということもあり、あの人にもこの人にも勧めました。

今年の1月に初版が出ていますが、もともと別の出版社から出た本を改題・再編集した本だそうです。

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theme : 書評
genre : 本・雑誌

2009-11-23

二重構造の救い(下)

二重構造の救い(書いていて、もう少し適切な表現はないかと考え始めているのですが)ということについて続けます。

宗教に期待される救いには
①現世利益など、現実の環境や自分の状態が善くなるという救い(十界(じっかい)の中で、天界を目指す救い)。
②現実の環境や自分の状態にかかわらず、心の平安や安寧を保つことができるようになるという救い(六道(ろくどう)を解脱して、四聖(ししょう)の境地を目指す救い)。
の二つがあり、どちらも重要だということを説明してきました。

それで、この二つの救いが相互にどう関わっているのかということなのですが、一見、正反対のようでありながら、実際には切り離せない関係にあります。

というのは、十界の中で天界を目指す救いを突き詰めていけば、四聖の境地を目指さざるを得ませんし、四聖の境地に至れば、自ずから六道の中のよりよい状態に行きやすくなるからです。

わかりやすい例として、いわゆるプラス思考の問題を考えてみましょう。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-11-20

二重構造の救い(上)

十界についての話の中で、二重構造の救済ということがわかりづらかったというご意見をいただきましたので、補足説明をします。

少し考えていただければわかると思いますが、宗教に一般の人が期待する救いというのは、相反する二つの内容に大別できるのではないかと思います。

第一は、いわゆる現世利益です。

例えば病気がよくなってほしいとか借金苦から逃れたい、その他さまざまな問題の解決を願う。あるいは、家族の幸せとか、試験の合格とか、就職祈願とか、給料が上がりますようにとか、良縁に恵まれますようにとか、現実的欲望を満たし、現状より幸福になることを願う。

これらは、十界でいえば、地獄や餓鬼といった苦しみの世界を逃れ、天界(現実的幸福)を願うということになりますから、六道の中で、よりよい世界を望むということになります。

これに対する救いは、具体的に問題が解決する、あるいは状況がよくなることです。

一方、宗教においては、そういう現実的な欲望を放棄し(本当は「欲望にとらわれず」というべきですが、一般には「欲望を放棄し」だと思われているということで)、心の平安、魂の救いを求めるという方向性もあります。特に仏教やキリスト教などの創唱宗教ではその傾向が強くなります。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-11-19

最後の挨拶をして

昨日、師匠に最後のご挨拶をしてきました。

自分なりには、長年、生とは何か、死とは何かということを教えられ、さまざまな教えを受けた上、さらに闘病期間を通じて心の整理がついたつもりでいたのですが、それでも、亡骸を前にするとこみ上げてくるものがあります。

一昨日は「敢えてここでは追悼の一文は書かない」などと格好の良さそうなことを書いたわけですが、亡くなって時間がたつにつれ、自分にとって先生の存在の大きさをひしひしと感じ、追悼のためにというより、自分の気持ちを形にしておきたいと思いました。

昨日、先生の前で、長年先生のそばでお世話をしてきた弟子の方と話をしたとき、言葉にしていれば書く必要もなかったのでしょうが、言葉にしようとすると、さまざまな思いがわき出し、言葉の代わりに涙が出そうになって、結局、言葉にはならなかったのです。

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2009-11-17

遷化

今夜、私の師匠が遷化しました。

頭ではいずれそういうときが来るとは思っていても、やはりそのときが来ると何とも言えません。

本来なら追悼の文を書くべきところでしょうが、私としては、このブログに書いていることすべてが先生との出会いによって啓発された内容であり、教え導かれた中からまとめてきたものですから、ある意味ですべてが私なりの追悼と報恩であり、特別な一文を書こうという気にはなりません。

ですから、敢えてここでは追悼の一文は書かず、ただ報告だけしておきたいと思います。
2009-11-16

十界について(下)

前回は、十界を通して、仏教の救いが二重構造になっていること、絶対的な救いは六道の世界を抜け出して四聖の境地に至ることであること、四聖の境地と「莫令傷心神」は同じであることを説明し、他のいかなる信仰であっても、四聖の境地にならなければ真の救いにはならないということに触れました。

とはいえ、仏教以外の宗教で、救いを明確に二重構造として説明しているところはまずないんですね。

いや、仏教者であったも、この救いの二重構造を理解せず、現世利益や因果応報を否定したり(六道の中における救いの否定、または無視)、功徳を積むことで六道を解脱することができると説いたりする(天界と四聖の混同)人がいるぐらいですから、しかたがないのですが。

特に前者は、六道の中での救い(地獄などの悪趣を避け、天界を望む)を仏教の夾雑物(外から入り込んだ異物)のように考えているのですが、まあ、実際に人を救おうとしたことがないのではないかと思いますね。もし、救おうとしたことがあるというのであれば、間違いなく、救う対象を自分の基準で取捨選択しているはずです。

それはともかく、大半の宗教では、善行を積んで、あるいは信仰によって天国、すなわち六道の世界の天界に行くことを目的としています。

逆に、悪行を避けることによって、地獄をはじめとする苦しい世界にことを願うことに重点が置かれる場合もありますが、重点の置き方の違いであって、基本は同じです。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-11-14

十界について(中)

