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2009-12-31

百八煩悩(4)

さて、いよいよ大晦日。今年最後のエントリーですが、無事に百八煩悩すべてを網羅できそうです。

昨日までで、百八煩悩のうち九十八随眠(きゅうじゅうはち ずいめん)を見ました。今日は残りの十纏(じってん)を見ていきます。

煩悩には根本煩悩(こんぽんぼんのう)枝末煩悩(しまつぼんのう)があり、随眠(ずいめん)とも呼ばれる根本煩悩は六種類(六随眠)または十種類(十随眠)に分類されます。

これに対して枝末煩悩は随煩悩(ずいぼんのう)とも呼ばれ、根本煩悩が起きるとき、それに伴って生じる二次的な煩悩のことです。随煩悩には19種類あるとされますが、そのうち特に重い10種を十纏と呼びます。

(てん)とは「まとわりつくもの」という意味で、心の底にある悪への傾向が形になって現れ、私たちの心や体にまとわりついて、自由にさせない(悪のほうに引きずっていく)ということから、そう呼ばれます。

それでは十纏を見ていきましょう。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-12-30

百八煩悩(3)

今日は九十八随眠(きゅうじゅうはち ずいめん)について見ていきます。

随眠(ずいめん)というのは根本煩悩のことであり、(とん)(しん)(ち)(まん)(けん)(ぎ)の6種類があり、六随眠といいます。この六随眠のうち、「見」を五つに分けると合計10種類になります。これを十随眠といいます。

この十随眠は、学習と修行によって徐々に消滅していきます。その消滅の過程に基づいて98に細分化したのが九十八随眠です。昨日はここまで説明しました。

では、どのようにして98になるかを説明していきたいと思います。

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2009-12-29

百八煩悩(2)

百八煩悩について続けます。

除夜の鐘の百八は煩悩の数とされます。この百八煩悩とは九十八随眠(きゅうじゅうはち ずいめん)十纏(じってん)を合わせたものです。

98(随眠)+10(纏)=108

今回は九十八随眠のもととなる六随眠・十随眠、すなわち6種類ないし10種類の根本煩悩について見ていきたいと思います。ただでさえややこしい話ですから、余分なことは抜きにして、さっそく六随眠の一つひとつを見ていきましょう。

1.貪(とん)…貪愛(とんあい)ともいいます。むさぼり。貪欲。執着。激しい欲望。いわば、心の奥底から生じる自分ではコントロールできない欲望で、迷いの生存(六道の世界から脱出できずに輪廻する)の根元です。

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2009-12-28

百八煩悩(1)

もうすぐ大晦日。今年も終わりです。

大晦日といえば除夜の鐘。除夜の鐘は百八回衝きますが、この百八というのは人間の煩悩(ぼんのう)の数だとされます。

ここまではよく知られているのですが、では百八の煩悩とは具体的にどういうものかというと、意外に知られていません。

例えば「四苦八苦」で、4×9+8×9=108だから百八だなどともいわれますが、これは語呂合わせの俗説のようです。

いろいろな説があって、これという絶対的な定説はないようなのですが、九十八随眠(きゅうじゅうはち ずいめん)十纏(じってん)を合わせて98+10=108というのが一般的な考え方のようです。

せっかく除夜の鐘を聞くのであれば、それがどんな煩悩かを知っておくのもよいのではないでしょうか。というわけで、大晦日までの間、百八煩悩すなわち九十八随眠と十纏について調べてみたいと思います。

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theme : 宗教
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2009-12-27

因果応報から考える民主党政権の今後

基本的に日曜日は休みにしているのですが、今日は今年最後の日曜ということで、目下興味深い動きをしている時局について考えてみたいと思います。

因果応報から考える…といっても、不敬の民主党は許し難いから天罰が下るであろう!などという短絡的な話でないことは、当ブログの読者諸賢におかれてはわざわざ言うまでもないことと思います。

タイトルがなぜ「鳩山政権」ではないかというと、いつまで保つかわからないからです。常識的に考えれば即座に退陣すべきだと思うのですが、結構粘っていますからねえ。

秘書二人が逮捕で本人は不起訴になったわけですが、本来、友愛政経懇話会の代表者ですから政治資金規正法からして監督不行届が問われるべきですし、そうでなくても、かつて野党時代の自らの発言からして、辞職が当然です。

