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2010-06-29

金光大神(2)

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金光大神(1)

前回は、金光大神(こんこう だいじん)が12歳の時、川手粂治郎の養子となり、名を川手文治郎と改め、周囲からは文治と呼ばれたところまででした。

粂治郎夫妻は、文治郎が新しい生活になじめるよう心を砕いたようです。

養子に入ったとき、そして、「嫌いなものは何か?」と聞くと、「私は麦飯が嫌いです」と答えたそうです。ただ、これは単なる好き嫌いということではなく、文治郎は幼少の頃から体が弱く、体質的に麦が合わなかったのだそうです。

とはいえ、当時は麦飯を食べるのが当たり前の時代でしたから、これはとんでもない答えでした。それでも、粂治郎は麦2升と米1升を交換してまで、文治に米の飯を食べさせたといいます。

さらに「好きなものは何か?」と尋ねました。すると文治郎は、「神仏に詣るのが好きなので、休日には快う詣らせてください」と答えました。これも思いがけない答えでしたが、粂治郎夫妻は、月に一、二度の休みのことだから、好きにすればよいと許してくれました。

このように、川手家では大切にされた文治郎ですが、やはり他村生まれの養子というのは肩身の狭いもので、村では長い間よそ者として扱われたといいます。ある時、遊び仲間に誘われて賭け事に手を出し、お金を取られて養父母に叱られたことがありましたが、それも仲間はずれにされたくないという思いから、断り切れなかったためだそうです。

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genre : 学問・文化・芸術

2010-06-28

金光大神(1)

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金光教祖の教えは「生神金光大神 天地金乃神一心に願 おかげは和賀心(わがこころ)にあり 今月今日でたのめい」という「天地書附(てんちかきつけ)」に端的に示されています。

「天地書附」は、礼拝の目当てとして与えられるお札のようなものですが、あくまで信仰対象ではなく礼拝の「目当て」であると強調されています。天地の神は宇宙に偏在しているので、どこにいても、どこに向かっても礼拝は可能なのですが、それでは普通の人にとっては心許ないので与えられたものです。

「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出てみよ、空が神、下が神」(金光教祖御理解)

しかし、内容を見れば「おかげは和賀心にあり」というように、信心の持ち方について書かれています。「和賀心」というのは、「我が心」とめでたく和やかな心を掛けたものです。

つまり、「一心に願え」「今月今日でたのめい」とあるように、神様が守ってくださっていることを信じ、よぶんな心配はせず、恐れや不安を持たずに一心に願いなさいということです。神様の恩恵はすでに与えられているのですが、問題はそれを受け取る自分の心にあるということを強調しています。

もう一つの特徴は、日柄・方位といった俗信にこだわらないことです。

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theme : 宗教
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2010-06-26

婚活・就活なら口入稲荷神社

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台東区清川二丁目に鎮座する玉姫稲荷神社。社伝によれば、天平宝字4年(760)に京都の伏見稲荷を勧請したのが創建と伝えられます。



玉姫稲荷神社公式サイト:http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/5985/index.htm

氏子地域に靴の製造業者が多いことから、年に2回、靴市が開かれるそうです。紳士靴や婦人靴、子供靴、スニーカー、サンダル、さらには財布、ハンドバッグ、ベルトなどが市価の6割引きから8割引きで買えるとか。足形無量測定や外反母趾の相談コーナー、さらに靴供養や靴神輿のお練りなど多彩な催しもあり、毎年5万人の人出で賑わうそうです。

さて、この玉姫稲荷の境内に摂社の口入稲荷神社というのがあります。


口入稲荷神社

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genre : 旅行

2010-06-25

金光教祖の御理解 その3

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金光教祖も初期には般若心経や大祓とともに六根清浄大祓をあげていたようです。そのため、御理解の中にも六根清浄大祓を引用したものがいくつかあります。

