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2010-05-31

六根清浄の大祓(18)

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六根清浄の大祓(17)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言はず

前回は、「心に諸の不浄を言わず」について、マイナスの言葉をプラスに言い直す、それができなかった場合は、マイナスの言葉以上にプラスの言葉を言う、という側面から見ました。

しかし、「心に諸の不浄を言わず」というのは、もう一つ重要な側面があります。それは、過ぎたことはクヨクヨしない、ということです。

当たり前のことですが、阿頼耶識にマイナスのデータを入れないようにといっても、完璧にそれを防ぐなどということはできません。よほど出来た人ならともかく、我々普通の人間にとって、マイナスの言葉を一切言わないなどということも、まず不可能です。

そして、厳密に考えれば、いくらマイナスの言葉をプラスに言い直したから、あるいはマイナスの言葉以上にプラスの言葉を言ったからといって、すでに発せられたマイナスの言葉の影響がまったくなくなるということも考えられません。阿頼耶識に何らかのマイナスの影響を与えていることは間違いありません。

しかも、真面目な人ほど、一つの価値観を提示されると、それを厳格厳密に守ろうとする傾向があります。特に日本人はその傾向が強いようです。そうなると、マイナスの言葉を発してしまった、阿頼耶識にマイナスのデータを入力してしまったということを必要以上に気にするということになったりするわけです。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2010-05-29

宝禄稲荷神社

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先週の土曜日(5月22日)、「外れくじ供養」による開運祈願で知る人ぞ知る宝禄稲荷神社(ほうろくいなりじんじゃ)の宝禄祭に行ってきました。

宝禄稲荷神社は新宿区原町三丁目に鎮座しており、穴八幡宮の末社だというのですが、境外末社なのか、兼務社(宮司を兼任している神社のこと、宮司が普段いる神社のほうを本務社という)を「末寺」というような意味で「末社」といっているのか、そこのところは不明。

受験合格、子宝、ギャンブルの勝利、選挙の当選祈願などの御神徳があるとのこと。特に宝くじやギャンブルは御利益があるとか。神社にいらっしゃった町会の方が、「この間もロト6で当たったという話がありましたよ」とのことでした。

社頭に掲げられた「宝禄稲荷昔話」によれば、次のような話があったそうです。



昔、このあたりに大変くじ運の強い百姓がいたのだそうです。しかし、その百姓はもともとくじ運が強かったというわけではなく、富くじにお金をつぎ込んではいつも外れ、嫁さんからいつも怒られていました。

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theme : 神社・仏閣巡り
genre : 旅行

2010-05-28

六根清浄の大祓(17)

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六根清浄の大祓(16)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言はず

前回は、この部分が六根のうちの舌識(ぜっしき)ではなく、身口意の三業のうちの口業(くごう)であることから、六根清浄の大祓が問題にしているのは、仏教における六根のみならず、身口意の三業を含んだ、阿頼耶識に蓄積されうる情報すべてであるということを見てきました。

「意に諸の不浄を思いて 心に諸の不浄を想わず」というのは、意根と意業どちらにもとれますから、六根と身口意の三業のうち舌識と身業(行為)が抜けているということになります。だからといって、眼根・耳根・鼻根・身根・意根と口業・意業だけというのは変な話ですから、「眼に諸の不浄を見て」から「心に諸の不浄を想わず」までで六根と身口意の三業すべてを表しているとするのが妥当です。

そして、六根と身口意の三業すべてというと、それは阿頼耶識にインプットされる情報のすべてということになるわけです。

では、「口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言はず」ということなのですが、自分が自分の口に出したことを、阿頼耶識にマイナスのデータとして蓄積しないなどということが可能なのでしょうか。

そもそも、前に書いたように、もっとも手っ取り早く阿頼耶識にデータをインプットする方法として言葉を活用するわけですから、マイナスの言葉だからインプットしないなどという都合のいいことがあるはずがありません。

どういうことでしょうか。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2010-05-27

六根清浄の大祓(16)

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六根清浄の大祓(15)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

(こ)の故(ゆゑ)
目に諸(もろもろ)の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅(か)ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言はず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
(こころ)に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず


口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言はず

問題の部分です。

最初にも書いたとおり、六根清浄の大祓というのは、仏教用語を用いて神道の思想を説いた祝詞(祓詞)です。そもそも六根清浄というタイトルからして仏教用語なのですが、本来の意味に忠実な使い方をしているわけではありません。それがよくわかるのが、この「口に諸の不浄を言いて…」の部分です。