とはいえ、鳩山首相もとことんまで無恥な御仁と見え、わけのわからない言い訳をして、しがみつくつもりはないと言いながらしがみつくつもりのようです。

見ざる言わざる法はザル

こんなアスキーアートがありましたが、うまいものです。

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theme : 宗教
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2009-12-26

『なぜ正直者は得をするのか』藤井聡著

因果応報について突き詰めていけば、「正直の頭に神宿る」というように、目先の損得のために人を騙したり約束やルールを破ったりするより正直に振る舞ったほうがよいということになります。

このことを誰もが納得できる形で明確に示すことができれば、他人を犠牲にして自分ばかりがいい目をしようなどということが減り、住みやすい世の中になるだろうと思われます。

それで私も試みとして因果応報について論じているわけですが、先日、書店に行って、ちょうどそういうテーマの本がありましたので、参考までに読んでみることにしました。

『なぜ正直者は得をするのか -「損」と「得」のジレンマ』藤井聡著(幻冬舎新書)

著者の藤井聡氏は京都大学大学院工学研究科の教授です。

藤井教授は「損得勘定に基づいていろいろな選択や判断を行うという、自分勝手で、自己中心的な考え方」「利己主義」とし、この利己主義の特徴と、それが導く結果を見ていくことにより、次のような結論が示唆されるとします。

「すなわち、“得”をするのは利己主義者ではなくむしろ正直者なのであり、利己主義は最終的には“敗北”せざるをえないのだ」

これを見て、残念ながら、藤井教授の試みは失敗するだろうと思いましたが、まあ、どういう結論になるか参考までに読んでみようと思い、購入しました。

で、結論は…

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theme : 書評
genre : 本・雑誌

2009-12-25

クリスマス考(下)

昨日は、クリスマスがキリスト教の最大のライバルでペルシア起源の密儀宗教であるミトラス教の祭典を取り込んだものだということを説明しました。

しかし、ペルシアの宗教の影響は、クリスマスをお祝いするような枝葉の部分ばかりではなく、もっとキリスト教の本質的な部分に及んでいます。今日はそのあたりについて考えたいと思います。

では、どういったところがそうなのかといいますと、本当に本質的な部部でありまして、そもそも救世主という存在がペルシア起源なのです。

そのあたりから説明していきましょう。

言うまでもなく、イエス・キリストというのは「名前(ファーストネーム)+名字(セカンドネーム)」ではなく、「名前+称号」で、「キリストであるイエス」を意味します。このキリストというのはヘブライ語の「メシア」をギリシア語に訳した「クリストス」からきています。つまり「メシアであるイエス」ということです。

まあ、それぐらいのことは知っているという人が多いとは思いますが、問題はその先、「メシア」とは何か、ということです。

一般の認識としては「メシア」は「救世主」だろうということになるだろうと思いますが、実は違います。本来、メシア=キリストに救世主・宗教的な救済者という意味はありません

ですから、原始キリスト教会では「イエス・キリスト」に救済者を意味する「ソーテール」という称号をつけ、「イエースス・クリストス・ソーテール」すなわち「救世主イエス・キリスト」と呼んでいたのです。

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theme : 宗教
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2009-12-24

クリスマス考(上)

今日、12月24日はクリスマス・イブ。古い英語で「クリスマスの夜」を意味する言葉だそうです。

クリスマスは12月25日で、24日はクリスマスの前夜のはずです。しかし、なぜ「クリスマスの夜」になるのかというと、教会暦(ユダヤ暦の伝統を受け継いでいる)では日没が一日の区切りとなるため、24日の日没から25日の日没までがクリスマスということになるからです。

そんなことで、今回はクリスマスについて。

一般的に、クリスマスは「イエス・キリストが誕生(降誕)した日」と思われているのですが、新約聖書には12月25日にイエス・キリストが生まれたという記述はありません。現代では秋頃ではなかったかという説が唱えられているようですが、いずれにせよ、12月25日ではないだろうということで一致しています。

というのは、ルカによる福音書に、夜通し羊の番をしていた羊飼いが、天使に教えられて生まれたばかりのイエス・キリストを訪ね、礼拝した話がありますが、当時、羊を放牧して夜通し番をするというのは春から秋のことで、12月頃の話ではありえないなどといったことによるようです。