「金乃神のお祓が、ちと違うぞ。大晦日に借銭を払うてしまうがよし。これが金乃神のお祓ぞ」
と巳の年(金光教祖は信者を干支で呼ぶことがあった)に理解あり候。
「なんぼう金神に信心しても、借銭をこしらえては腹をいためるぞ。そこで、信心は腹からといおうがな。腹をいためるは不信心なり。それで、金光が教えてやるぞ。『心はすなわち神と神とのもとのあるじたり。わが魂をいたましむることなかれ』ということがあろうがな」
とお話しあり。また、
「金神をまつっても、その身の魂をいためては、信心にならず」
(市村光五郎の伝え)


めいめいに信心しなさいと言うのは、六根の祓にも、「霊と同体なるがゆえに、なすところの願いとして成就せずということなし」とあるごとく、神様のような心でおれば神様と同体である。かような心になり、こういう考えで信心しなさい。めいめいに願うて、直々のおかげが受けられます。また、六根の祓にもあるごとく、目耳鼻口身意(こころ)、諸の不浄がありても、この六つの物がまめにあるからおかげであると思うて信心しなさい」
(山本定次郎の伝え)


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theme : 宗教
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2010-06-24

金光教祖の御理解 その2

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金光大神(金光教祖)の言葉というのは素朴で飾らない言葉ですが、そもそも教祖の言葉というのはそういうものではないかと思います。例えば釈尊やイエス・キリストでも、伝えられている言葉というのは、飾らない言葉が多いものです。

そういえば、次のような御理解があります。

「人を殺さないといっても、心で人を殺すのが重大な罪である。人を鉄砲でうったり、刀で切ったりしなければ、私は人を殺してはいないというが、それは目に見える。目に見えない心で人を殺すことが多い。それが神様のご機感にかなわないことになる。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうから、それでかたづく。心で殺すのは神様からおとがめになる」
と仰せられた。心で殺すとはどのようなことかということについては、
「病人でも、これは大病でとても助からないなどというが、これが心で殺すことになる。氏子の心では、助かるか助からないか、わかりはしないであろう。また、あの人は死ねばよいと言ったりもする。それがみな心で殺すのである。それよりは、どうぞ向こうが改心しますようにと、神様に祈念してやれ」
と言われた。
(佐藤光治郎の伝え)


これは、次のようなイエス・キリストの言葉を思い起こさせます。

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theme : 宗教
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2010-06-23

人の縁こそ解決の鍵

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昨日、広島のマツダ宇品工場で11人が死傷する無差別殺人事件がありました。犠牲になられた方のご冥福をお祈りするとともに、被害に遭われたかたにお見舞い申し上げます。

マツダ工場 元従業員暴走 不安定な雇用、トラブル続発(産経新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100623-00000031-san-soci


逮捕された引寺利明容疑者は、マツダで期間従業員として働いた経験があった。平成20年の東京・秋葉原の無差別殺傷事件で逮捕された男も、自動車メーカーへの派遣契約打ち切りに遭っていた。犯行との因果関係は不明だが、期間従業員や派遣社員が置かれている不安定な状況は社会問題となっている。(以下略)

上の記事で、ノンフィクション作家の佐野真一氏は「背景に派遣労働者の問題があると決めつけるのは時期尚早だ」とコメントしていますが、その通りだと思います。

不安定な雇用、ひいては将来が不透明な社会が、人の心に巣くう不安や殺意を表面化させやすくしていることは間違いありませんが、そういう状況で無差別殺人を起こす人などごくごくまれにしかいないわけですから、本質的には当人の問題だと思います。

なにより、この犯人は今年3月に期間従業員としてでも採用されているのですから、むしろ恵まれているほうです。この時、採用されなかった人だって少なからずいたはずです。にも関わらず、一身上の都合で退職したというのは、本人になんらかの問題があったと考えるのが自然です。

まあ、そういう問題も、育ってきた環境その他によって作られてきた面もあるでしょうから、私としては一概に本人を責めるのも酷だとは思います。しかし、だからといって他人を殺したり傷つけたりしてよいということはありえないわけで、やはり責任は本人以外に求めようがありません。

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theme : 刑事事件・裁判関連ニュース
genre : ニュース