仏教における「六根」とは、(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)ですから、もし仏教用語としての用法に忠実に従うなら、ここは舌根(ぜっこん)、つまり味覚のことでなければなりません。

ところが味覚ではなく、言葉の問題が取り上げられています。ここが注意の必要なところです。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2010-05-25

六根清浄の大祓(15)

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六根清浄の大祓(14)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

是の故に 目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず


前回は、私たちの五官を通して入ってくる情報をプラスに解釈して阿頼耶識に蓄積しようとしても、それは私たちの心に湧き上がってくる「思い」に引っ張られること、その思いは阿頼耶識に蓄積された過去の種子(データ、業)によるので、マイナスの種子(データ)が多い人はマイナスの思いが湧き上がってマイナスの解釈を施しやすく、プラスの種子(データ)が多い人はプラスの思いが湧き上がってプラスの解釈を施しやすいということを見てきました。

さらに、根本的自我意識である末那識が、構成要素によって変化する阿頼耶識を永遠不変の絶対的な自己と錯覚し、執着し、守ろうとするため、それに反するようなデータを拒絶します。そのため、マイナスの種子(データ)が多い人は無意識のうちにマイナスのデータを取り込んでプラスのデータを拒絶しようとし、プラスのデータが多い人は無意識のうちにプラスのデータを取り込んでマイナスのデータを拒絶しようとします。

このような阿頼耶識と末那識の作用があるため、幸運な人はますます幸運になり、不運な人はますます不運になるということになるわけです。阿頼耶識にプラスのデータをインプットするためには、末那識というフィルターが問題になるわけです。

そこで、もっとも手っ取り早く末那識の妨害を受けずに阿頼耶識にプラスのデータをインプットする方法が言葉を活用した方法だというところまで見てきました。

これは、よく知られている方法として、1日千回「ありがとう」をいいましょうとか、「ツイてる」と言うとよい、というのがあります。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2010-05-24

六根清浄の大祓(14)

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六根清浄の大祓(13)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

是の故に 目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず


前回は、「心に諸の不浄を見ず」「心に諸の不浄を聞かず」「心に諸の不浄を嗅がず」ということについて、外部からどのような情報が入ってきても、それをプラスのものとして解釈し(少なくともマイナスのものとは解釈せず)、マイナスのデータとして阿頼耶識にインプットしないということを見てきました。

そして、同時に六根清浄の大祓には、これを唱え続けていれば、五官からマイナスの情報が入っても、阿頼耶識には入らないようになっていくという、さらに重要な仕掛けがあるというところまで説明しました。

今回はそれについて見ていきたいと思います。

外部から入った情報をプラスのものとして解釈する、あるいは少なくともマイナスのものとしては解釈しないとはいっても、マイナス思考の強い人にはなかなか難しいものです。そういう話を聞いた当初は、なるほどそういうものかと思って実行できるのですが、時間が経つうちに難しくなり、結局理屈ではそうだけど、とか、自分にはできないと思ってしまうものです。

その原因は、自分の思いというのも、阿頼耶識に蓄積された種子(過去の業、データ)から発生するため、阿頼耶識にマイナスのデータが大量に蓄積され、プラスのデータが少なければ、自然にマイナス思考になってしまうからです。

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theme : 宗教
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2010-05-22

徳もあるが、業も深い

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先日、ある宗教団体で中堅クラス…地域のスタッフをしている知人と話をして、いろいろ愚痴を聞いたり、アドバイスをしたりしたのですが、その中で、その教団に限らない誤りというか、たいていの宗教団体に共通する錯覚があることを再確認しました。

それは、宗教団体で人の上に立つ立場になるというのは、人よりも価値があるとか、清められた存在であるからではないということです。むしろ、先祖なり前世なりの業(マイナスの因縁)が大きいので、人のお世話をすることを通して、自分のマイナスの業を解消するために、そういう立場に立てられているのです。

もちろん、マイナスの業(因縁)が大きいだけで教団の幹部や信者のお世話をする立場になれるわけではありません。プラスの業(因縁)も大きいからこそなれるのであって、マイナスの業は大きいけれどもプラスの業は少ないという場合、とても人のお世話をすることなどできません。しかし、プラスの業が大きくてマイナスの業は少ないという場合、宗教団体で人のお世話をするなどという苦労をさせられる必要はないわけです。