ですから、現代のキリスト教でも大半の教派では、クリスマスは「神が人として生まれてきたことを祝う日」すなわち「キリストの降誕を祝う日」とされます。つまり、「キリストが誕生した日」ではなく、「キリスト(という存在が)が誕生したことを祝う日」ということです。

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theme : 宗教
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2009-12-22

善因善果・悪因悪果

異熟因(いじゅくいん)異熟果(いじゅくか)同類因(どうるいいん)等流果(とうるか)から、もう少し因果応報について考えてみたいと思います。

昨日も書いたように、一般に因果応報といえば「善因楽果・悪因苦果」の異熟因・異熟果の関係を想定するのではないかと思います。

それはそれで間違いありませんし、苦楽の果が生じるからこそ、善を行い悪を避けようとする動機づけにもなるのですが、しかし、むしろ重要(あるいは深刻)なのは「善因善果・悪因悪果」の同類因・等流果ではないでしょうか。

異熟果は、その時々においては喜ばしいことであったり、つらく苦しいことであったりしても、一応、そこにおいて、その果をもたらした過去の因縁は決着がついたとみなすことができます。その果を善に活かすか、悪に活かすかは本人次第ですし、苦なる結果であればこそ善なる方向へ舵を切ろうというきっかけにもなります。

また、未だ結果を生じていない悪因に関しても、善き業(カルマ)を積み、善き縁としていくことで、より災難を少なくしたり、むしろ良い結果につなげることだって可能です。

ところが、等流果というのは、ただただ本人の善悪についての指向性を強化する形で現れます。本人が自分の善悪の傾向を自覚しないかぎり、変わるということがありません。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-12-21

善因楽果・悪因苦果

いよいよ因果応報について考えていきたいと思います。

因果応報といえば、一般的には、善いことをすれば良いことが怒り、悪いことをすれば悪いことが起こるという意味で「善因善果・悪因悪果」といわれます。しかし、これは厳密には不正確で、「善因楽果・悪因苦果」が正しいとされます。

善なる因からは自分にとって望ましい結果(楽果)、悪なる因からは自分にとって望ましくない結果(苦果)が生じますが、それらの結果は善でも悪でもないからです。

これだけではわかりにくいので、例を挙げて考えてみます。

例えば盗みを働いて、刑務所に入れられたとしましょう。

盗みは悪因ですが、刑務所に入ることは自分にとって望ましくない結果(苦果)であっても、悪なる結果とはいえません。

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theme : 宗教
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2009-12-19

業(カルマ)について(2)

昨日に続き、業(カルマ)について考えます。

カルマに考えるときに注意しなければならないことは、ある業(カルマ)が因(原因)となって何らかの結果をもたらすにせよ、それが「いつ」「どのような」結果になるかは決まっていない、ということです。

このことについて、少し考えてみたい思います。

なぜ「いつ」「どのような」結果になるかは決まっていないのか。それは、いかなるカルマであれ、どのような縁(条件)と結びつくかによって結果が変わるためです。

「人を殴った」という例で考えてみましょう。

相手が自分と同等、もしくは自分より強い場合、殴り返される可能性が高くなりますが、相手が自分より弱い場合は、相手が引き下がる可能性が高くなります。あるいは、相手が弱くても武器を持っている場合には反撃される可能性があります。周囲に人がいるかどうかでも違ってきますし、連れがいる、警官がいる、昼か夜か、天気はどうか、体調はどうか、社会的立場はどうか、などの条件によって、その後の展開はまったく違ってきます。

また、その場で決着がつくこともあれば、何年か後に仕返しされるということもあります。たまたま知り合いに見られていて、家族や学校の先生あるいは職場の上司に告げ口されるということもあるでしょう。条件次第で、予想外のときに予想外の影響が出てくるわけです。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-12-18

業(カルマ)について(1)

さまざまな仏教用語の中でも、カルマというのは誤解されていることが多い言葉の一つだと思います。

よく見かけるのは、「前世で犯した罪がカルマとなって…」というような言い方ですが、これは二重の意味でカルマの意味の半分しかとらえていません(ということは、カルマの意味のうちの1/4ということ?)。