2010-06-22

金光教祖の御理解

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金光教の教典には、教祖の没後、信者たちから聞き取った話が「御理解集」として納められています。短いものから長いものまであり、信者の理解のレベルもまちまちではありますが、それだけに、当時の様子が活き活きと伝わってきます。

例えばこんな感じです。

「津川さん、あなたもよく堪忍なさる。神様が感心しておられる。それでなければならないが、もう一つ進むがよい」
「はい、どのようにでございますか」
「あなたは、腹が立ってもこらえてこらえて、それを腹の中へおさえこんでおられる。それではわが体をこわす。もう一つ進んで、腹の立つことを知らないということになるがよい。それには、悪いことがきても、『これは自分が犯した罪のめぐりか、先祖の犯した罪のめぐりであろう。これで、一つめぐりを取り払ってもらうのだ』と思うがよい。また、それに相違ないのであるから」
と言われた。恐れ入った。そして、困った。なかなか信心はできるものではないと思った。
(津川治雄の伝え)


非常に味わい深い内容です。

仏教の六波羅蜜(ろっぱらみつ)にも辱めに堪える忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)というのがあり、だいたいにおいて堪忍する、我慢するという意味に考えがちですが、そうではなくて、腹が立たないように智慧によって原因から取り除くということでしょう。

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theme : 宗教
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2010-06-21

日々家内心得の事と慎誡

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日本の新宗教といってもいろいろあり、年代的にも江戸時代に現れたものから今できつつあるものまでありますし、規模についても法人になってない小規模なグループから八百万世帯を称する大教団まであります。

新宗教といえば(特に新興宗教という言い方をすれば)いかがわしいものという印象がありますが、2千年前にはキリスト教も新宗教でしたし、2千5百年前には仏教も新宗教でした。

浄土宗や真宗、日蓮宗などは鎌倉時代の仏教系新宗教です。およそ創唱宗教で新宗教でなかったというものはありません。

あるいは、伝統宗教を称していても、教えや実践の内容を見ると、いかがわしい類の新宗教と変わらないところもあります。しっかりした新宗教のほうが、よほど宗教として優れていると思われることもあります。例えば元信者団体と骨肉の醜い争いを繰り広げている宗派とか。

それはともかく、「心神(わがたましい)を傷ましむることなかれ」という観点から見ると、日本の新宗教の中には優れた教えを持つ教団が少なくないのですが、その中でも黒住教と金光教は非常に優れた内容を持っていると思われます。

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2010-06-19

江島杉山神社の岩屋

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墨田区千歳一丁目(もとの本所一ツ目)に江島杉山神社があります。近代鍼術中興の祖とされる杉山和一(杉山検校)の屋敷跡で、世界最初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」があった場所です。

初音森神社の兼務社で、普段は人がいらっしゃらないのですが、例祭なら宮司さんもいらっしゃるだろうということで参拝したところ、予想は的中、無事に御朱印をいただくことができました。

江島杉山神社公式サイト


江島杉山神社

御祭神は市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)、杉山和一検校(すぎやまわいちけんぎょう)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)

杉山和一は慶長15年(1615)、安濃津(現在の津市)に生まれたとされます(諸説あるようです)。幼い頃に伝染病で失明しました。16歳の時、江戸の盲人鍼医・山瀬琢一に入門しますが、記憶力が悪く、技術も向上しないため、22歳で破門されます。

そこで、江ノ島弁財天に詣で、岩屋に籠もって二度の断食修行を行いました。その帰り、石に躓いて倒れたときに、何かが手に刺さりました。何かと思うと、丸くなって管状になった枯れ葉の中に入った松葉でした(竹の筒の中だったとも)。そこから鍼の施術法の一つである管鍼法(かんしんほう)を思いついたと言われます。

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2010-06-18

ナスレッディン・ホジャとロバ

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人からのアドバイスに耳を傾けず、自分のやり方を貫くというのはあまり賢明なことではありません。自分のやり方にこだわらず、人の智慧を借りるというのは大切なことです。