ですから、およそ宗教団体の偉いさんが自分の下の人たちに偉そうにするなどというのはとんでもない話で、お世話をさせていただくことによって、自分が救われるのだという感謝の思いをもって接しなければなりません。自分が面倒を見ている人こそ、自分を救ってくれる人なのです。

そういう話になったのは、最近、その知人が体験した次のような話からの流れでした。

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2010-05-21

六根清浄の大祓(13)

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六根清浄の大祓(12)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

是の故に 目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず


前回は、阿頼耶識には自分の思考・言葉・行為という身口意の三業(カルマ)のみならず、五官を通じて入ってくるプラス・マイナスの情報が蓄積されていくということまでを見てきました。

しかし、六根清浄の大祓では、「是の故に 目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず」というように、五官からマイナスの情報が入っても、それをマイナスのデータとして阿頼耶識に蓄積してはいけないといいます。

それが可能になるのは、私たちが物事を見たり聞いたりするときに、見たまま、聞いたままを受け入れているのではなく、それに善悪好悪の解釈や感情を付け加え、プラス・マイナスの色づけをしているからです。

同じものを見ても、人によって感じ方が違います。

例えば、仕事で失敗して叱られたときに、自分が悪いのだからしかたがないと感じるか、嫌な目に遭わされたと腹を立てるか、期待されているんだと喜びを感じるかによって、阿頼耶識に蓄積される情報はまったく違ったものになります。

阿頼耶識にとって、客観的な情報というのはあまり意味がありません。主観的にどう解釈したか、どう感じたかということでプラス・マイナスに分けられ、阿頼耶識に蓄積されていくわけです。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2010-05-20

六根清浄の大祓(12)

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六根清浄の大祓(11)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

(こ)の故(ゆゑ)
目に諸(もろもろ)の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅(か)ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言はず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
(こころ)に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず


是の故に 目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず


六根清浄の大祓の中でも、この部分が人気の秘密ではないかと思われます。意味ももちろんですが、唱えても非常に調子がよい部分です。『観音経』の「念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)の繰り返しにも通じる、呪術的な力強さが感じられます。

ところで、「眼に諸の不浄を見て」から「心に諸の不浄を想わず」までは六根清浄の具体的な内容であり、ひとまとめにして取り扱ってよいところなのですが、口と意は注意を要するため、とりあえず鼻までで区切ることにします。

「是の故に」とあるように、ここからの部分は、人は神様の分霊をいただいた尊い存在なのだから世の中を静謐にする役割を果たしなさい、心は神明の主宰であるから心神(わがたましい)を傷ましめてはならない、という天照大神の神宣を受けて、私たちがどうすべきかということを説いた内容です。

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2010-05-18

六根清浄の大祓(11)

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六根清浄の大祓(10)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

心は則ち神明の本主たり 心神を傷ましむること莫れ

前回は、「心神を傷ましむる」とは、阿頼耶識(潜在意識)にマイナスのデータをインプットすることだというところまで説明しました。それは、我々の心の内なる神様の分霊(わけみたま)を傷つけたり汚したりするのと同じことです。

そして、阿頼耶識にインプットされたマイナスの情報は、マイナスの種子として蓄積され、マイナスの現象を生じさせます。幸も不幸も心次第、自分の阿頼耶識次第です。ですから、マイナスのデータを阿頼耶識に入れないということが非常に重要になるわけです。

これが「心神を傷ましむることなかれ」ということだというのは、もはや言うまでもないと思います。そして、心神を傷ましむるということが気枯れ(けがれ)=穢れになります。

阿頼耶識にマイナスのデータが蓄積されることにより、心が汚れ、あるいは曇り、神様の分霊の力が弱まってしまいます。つまり気が枯れてしまうわけで、これを気枯れ=穢れというわけです。

このことを踏まえれば、六根清浄の大祓(2)で見た『伊勢二所皇大神御鎮座伝記(いせにしょこうたいじんごちんざでんき)』に出てくる神託で、内外潔斎の日には死者の弔いや病人の見舞い、死刑の判決や刑の執行、武器の使用をしてはいけないというのも、阿頼耶識にマイナスの情報を入れてはいけないからです。本来、神様のお祭りをするというのは、それぐらい潔癖なものでした。

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theme : 宗教
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2010-05-17

六根清浄の大祓(10)