「カルマ」はもともと「行為」を意味するサンスクリット語で、漢訳して「業(ごう)と言います。仏教では、行為そのものだけでなく、その行為によって生じた潜在的な力も含めて「カルマ=業」と言います(後者を「業力(ごうりき)ということもあります)。

どういうことかというと、例えば人を殴ったとします。その「殴る」という行為自体がカルマ(業)ですが、それと同時に、殴るという行為は「殴り返される」とか「警察に連行される」とか「知り合いに見られて悪い評判を立てられる」とか、何らかの結果をもたらします。「殴る」という行為=カルマが因(原因)となり、何らかの果(結果)を生じさせるわけですが、そこに潜在的な力が働いていると見なして、その力もカルマ(業、もしくは業力)とするのです。

つまり、上記の「前世で犯した罪云々」という例では、カルマは業力の意味でのみ用いられていますが、「前世で犯した罪」自体が本来的な意味でのカルマですから、カルマの意味の半分しかとらえていないということになります。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-12-17

感謝の効用

難しい話が続いたので、このあたりで軽い話を一つ。

宗教であれ、自己啓発であれ、「感謝」が大切だというのはよく言われることです。しかし、どうもそういう場でいわれる感謝の話というのは堅苦しい感じがして、自分が何か立派な人間にならなければいけないと強要されているような感じを受けるのではないでしょうか。

感謝できないような嫌なこと、苦しいことをグッと耐えて感謝に転換する、というような…。

しかし、感謝が大切だというのは、立派な人格になるとか何とかいう高尚なレベルで大切だというだけではなく、信心の御利益をいただく上でも非常に大切です。

しかも、その感謝の内容というのは、特別高尚なレベルの感謝が必要なのではなく、深く考えずに何でもかんでも有難いと感謝して、人から馬鹿に見られるぐらい有り難がるというところにポイントがあるようです

さて、私が某宗教団体の機関誌の編集をしていた頃、ある支部から信者の豆腐屋さんの証し(いわゆる体験談)が寄せられ、その内容が大変評判になりました。

その豆腐屋さんは奥さんを亡くし、息子さんと二人暮らしでした。

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theme : モノの見方、考え方。
genre : 心と身体

2009-12-15

縁起について(4)

仏教には「三法印(さんぼういん)というものがあります。これは、仏教の教えの特徴を端的にまとめたものであると同時に、仏教と他の教えを区別する指標ともされます。

諸行無常(しょぎょうむじょう)すべてのものは常に変転してやむことがない。
諸法無我(しょほうむが)すべてのものは因縁によって生じたもので実体性がない。
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)悟りの世界(涅槃)は安らぎ(寂静)である。

これに「一切皆苦(いっさいかいく)」…一切は苦である…を加えて四法印ということもあります。

※仏教でいう「苦」は単に苦しいとか苦痛という意味とは違い、思い通りにならないことによって生じる苦しみというニュアンスです。私たちは苦しいことは避けたいけれども、避けることはできません。また、楽しいことは続いてほしいけれども、いずれ終わりが来ます。そのように、自分の思い通りにならないときに生じる苦しみを「苦」と呼ぶわけです。

仏教は縁起という考え方に基づいていますから、三法印・四法印も縁起に基づいており、縁起による世界観と、仏教による救済観を理解するためには非常に便利です。

そこで、縁起による世界観から仏教の四法印を整理して、とりあえず縁起についての考察を終えることにしたいと思います。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-12-14

縁起について(3)

縁起と関わりの深い言葉として「因縁果報」という言葉があります。「果報は寝て待て」といいますが、「果報」というのは結果のことです。

因縁を「因(原因・直接的原因)」と「縁(条件・間接的原因)」に分けるように、果報も「」と「」に分けることがあります。

この場合、「果」は「因の果」、「報」は「縁の報い」とされます。

因=原因。直接的原因。
縁=条件。間接的原因。
果=因の果。
報=縁の報い。


わかりやすくするために、ヒマワリの種と花で考えてみましょう。

ヒマワリの種を因とすると、果はヒマワリの花です。ヒマワリの種からアサガオの花が咲くということはありません。これが「因の果」ということです。

これに対して、同じヒマワリの種を蒔いても、土壌や水の量、太陽の光の当たり具合によって、大きな花を咲かせたり、みすぼらしい花しか咲かせなかったり、途中で枯れてしまうということもありえます。