しかしながら、一方で人のアドバイスを気にかけすぎると、何事もうまくいきません。物事を成し遂げている人というのを見ると、まず例外なく我が儘で、人の意向を気遣うよりも自分のやりたいようにやっています。もちろん、そこにやり方の上手下手はありますが。

「心神(わがたましい)を傷ましむることなかれ」というためには、いい人であるというのは考え物だとつくづく思います。

さて、日本でとんち話といえば一休さんや吉四六さんが有名ですが、トルコではナスレッディン・ホジャという人物が有名です。現在のトルコに留まらず、かつてのオスマン・トルコの支配領域やトルコ系民族の居住地域であるであるルーマニアやブルガリア、旧ユーゴスラビアあたりからカフカス・中央アジアあたりまで語り継がれているそうです。

一休さんや吉四六さんはとんちでもって相手をやり込めるという傾向が強いのですが、ナスレッディン・ホジャの場合、相手をやり込める話もありますが、それよりも予想外の言動をするという傾向が強いようです。

ある日、ナスレッディン・ホジャは衣嚢(かくし、ポケット)に桃をいっぱい入れて、それを見せびらかしながら街を歩き、通りがかった人に
「この中に何があるかわかるかね? 当てたら、一番大きな桃をあげるよ」
と言いました。すると、相手は
「桃だ」
と答えました。
ホジャはびっくりして、
「これは驚いた。どこの卑怯者が教えたんじゃ!」
と言いました。


とまあ、こんな調子です。

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2010-06-17

六根清浄の大祓(28)

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六根清浄の大祓(27)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

六根清浄の大祓、思ったより長くなりましたが、一通りその内容を見てきました。最初にも書いたように、深く読み込めば読み込むほど中身のある祝詞です。

しかし、結論は非常に簡単で、「心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ」ということに尽きます。

それは、自分の心(阿頼耶識)の中にマイナスのデータを蓄積しないということです。

そのためには、まずマイナスの情報に接しない、マイナスの行為や言葉、思いをしないというのが第一ですが、それを完璧に守ることは不可能ですから、マイナスの情報や行為・言葉・思いがあったとしても、それをプラスに転換する、あるいはマイナスを受け入れないようにすることが大切です。

それを言霊の力によって実現するのが祓詞というわけです。

心神を傷ましめなければ六根は清浄となり、六根が清浄であれば私たちの内なる神様の分霊(わけみたま)がそのまま現れるので天地の神様につながり、そうなればこの世の一切のものと同体であるからすべての願いは成就する、ということです。

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2010-06-15

六根清浄の大祓(27)

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六根清浄の大祓(26)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

天地の神と同根なるが故に 万物の霊と同体なり

私たちは天地の神、すなわちサムシング・グレートの分霊(わけみたま)をいただいた存在です。言い換えれば、サムシング・グレートのこの世における現れでもあるわけです。

ですから、「心神(わがたましい)を傷」ましめず、その本来の姿である内なる神様の分霊がそのまま現れれば、私たちは神様の現れとなります。それが「天地の神と同根なり」ということでした。

そして、この世に存在する一切のものも、神様の分霊をいただいた存在ですから、神様の現れということになります。つまり、「我」という小さな自分から解き放たれれば、自分もこの世の一切の存在も神様の分霊であり、別々のものとして現れていても同体であるということです。

言い換えれば、私たちはこの世界の一部であって、そこから切り離されて独自に存在しているわけではないということです。

地球をある種の一つの生命体と見る「ガイア理論」などというものもありますが、すでにそういった考え方が六根清浄の大祓の中に見られるわけです。

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2010-06-14

六根清浄の大祓(26)

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六根清浄の大祓(25)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり

この部分を「心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ」という神宣(当ブログが一番重視している)からも整理しておきます。

「五臓の神君安寧なり」というのは、言い換えれば「心神を傷ましむること莫れ」ということが実現した状態のことです。

入り口である六根が清浄であるということは、そこから入ってきた情報によって心が悩まされたり、腹を立てたり、虚勢を張ったり、といったように心を動揺させることがありません。