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六根清浄の大祓(9)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

心は則ち神明の本主たり 心神を傷ましむること莫れ

前回は仏教の八識(九識・十識)を簡単に見た上で、六根清浄の大祓における「意(こころ)」が第六意識に、「心(こころ)」が第八阿頼耶識に相当するというところまで見てきました。

「神明の本主」たる心、「心神(わがたましい)を傷ましむることなかれ」という「心神」は第八阿頼耶識(あらやしき)のことだと言えるわけです。

厳密に言えば、「心神」というのは第九阿摩羅識(あまらしき)つまり自分の心の内にある神様の分霊(わけみたま)まで含むとも考えられます。しかし、実際には神様の分霊というのは般若心経などでいう「不生不滅 不垢不浄」ですから、傷ついたり汚されたりすることはありません。ただ、それは私たちの心として現れますから、心=阿頼耶識を傷つけたり、汚したりすれば、それは神様の分霊を傷つけたり汚したりするのと同じことになるわけです。

ですから、実際問題としては、阿頼耶識を傷つけたり汚したりしないということを考えればよいということになります。

では、阿頼耶識を傷つけるとか汚すとはどういうことでしょうか。

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2010-05-15

都内の神社の新しくなった御朱印

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先日、手許にある都内の神社の御朱印を整理していて、ここ5年間の間に少なからぬ神社の御朱印が変わっていることに気づきました。

もちろん、すでにいくつかの神社の御朱印が変わっていることはわかっていました。

目で見て顕著な変化がわかるのは港区新橋の烏森神社



左から平成17年、平成18年、平成21年に拝受したもの。

平成17年に拝受したものは「烏森神社」という社名の印、18年のものは、烏森という社名と神社の由緒から新しく作った社紋の印で、当時は申し出ればどちらの印でもいただくことができました。

その後、宮司さんが変わったのだと思うのですが、けっこう新しいセンスを取り入れた運営をされているようです。その一環として御朱印も新しい社紋の印を中心に、本来の社紋である三つ巴を四隅に4色で配置するという、全国の寺社でもっともカラフルな御朱印と言われるものになりました。初穂料も500円に。

一見しただけでは気づきにくいのが杉並区の阿佐谷神明宮

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2010-05-14

六根清浄の大祓(9)

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六根清浄の大祓(8)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

心は則ち神明の本主たり 心神を傷ましむること莫れ

前回は、心とは何かということが重大な問題だということ、六根清浄の大祓では「こころ」でも「意」と「心」の使い分けがあり、「意」は通常私たちが自分の心だと思っている顕在意識(現在意識、いわゆる意識)、「心」は潜在意識(無意識)だというところまで説明しました。今回は、これをもう少し詳しく考えていきたいと思います。

西洋において無意識を発見したのはフロイトであり、まだ100年少々しか経っていません。しかし、インドの大乗仏教においては4世紀に現れたとされる瑜伽行唯識派(ゆがぎょう ゆいしきは)の人々が無意識の世界について解明しています。

この人々は瑜伽行(ヨーガ、つまり瞑想のこと)を実践することによって、自らの心の奥底を探求していったのでした。

大乗仏教にはさまざまな宗派がありますが、すべての宗派はインド大乗仏教の二大学派である中観派の空の思想と瑜伽行唯識派の唯識の思想をベースとしていますから、すでに奈良時代以来、日本においても無意識の世界の存在は(そう呼ばれなくても)知られていたのです。

因みに、『西遊記』の三蔵法師として有名な玄奘三蔵がインドへ行ったのは、この唯識派の教えを学び、その経典を持ち帰るためでした。その系統が興福寺や薬師寺に伝わる法相宗ですが、これを最初に日本に伝えた道昭・智通・智達などは、玄奘から直接教えを受けています。

六根清浄の大祓も、この唯識の考え方をベースにしています(そのものでないことは、既に述べたとおりですが)。ですので、唯識でとかれる心のあり方について少し見ておきたいと思います。それによって次節以降もわかりやすくなると思われます。

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2010-05-13

六根清浄の大祓(8)

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六根清浄の大祓(7)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

心は則ち神明の本主たり 心神を傷ましむること莫れ

いよいよ当ブログのタイトルでもある「心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ」です。

「心神」と書いて「あがたましい」と読ませるのが正しいようです。「あが」とは「我が」の古語ですが、ひらがなで書くと意味がわからなくなるので、当ブログでは「わが」と書いています(私のサイトの祝詞のほうは「あがたましい」としてあります)。