つまり、条件次第で結果が違ってくるわけで、これが「縁の報い」ということです。

ヒマワリの花で考えると、因と果の関係が決定的なような感じがしますが、そんなことはありません。自分という存在で考えればわかりやすいのですが、むしろ縁と報のほうが決定的です

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-12-13

未来から今を見る

いつもは休みの日曜ですが、きな臭い世情について一言書いてみたいと思います。

ナチス・ドイツであれ何であれ、歴史上悪名高い政権とその協力者について、現代の価値観から批判する人たちがいますが、そういう人に限って、未来においては批判されるであろう現在進行中の事態については嬉々として協力したりするものです。

まあ、私もなんだかんだ問題はありながらも、民主国家として発展してきた自分の国が、非人道的大国に嬉々としてすり寄る姿を見ることになろうとは思いもよりませんでした。

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theme : 宗教
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2009-12-12

縁起について(2)

昨日に続き、縁起について考えたいと思います。

通常、因果といえば一つの原因に対して一つの結果が生じるという一因一果の関係でとらえることが多いのですが、縁起という考え方においては、一つの結果に対して、要因は必ず複数あると考えるということを説明しました。

ですから、昨日も書いたように☆☆をしたから★★になる、などということは絶対に言えません。

例えばタバコを吸ったからといって、必ずしも肺ガンになるとはかぎらないということです(リスクは高まるにしても)。

因果応報との関連でいえば、一因一果の因果律を前提として因果応報を考えれば、一つの行為をすれば、それに対応する結果も決定することになります。善いことをすれば善い結果が生じるとか、信仰をすれば幸せになれるとか。

しかし、縁起説を前提とすれば、一つの行為に対する結果は必ずしも一種類ではありません条件次第で、自分としては善いことをしたけれども、思わしくない結果になる、イヤな思いをすることになるということも当然あり得るわけです。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-12-11

縁起について(1)

釈尊は菩提樹の樹の下で悟りを開き、仏陀(目覚めた人)となられました。そのお悟りの内容が「縁起(えんぎ)」だとされます。

これからしばらく、この縁起について考えてみたいと思います。

縁起というと、一般には「縁起がいい」「縁起が悪い」など、よいことや悪いことの前兆という意味で使うことが多いように思います。また、お寺や神社の由緒来歴という意味で使うこともよくあります。

しかし、本来は「因縁生起(いんねんしょうき)」すなわち「縁に因(よ)って生起する」という言葉を略したものです。

もともと「因」も「縁」も原因の意味なのですが、「」を原因(直接的原因)、「」を条件(間接的原因)として区別します。「因」と「縁」が結びつくことによって結果(果)が生じるというのが「縁起」すなわち「因縁生起」です。

「因」と「縁」がそろったときに「果」が生じるので、「因縁果(いんねんか)」ともいいます。

因=原因(直接的原因)
縁=条件(間接的原因)
果=結果


因(原因) + 縁(条件) = 果(結果)

また、「」を関係性として、複数の原因・要因が関係を結ぶことによって結果が生じるという解釈をすることもできます。

わかりやすくするために、例を挙げて考えてみましょう。

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theme : 宗教
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2009-12-10

『人生は勉強より「世渡り力」だ!』岡野雅行著

いくら高尚な教えや理論を学んだとしても、それを現実の生活に活かそうとすると、泥臭い処世術や世俗道徳そのものだったりするものです。

世の中で成功を収めている人というのは、教えや理論を現実に即した形で実践しているからこそ、成功しているのです。

姑息な真似をして一時的な成功を収めることしかできない人でも、その一時的な成功のためには、それなりに理に適ったことをやっていなければなりません。ずるいことをやって人を出し抜いている人の中にも、成功する人できない人がいることを見れば明らかです。

つまり、現世での成功というのは決して偶然の産物ではなく、多かれ少なかれ宇宙の法則に適った背景を持っているわけで、宗教的な教えや理論を現実に活かそうとするならば、特に継続的な成功を収めている人物や企業については研究する必要があります。