「神明(かみとかみとの)の本主(もとのあるじ)たる心が外からの情報に振り回されず、しっかりと安定すれば、私たちの内なる神様の分霊(わけみたま)がそのままに現れてくるわけです。

五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり

前の部分で見たように、五臓の神君が安寧になる、つまり身心が安寧になれば、私たちの内なる神様の分霊がそのまま現れてきます。

私たちの内なる神様の分霊というのは、天地の神、現代風にいえばサムシング・グレートにつながっていますから、「天地の神と同根なり」ということになります。

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2010-06-12

葬儀と散骨

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先日、ある日蓮宗の中堅のご住職から話を聞く機会があったのですが、なかなか部外者からはわかりにくい実情や実感の部分を聞かせていただき、非常に勉強になりました。

布教師の教育にも関わってこられた方で、伝統を踏まえながらも新しい寺院のあり方を模索している非常にユニークな方です。檀家が少ないため、法務による収入は5%で、後は収益事業でまかなっているということでした。

収入面で檀家に負担をかける必要がなく、そのぶん葬儀などに対して客観的な見方をしており、家意識の変化など、精神的な過渡期にある日本の現状というものの一端を知った感じです。

中でも興味深かったのは、近年、葬送の自由を進める会などが進めている散骨についての評価でした。

檀家さんや、お寺を訪れる人の中にも散骨をされた方や、散骨を希望される方がいるので、そういう人から散骨に対する感覚を聞いたのだそうです。あくまで多人数に調査したわけではなく、ご自分が接した範囲で聞いた話なので、必ずしも一般的な意識かどうかを確認したわけではないと断った上での話でした。

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2010-06-11

六根清浄の大祓(25)

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六根清浄の大祓(24)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

(わ)が身(み)は則(すなは)ち六根清浄(ろっこんしゃうじゃう)なり
六根清浄(ろっこんしゃうじゃう)なるが故(ゆゑ)に五臓(ごぞう)の神君(しんくん)安寧(あんねい)なり
五臓(ごぞう)の神君(しんくん)安寧(あんねい)なるが故(ゆゑ)に天地(てんち)の神(かみ)と同根(どうこん)なり
天地(てんち)の神(かみ)と同根(どうこん)なるが故(ゆゑ)に万物(ばんもつ)の霊(れい)と同体(どうたい)なり
万物(ばんもつ)の霊(れい)と同体(どうたい)なるが故(ゆゑ)
(な)す所(ところ)の願(ねがひ)として成就(じゃうじゅ)せずといふことなし


我が身は則ち六根清浄なり

前回説明したとおり、祓を修することによって、すべての原因である心が清浄になれば、結果である六根も身口意の三業も清浄になります。

因みに、「六根清浄なり(六根清浄である)と断言しているのは、単に六根が清浄になったという事実をいっているのではなく、これ自体が言霊の力による祓だからです。

六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり

「五臓」とは東洋医学で心臓・肺臓・肝臓・腎臓・脾臓です。因みに「五臓六腑」といいますが、「六腑」は胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦です。ただし、五臓にせよ六腑にせよ西洋医学の解剖学的な意味での臓器とは必ずしも一致しないとのことです。

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2010-06-10

六根清浄の大祓(24)

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六根清浄の大祓(23)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

諸の法は影と像の如し

「法(のり)」というと、普通は「法則」とか「真理」という意味で使われますが、仏教用語としての「法(ほう、ダルマ)」には、その他にも「仏の教え」「善い行為」など多くの意味があります。ここでは「事物」とか「存在するもの」という意味、もしくは「思考の対象となるもの」の意味とするのが適切だろうと思います。

「諸の法」で、この世に存在する一切の存在もしくは自分が認識できる対象ということになります。自分が考えられるすべてのもの、というようなところで、この世のすべてのものと考えればよいでしょう。

影と像の如しというのは、影というものは必ず本体に添って離れることがなく、しかも、本体の形と同じに形を変えるのと同じように、密接に関連して切り離すことができないという意味です。