柄澤照覚氏は、「心神」を「あがたましい」と読ませることについて、「心は一心の主にして魂魄(たましい)をおさむるの故なり、或(あるい)は魂(こん)は心神(たましい)に随而(したがいて)往来(おうらい)するのゆえなりともいう」というのですが、わかるようで、わかりません。

ただ、続く「傷ましむることなかれ」の説明で、「本心に備えたる神霊(たましい)を破り損なうことなかれという義なり」と言っていますから、要は「(自分の)たましい=(自分の心の内にある)神様の分霊」という理解でよいと思われます。

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2010-05-11

六根清浄の大祓(7)

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六根清浄の大祓(6)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

心は則ち神明の本主たり 心神を傷ましむること莫れ

前回は、私たちが神様の分霊(わけみたま)をいただいた存在であり、自分の心を通して根源の神様とつながっていること、その神様がどのように現れるかは自分の心次第であるということを考察しました。

我々は神様の分霊をいただいている存在ですが、我々と神様の接点が自分の心です。我々の内なる神様は心というフィルターを通して働きますから、心の状態が投影されます。愛の神や裁きの神、福の神や貧乏神などいろいろな神様がいますが、すべて自分の心の現れといってもいいぐらいです。

そういう意味では、自分の心が自分にとっての神といっても言い過ぎではありませんが、柄澤照覚氏が注意を促しているように、自分の心以外に神がないというわけではありません。自分の心が根源の神というわけではなく、また、厳密には自分の心が神の分霊そのものというわけでもありませんが、自分の心のあり方が自分にとっての神の性格を決めているため、自分にとっての神様は自分の心だと言っても過言ではないということです。

自分にとっての神様が、どのような神として現れるかは自分の心が決定しているために「心は神明の本主である」、心が神明の主宰者だというわけです。

さて、神道において自分の心の内なる神を重視することはこれまで見たとおりですが、そうはいっても神道といえば神社とお祭りを連想するように、いわば自分の外にいらっしゃる神様にも礼拝したり祈願したりします。これはどうなるのでしょうか。

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genre : 学問・文化・芸術

2010-05-10

六根清浄の大祓(6)

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六根清浄の大祓(5)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

天照皇太神(あまてらしますすめおほみかみ)の宣(のたま)はく 
(ひと)は則(すなは)ち天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり
(すべか)らく静謐(しずめしずまること)を掌(つかさど)るべし
(こころ)は則(すなは)ち神明(かみとかみと)の本主(もとのあるじ)たり
心神(あがたましい)を傷(いた)ましむること莫(なか)


心は則ち神明の本主たり 心神を傷ましむること莫れ

ここまでが天照大神の神宣になります。非常に重要な一節ですが、ここも不思議な言葉の使い方をしています。特に「神明」を「かみとかみと」と読ませるところが不思議です。

「心は則ち神明の本主たり」について柄澤照覚氏は、「本主」の「主」は主宰の意味で、心は神の本体であるという意味だとしています。主宰とは、全体を指導して物事を進める立場で、一切は心によって動かされるわけですが、心は神明であるとはいわずに、神明の本主であるとするところがポイントだと柄澤氏はいいます。

というのは、「心は則ち神明なり」というと、心の他に神明はないものと誤解し、神明を敬う心が薄れてしまいかねません。「神明の本の主たり」ということであれば、神明は賓客の立場、心は本の主で、別のものではなくても両者が一致するよう努力しなければならないということを示す方便であるとします。

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2010-05-08

総社六所宮(大國魂神社)

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5月5日は大国魂神社(東京都府中市)のくらやみ祭でした。

平成15年から昨年までは府中に住んでいましたので、特に用事がないかぎりは3日の駒比べ、4日の山車行列、5日の神輿渡御、6日早朝の神輿還御と見にいっていました(参考:平成15年のくらやみ祭)。今年はどうしたものかと思ったのですが、やはり、御先払いの太皷の音を聞かないと落ち着かないということで、5日の神輿渡御のみ見てくることにしました。



六張りの大太鼓が神輿の先導をするのですが、その先頭を進む御先祓大太鼓は皮の直径が約2m、刳り抜き胴の太鼓としては日本でも最大級の太鼓です(昭和60年にできた当時は日本一だったとか)。