そこで取り上げたいのが『人生は勉強より「世渡り力」だ! 』岡野雅行著(青春新書インテリジェンス)。

著者の岡野雅行氏は「痛くない注射針」や「リチウムイオン電池ケース」を開発し、「世界一の職人」と呼ばれる人物。テレビなどでもよく取り上げられるので、知っている人は多いと思います。

岡野氏は、たしかに技術、腕は大切で、それを磨かなければ話にならないが、それと同じぐらい大事なのが「世渡り力」だ、と言います。世渡り力がなければ、いくら優れた技術を持っていても、仕事も人生もうまくいかないというわけです。

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theme : 幸せになるための本
genre : 本・雑誌

2009-12-08

成道会

本日は12月8日、成道会(じょうどうえ)といって、釈尊(お釈迦様)が悟りを開かれた(成道された)記念日です。

日本の仏教では、釈尊がお生まれになった4月8日の灌仏会(かんぶつえ)、入滅(にゅうめつ)つまりお亡くなりになった2月15日の>涅槃会(ねはんえ)とともに三つの重要なお祭りの一つです。

ただしタイやスリランカなど上座部仏教の国では、釈尊の誕生・成道・入滅は同じ日だったとされており、ウェーサク祭といって5月の満月の日にお祝いします。

釈尊は釈迦族(シャーキャ族)の王子として誕生されましたが、世の無常を感じ、29歳で国も妻子も捨てて出家しました。

最初、釈尊はアーラーマ・カーラーマ仙人のもとで修行し、たちまち彼が説く境地に達しましたが満足できず、次にウッダカ・ラーマ・プッタ仙人のもとで修行し、ここでもたちまち彼が説く境地に達したものの、それも真の悟りではないとして、それから6年間の激しい苦行に入ります。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2009-12-07

慧春尼(4)

慧春尼(えしゅんに)について、いよいよ最後の火定(かじょう)の話です。

火定とは、燃えさかる炎の中で座禅を組み、そのまま瞑想しながら命を絶つというものです。

慧春尼は最乗寺のふもとに摂取庵(せっしゅあん)・慈眼庵(じげんあん)・正寿庵(しょうじゅあん)という三つの庵を建て、道行く人々を接待しながら教え導いていました。

そして、応永9年(1402年)5月25日と伝えられていますが、慧春尼は最乗寺の三門(山門)の前の大きな石の上に薪を積み、その上に乗ると自ら火を放ちました。そして、炎の中で座禅を組みました。

炎の煙が辺り一面に立ちこめると、了庵(りょうあん)禅師が駆けつけ、「尼よ熱いか、尼よ熱いか」と最後の問いを投げかけると、慧春尼は声を張り上げ、「冷熱は生道人(なまどうにん)の知るところにあらず(熱いか冷たいかは生半可な修行者の知るところではない)」と答えました。そして、平然として炎の中で遷化されたのです。

僧たちはお骨を集め、摂取庵に塔を建てました。また、今も最乗寺には火定石があり、慧春尼堂が建立されています。

そして、慧春尼は女性救済の悲願を持っておられたということで、祈念すれば必ず感応がある、祈れば必ず応えられるということで、今も女性の参拝者が絶えないということです。


これを見て、伝統的な日本の感覚ならすばらしいと思うかもしれませんが、現代の人の中にはとてもよいこととは思えないという人もいるかもしれません。現代的な価値観で表面だけを見ると、単なる焼身自殺のように見えるかもしれないからです。

今回はそのあたりを考えてみたいと思います。

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theme : 宗教
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2009-12-05

慧春尼(3)

慧春尼(えしゅんに)の話を続けます。

第一回目で少し触れましたが、慧春尼の逸話には、修行者の身でありながら慧春尼に言い寄った不心得な僧を撃退した話も残っています。

ある僧が、密かに慧春尼への気持ちを手紙に書き、男女の関係になりたいと伝えてきました。

普通なら、そこで叱りつけるか、そうでなくても修行者として即座に断るべきところでしょうが、慧春尼はそうはしません。

慧春尼は「簡単なことです。ただし、あなたも私も僧の身ですから、普通のところで交わるべきではありません。私に考えがありますが、その時になって難しいといって断ることはできませんよ。約束を破れば、私のところに来ることはできません」と返事をしました。