「諸の法は影と像の如し」というのは、この世の存在と自分の心は、影と本体の関係のようなものである、ということです。つまり、自分に関わる事象・現象は、自分の心がそのまま投影されたものだということです。

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2010-06-09

『東海道四谷怪談』ゆかりの寺社

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まだ怪談には少し早いかもしれませんが、御朱印のサイトのほうに新川の於岩稲荷田宮神社を掲載しましたので、それに因んで『東海道四谷怪談』ゆかりの寺社を紹介します。

『東海道四谷怪談』は、江戸の庶民の信仰を集めていた於岩稲荷の話をベースとして、当時のさまざまな事件など、脚色を加えて創作した四代目鶴屋南北の代表作です。ただし、於岩稲荷田宮神社では、お岩さんは田宮家の再興に尽くした貞淑な妻で、伊右衛門との間も円満だったとしています。

因みに、於岩稲荷田宮神社の宮司さんは代々田宮家の後裔、つまりお岩さんの子孫が継いでいます。

もともとの田宮家の屋敷跡に於岩稲荷田宮神社があります。お岩稲荷というと、普通、ここを思い浮かべるのではないかと思います。


於岩稲荷田宮神社 東京都新宿区左門町17

本来はここが本家本元だったのですが、明治12年(1879)に四谷左門町の火災で焼失したため、京橋区越前堀(現在の中央区新川)の田宮家の敷地に遷座しました。これが新川の於岩稲荷田宮神社です。

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2010-06-08

六根清浄の大祓(23)

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六根清浄の大祓(22)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

此の時に清く潔き偈あり

この部分は説明するまでもないでしょう。心に不浄を見ず、聞かず、かがず、言わず、触れず、想わなければ、私たちの心は清浄となり、私たちの内なる神様の分霊(わけみたま)がそのまま現れることになるということです。

つまり、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根、身口意の三業は、私たちの心(阿頼耶識)の表れでもありますから、心(阿頼耶識)が浄められ、私たちの内なる神様の分霊がそのままに現れるようになれば、自ずから六根も身口意の三業も清浄になる、つまり六根清浄であるということになるわけです。

ですから、神道では「心不清浄なれば人、心清浄なれば神」といい、仏教では「迷えば凡夫、悟れば仏」といわれます。

根本的には私たちの阿頼耶識が浄められるということでしょうが、特にここでは、六根清浄の大祓を唱えることによって、私たちの心が清浄になったという意味としたほうが祝詞の趣旨に合うでしょう。

さて、ここの部分について、柄澤照覚氏は『六根清浄大祓図会』で、六根を清浄にしなければならないと思うあまり、本心に背いてしまってはならないと注意しています。

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2010-06-07

六根清浄の大祓(22)

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六根清浄の大祓(21)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

まず、これまで延々と「眼に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず」から「意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず」までの解釈をしてきたわけですが、肝心なことを忘れそうになっていましたので、確認しておきたいと思います。

六根清浄の大祓は、祝詞には珍しく教えの要素を持っていますが、それでもあくまで祝詞(祓詞)であって、教えが主体ではありません。ですから、これを学んで人生の中で活かすことも有用ですが、本来はこれを唱えることによって日常の中で積み重ねられてきた罪穢れを祓い清めるというものです。

「心に諸の不浄を見ず」「心に諸の不浄を聞かず」「心に諸の不浄をかがず」「心に諸の不浄を言わず」「心に諸の不浄を触れず」「心に諸の不浄を想わず」と断定することにより、言霊の力によってその如くになる、つまり浄められるわけです。

以前にも書きましたが、いろいろ理屈を考えず、これを唱えることで祓い清められるのだと素直に信じれば、祝詞の霊験によって罪穢れが祓い清められるということです。もちろん、そうでなければ祝詞の意味がないわけですが、次からの部分にも関係しますので、一応念のために確認しておきます。

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2010-06-05

浄行菩薩

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日蓮宗系統のお寺に行くと、境内に浄行堂というのがあって、中に浄行菩薩をお祀りしています。たいてい石像か銅像で、宝冠をいただいて合掌している立像なのですが、水盤の中央に立っているか、脇に水盤があるかのどちらかで、柄杓で水をかけるようになっています。