五・六之宮の御太鼓。この人は、今回見た中でもっとも力強い打ち方をしていました。直径1.87mで、大国魂神社の太鼓では2番目の大きさです。

さて、タイトルを「くらやみ祭」としていないように、今日はくらやみ祭そのものを取り上げようというのではありません。大国魂神社は、江戸時代までは総社六所宮、あるいは六社明神と呼ばれたように、武蔵国の主だった六つの神社の神様をお祀りしています。

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2010-05-07

六根清浄の大祓(5)

六根清浄の大祓(4)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

人は則ち天下の神物なり 須らく静謐を掌るべし

前回は、「須(すべか)らく静謐(しずめしずまること)を掌(つかさどる)るべし」の実例として、私の知人の話をしました。

彼女は、夫がリストラされ、先の見通しも立たないという状況で(といっても、当然、失業保険はもらっていたわけですが)、自分が騒いでもしかたがない、これも意味があることに違いないと思い、心を動揺させませんでした。

過去を振り返らず、先々を心配せず、ただただ自分の心を静め、周りの心を明るくするように努力しながら、その時その時を(必ずしも一生懸命ではなく)生きていった結果、自分たちでも期待していなかったような結果になったわけです。

そのことを踏まえた上で、もう一度「須らく静謐を掌るべし」ということを考えると、非常に重要なポイントがあります。

彼女は柄澤照覚氏が言うように自分の精神を静謐にしたというのにとどまらず、家族が暗くなったり、嫌な思いをしないように努めました。というより、ある意味で家族のことを考えたからこそ、自分の精神を落ち着けることができたという面もあるでしょう。

とすると、それは「須らく静謐を掌るべし」の文字通りの意味である「世の中を静かで安らかにする役割を果たすべし」ということを実践していたということではないでしょうか。 

考えてみれば、もし自分の精神を静謐にするということだけを言いたいのであれば、わざわざ「掌る」とは言わないでしょう。わざわざ「掌るべし」とあるのは、それだけの意味があるはずです。

とすれば、この部分は自分の精神を静謐に保ちなさいというだけにとどまらず、自分の周囲を静謐に保つ、静かで安らかにすることを掌さどりなさいという意味とするのが正しいように思われます。

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2010-05-06

六根清浄の大祓(4)

六根清浄の大祓(3)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

人は則ち天下の神物なり 須らく静謐を掌るべし

前回は「人は則ち天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり」について、人間は誰しも神様の分霊(わけみたま)をいただいた尊い存在であるということだというところまで説明しました。

その尊い存在である私たち人間が何をしなければならないかというと「須らく静謐(しずめしずまること)を掌るべし」ということです。

文字通りに解釈すると、「静謐(せいひつ)」は静かで安らかなこと、特に世の中が静かに治まることと辞書にあります。「四海静謐」というと、世の中が平和であることです。「掌る」というのは「司る」と同じで、辞書には「官職として担当する。その事務に当たる」とあります。

つまり、「神の分霊をいただいた存在として、世の中を静かで安らかにする役割を果たすべし」ということなのですが、祝詞全体から考えて、少々大げさな気もします。

これについて、柄澤照覚氏は静謐(しずめしずまる)とは精神を静謐にすることを言っているとします。心は、外からの刺激や情報、あるいは自分の中のさまざまな考えや感情などにとらわれやすく、それによって動揺しやすいので、心を静かにするよう努めるのが神道の基本であるというわけです。

私たち人間は天下の神物、すなわち神様の分霊をいただいた尊い存在であり、無限の可能性を持っていますが、心が動揺していたのでは、とうていその力を発揮することはできません。

武道家でも、スポーツマンでも、動揺したり緊張したりしていては能力を発揮することができません。心を静かにする、さらに無念無想といわれる状態になったときに、普段以上の力を発揮することができます。

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2010-05-04

六根清浄の大祓(3)

六根清浄の大祓(2)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

それでは冒頭から見ていきましょう。

天照皇太神(あまてらしますすめおほみかみ)の宣(のたま)はく 
(ひと)は則(すなは)ち天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり
(すべか)らく静謐(しずめしずまること)を掌(つかさど)るべし
(こころ)は則(すなは)ち神明(かみとかみと)の本主(もとのあるじ)たり
心神(あがたましい)を傷(いた)ましむること莫(なか)