僧は「もし、私の願いを聞いてくださるのであれば、たとえ煮えたぎる湯の中であろうと、燃えさかる火の中であろうと、断ることはありません。まして、それほどでないところなら」と答えました。


きっと自分の願いが叶ったと信じ、大喜びだったでしょう。それは、この僧が慧春尼を見損なっていたということでもあるでしょう。

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theme : 宗教
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2009-12-04

慧春尼(2)

慧春尼(えしゅんに)の話を続けます。

出家の志を果たした慧春尼は、「勇猛に参禅した」といいますから、並大抵でない熱心さで修行に励んだことと思われます。

顔を火箸で焼いてまでして認められた特例としての得度(とくど)、しかも「女子供は挫折しやすい」とまで言われているのですから、そこらの男性修行者とは取り組み方が違っていたことでしょう。

悟りを得て、了庵(りょうあん)禅師から印可(いんか)を受けたのですが(言ってみれば免許皆伝ですね)、非常に弁舌に優れ、誰もかなう者がいなかったそうです。

そのような慧春尼の鋭い弁舌を伝える逸話があります。

ある時、了庵禅師が鎌倉の円覚寺(国宝の舎利殿で有名です)に使いを送らなければならないことがありました。

当時、円覚寺には名だたる禅僧がたくさんいて、下手に問答をするとやりこめられてしまうものですから、他の寺の僧侶はなかなか近づこうとはしませんでした。

そんなわけで、了庵禅師の弟子たちも尻込みをして、誰も行こうとはしません。そこで慧春尼が「私が行きましょう」と名乗り出、禅師もそれを許可しました。

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2009-12-03

慧春尼(1)

11月29日の日曜日は、御朱印拝受のために神奈川県南足柄市の大雄山最乗寺、通称「小田原道了尊(おだわら どうりょうそん)」に参拝しました。


最乗寺 結界門

このお寺は、室町時代の応永元年(1394)、了庵慧明禅師(りょうあん えみょう ぜんじ)によって開かれた曹洞宗(禅宗)のお寺です。

このお寺は道了尊と呼ばれる天狗の信仰で知られ、稲荷信仰で名高い愛知県の豊川稲荷、龍神信仰で知られる山形県の善宝寺とともに曹洞宗の三大祈祷所に数えられます。

道了尊は、相模坊(さがみぼう)道了尊者(どうりょうそんじゃ)といい、もともとは修験道の行者として大峰山や熊野三山で修行され、大変な法力を身につけた方です。

了庵禅師の弟子となり、最乗寺の開創に尽力しました。その力は一人で500人力の仕事をしたといいます。応永18年(1411)了庵禅師が遷化(せんげ)されると、「以後、山中に入って大雄山を護り、衆生を利済する」と言って、火焰を背負い、右手に杖、左手に縄を持ち、白狐の背中に乗った天狗の姿に身を変じて、山中に身を隠したと伝えられます。

※遷化…高僧がお亡くなりになること。

以来、所願成就の信仰を集め、小田原道了尊として広く知られているのですが、今回は道了尊ではなく、了庵禅師の妹である慧春尼(えしゅんに)という方のことを取り上げたいと思います。

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2009-12-01

一切成就の祓

ブログのタイトルを神道の祝詞からつけておきながら、半月経っても一度も神道の話題を取り上げていないことに気づきました。なので、12月は神道の祝詞の話題から始めたいと思います。

今回取り上げるのは「一切成就の祓(いっさいじょうじゅのはらえ)」。

短いながらも深い意味を持った祝詞で、昔から非常に重視されてきました。「六根清浄の大祓」とセットにして「一切成就の大祓」ということもあるそうです。

極て汚きも滞りなければ穢きはあらじ(きわめてきたなきも たまりなければきたなきはあらじ)
内外の玉垣清浄と申す(うちとのたまがき きよくきよしともうす)

「滞り」は「たまり」と読んでいますが、「とどこおり」と読ませる資料もあります。「一切成就の大祓」は、まず「六根清浄の大祓」を唱え、続いて「一切成就の祓」を唱えます。

私も十数年来、毎朝唱えていますが(十年以上続けていることって、それぐらいです)、一日の調子がよくなるように思います。

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こまいぬ

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古今宗教研究所のブログです。

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