普通、宗教においては、善行を積むことにより安楽な世界(天国)に行くことを願います。もちろん死後の話というだけではなく、この世の幸せも含めます。

宗教によって、その善行の内容が、人に親切にすることであったり、修行や現実的努力をすることであったり、祭祀を行うことであったり、身を慎んだり清浄を保つことであったり、それらの複合であったりというような違いがありますが、基本的な考え方は同じです。

これは仏教でも認めていることで、初期の経典以来、功徳を積むことによって、この世とあの世でも喜びを得られると説いています。

また、在家の仏教信者に対して、八斎戒(殺生をしない、淫行をしない、酒を飲まないなど在家信者の守るべき八つの戒め)を月に六回の定められた日に守り、托鉢の僧に布施し、不正をしないで財を稼ぎ、その財で父母を養えば、死後、神々の世界(天界)に生まれることができるという教えもあります。

ただ、仏教が他の宗教と違うのは、功徳を積むことによって行くことができるのは六道の世界の天界であって、いずれ喜びに終わりの来るものであるということです。だから、六道の世界を解脱して、苦しみや悩みのない仏の境地を目指しなさいと説くわけです。

この苦しみ悩みのない仏の境地を彼岸(ひがん)すなわち「あちらの岸」といいます。十界うちのの四聖のことです。これに対して、苦しみ悩みに満ちた六道の世界を此岸(しがん)すなわち「こちらの岸」といいます。

六道の迷いの世界を離脱し、四聖の覚りの世界に入ることを、此岸から彼岸に渡るというわけです。

では、六道の世界と四聖の境地とは何が違うのでしょうか?

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-11-13

十界について(上)

私の師匠は、法話やカウンセリングをする時に、まず「十界(じっかい)」の話から始めるのがいいと言っていました。それは、相手に自分の今の状態、あるいはこれからどうすればいいかを自覚するきっかけとして非常にわかりやすいからです。

だからというわけではありませんが、私も十界の話から始めたいと思います。といっても、もちろん法話やカウンセリングをしようというわけではありません。

十界を理解すれば、私たちが宗教・信心をする目的や、その過程の中で今いる段階が非常にわかりやすくなるからです。

その一方で、長年信心をしたり、宗教団体で指導的立場にいる人でも、意外にわかっていなかったりする内容ではないかとも思います。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-11-11

莫令傷心神

まずはタイトルについての話からしてみたいと思います。

「莫令傷心神(わがたましいをいたましむることなかれ)」

ご存知の方も多いかとは思いますが、『六根清浄の大祓』の一節です。

人は則ち天下の神物なり(ひとはすなわちあめがしたのみたまものなり)
須らく静謐を掌るべし(すべからくしずめしずまることをつかさどるべし)
心は則ち神明の本主たり(こころはすなわちかみとかみとのもとのあるじたり)
莫令傷心神(わがたましいをいたましむることなかれ)

実に奥深い内容です。

※なお、リンク先(筆者のサイト)では「心神を傷ましむること莫れ」と書き下していますが、これは「心神」を「わがたましい(リンク先では「あがたましひ」、意味は同じ)」などという特殊な読ませ方をするので、元の形のままでは、ルビを振っても意味が通じないんじゃないだろうかと考えたためです。

最近、人気を集めているこの六根清浄の大祓ですが、その一番の眼目が、この「莫令傷心神(心神を傷ましむること莫れ=我が魂を傷ましむることなかれ)」だと思います。のみならず、誤解を恐れずに言えば、少なくとも我々一般人が生きていく上において、あらゆる宗教の説くところは、表現の違いはあれ「莫令傷心神」、自分の魂(あるいは心)を傷つけてはいけないということに帰結するといっていいでしょう。

ですから、この「莫令傷心神(自分の魂を傷つけてはいけない)」ということがよくよく得心できれば、いかなる宗教でも(よほど破壊的な教義を持つところは別として)自分の人生に活かすことができますし、逆に、反社会的カルトの問題をはじめ、宗教で身を誤ったり、苦しんだりすることも避けられます。

では、魂や心は何によって傷つけられるのでしょうか。

一つには、マイナスの行為・言葉・思い、いわゆる仏教でいう悪しき身口意の三業によって傷つけるということがあります。ですから、人を傷つければ、自分の心が汚れ、魂が傷つけられるわけです。

もう一つは広い意味でのストレスです。特に、自分を責めたり、後悔したりなどという、自分で自分を不必要に傷つけている人が多いものです。取り越し苦労もそうです。

従来、宗教の世界においては、戒律や修行といった形で、前者のほうが重要視されてきました。

後者については、かえって宗教や信仰がマイナスに作用していることが多いように思われます。真面目な人が、教えの故に必要以上に自分を責めたり、よけいな苦しみを背負い込んでいる姿を見ると、残念でなりません。

ただし、宗教の側から擁護しておけば、たいていの場合は教えそのものに問題があるのではなく、それを用いる人間のほうが、自分の思惑や欲求を果たそうとしていたりする、あるいは意味がわかっていない場合が大半です。

宗教とは「自分の魂を傷つけてはいけない」という観点から教えを学んでみれば、まっとうな宗教にはきちんと「自分の魂を傷つけない、不要なストレスの原因を作らない」という内容が含まれていることがわかります。

そういうわけで、「莫令傷心神」という観点から宗教やら心の問題やら幸福といったことについて考えてみたいというのが当ブログを開設する趣旨であり、この言葉をタイトルに選んだ理由です。

宜しくおつきあいください。

theme : 宗教
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