この部分は、前回見た『伊勢二所皇大神御鎮座伝記』の託宣の冒頭部分をより詳しく説いたものといえるでしょう。

天照皇太神の宣はく

言うまでもなく「天照皇大神様がお告げになりました」という意味で、以下の内容が天照大神の託宣であるということを示しています。しかし、このような始まり方をする祝詞は他に見当たりません。

明治から昭和にかけて活躍した稲荷山神誠教会の創立者・柄澤照覚の『六根清浄大祓図会・中臣大祓図会』によれば、これは、この神宣(神様の託宣)が信じるべき価値があるものであることを標榜し、その教えが疑いのないものであることを示すために、わざわざ神名をあげているのだとします。

そして、「宣はく」つまり天照大神の託宣であるというのは、この祝詞が神様の精神神徳を分け出したものであり、言葉の一つ一つが神体であるということだといいます。ですから、この祝詞を読めば天照大神が読む人の心に降臨されるので、あらゆる災難も消滅し、願い事も成就するのだと説いています。

つまり、この祝詞として珍しい始まり方は、この祝詞の霊験が極めて大きいことを示しているといえるでしょう。

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2010-05-03

六根清浄の大祓(2)

六根清浄の大祓(1)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

全文はリンク先で見ていただき、こちらには掲載しません。

六根清浄の大祓は「神道五部書」の中の一書『伊勢二所皇大神御鎮座伝記(いせにしょこうたいじんごちんざでんき)にある託宣が元になっていると思われます。

神道五部書というのは、鎌倉時代に成立した伊勢神道(外宮の神官である渡会(わたらい)氏によって体系化されたので度会神道ともいう)の根本経典で、主に外宮の立場から伊勢神宮の由緒などをまとめたものです。

それによりますと、雄略天皇22年(478)11月の新嘗祭の夜、伊勢神宮の祭祀を司っていた倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)から次のような託宣を受けたそうです(豊受大神は外宮の御祭神)。

まず、原文を引用します。

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2010-05-02

東京スカイツリーを見てきました

本日、江東天祖神社の御朱印帳を入手し、ついでに亀戸天神社で藤を見てこようと思い、江東天祖神社にもっとも近いと思われる半蔵門線押上駅で降りました。

ところが、どうしたことか、人がいっぱいです。過去、何回か押上駅を使ったことはありますが、そんなに人が乗り降りするような駅でははず。

……と思ったのですが、地上に出て納得。みんな、東京スカイツリーを見に来ていたのでした。まあ、ゴールデンウィークということもあるのでしょう、大変な人出でした。

既に立派な観光地ですよ、あれは。

せっかくなので、私も見学することにしました。あまり時間はなかったので、北十間川にかかる京成橋から見ました。



現在の高さは358メートルだそうです。

広角のカメラだったので余裕で収まりましたが、それでも完成後は、あの距離で全体を納めるのは難しそうです。なにしろ、まだ倍近い高さになるとのことですから。

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新下町伝説 超天空610m墨田に東京スカイツリーがそびえる新下町伝説 超天空610m墨田に東京スカイツリーがそびえる
(2008/07/11)
東京新聞編集局

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2010-05-01

六根清浄の大祓(1)

六根清浄大祓(古今宗教研究所)

当ブログのタイトル「莫令傷心神(わがたましいをいたましむることなかれ)」が「六根清浄大祓(ろっこんしょうじょうのおおはらえ)の一節からとったものであることは、第一回目の記事に書きました。

これは非常に人気がある祝詞で、ネット上でも多くの人が取り上げ、全文を掲載しているところもいくつかありますが、今から12年前、私がサイトを立ち上げた時には、私の知る限り、この祝詞をネット上で見ることはできませんでした。ですから、ネット上にアップしたのは、私が最初ではなかろうかと自負しています(たぶん)。

※上のリンク先がそうですが、当時はルビもなく、ただテキストを貼り付けただけでした。

私が六根清浄の大祓を知ったのは、さらにその前、平成7年頃でした。当時、私は統一教会に入信していましたが、内部の有り様を見て疑問を抱き、本当に正しい教えを求めて模索していました。

すでに(昨年亡くなった)師匠には出会っていましたが、なにしろ体系的に教えを説くタイプではなく、また本人に「教える」というよりは「気づかせる」ということを重視していましたから、詳しく説明はしてもらえず、言われたことを理解するための努力が必要だったわけです。

そんな中で、ちらっと教えられたことの一つが「六根清浄の大祓」でした。

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