池上本門寺の浄行菩薩

参拝者の中には浄行菩薩に水をかけたり、注いだりしている人がいますが、まあ、他宗派の水掛不動や水掛地蔵のようなものだろうぐらいに思っていたのでした。

ところが先日、柴又帝釈天に参拝したところ、ここの浄行菩薩堂には柄杓とタワシが置いてあって、参拝者が次々と浄行菩薩に水をかけては、タワシでゴシゴシこすっているのです。その熱心なこと、人の切れ目がないので、なかなか写真が撮れないほどでした。


柴又帝釈天の浄行菩薩

一人の小父さんなどは、全身くまなく、掃除をしているんだろうかと思うぐらい熱心にタワシで磨いていました。その様子を見て、どういう意味があるのだろうかと興味を覚えたのでした。

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2010-06-04

六根清浄の大祓(21)

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六根清浄の大祓(20)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず

さて、意(こころ)が第六意識、つまり顕在意識で、(こころ)が第八阿頼耶識、つまり潜在意識であるとして、では、どうすれば「意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず」ということが可能になるのでしょうか。

私たちの思いというのは、阿頼耶識に蓄積された過去のデータが種子となって浮かび上がってきたものです。マイナスのデータが多ければマイナスの思いが湧き、プラスのデータが多ければプラスの思いが湧いてきます。マイナス思考の強い人にとって、プラス思考がなかなかできないのはそのためです。

思いというものが自由にならないからこそ、意に諸の不浄を思いて、ということが説かれていると言えるでしょう。

原因が結果となって現れているのですから、これはしかたのないことで、無理に止められるものではありません。むしろ、無理に止めようとすると、自分はプラス思考ができない、やっぱりマイナス思考なんだなどと、さらにマイナスの思いを繰り返すことになります。

それどころか、マイナスの思いを無理に抑えようとすると、かえってその思いにとりつかれるということが心理学の実験によって証明されています。

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2010-06-03

六根清浄の大祓(20)

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六根清浄の大祓(19)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

(こ)の故(ゆゑ)
目に諸(もろもろ)の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅(か)ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言はず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
(こころ)に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想(おも)はず


身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず

これはもう説明の必要はないでしょう。マイナスのデータを阿頼耶識に入力しないということです。

桃水雲渓が破れた衣を着て野菜に下肥をやっていたとき、法兄の船岩和尚から「清浄の身であるべき沙門が糞尿を扱ったりしてはいかん」と言われ、「畑に肥をやったからといって、心まで汚れるということはない」と答えたエピソードが思い出されます。

意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず

(こころ)に思って 心(こころ)に想(おも)わないとは、普通に考えれば不思議な感じですが、意が第六意識、心が第八阿頼耶識だということがわかれば、ともかく意と心の違いはわかります。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

2010-06-01

六根清浄の大祓(19)

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六根清浄の大祓(18)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言はず

前回は、過ぎたことはクヨクヨしないという観点から「心に諸の不浄を言わず」ということを考えました。これは五官から入ってきた情報も同じですし、身業(しんごう)も同じです。

クヨクヨ後悔するぐらいなら、悪いことを善いことだったと強引に解釈し直すほうがまだマシです。世の中では悪人が栄えて善人が苦しんでいるように見えるというのも、そのあたりに原因があります。悪人はクヨクヨ後悔しませんが、善人というのは失敗を気に病んだりクヨクヨしやすいので、必要以上に苦労や苦しみを背負いやすいからです。

そこで問題になるのが、阿頼耶識にマイナスのデータを入力しないということはわかるが、因果応報との関係はどうなのかという問題です。

上の理屈でいけば、極端な話、殺人を犯しても、それが正義のために必要だった、自分はよいことをしたというふうに解釈していれば、阿頼耶識にマイナスのデータとしては入力されず、むしろプラスのデータとして蓄積されるという話になります。

そんなことがありえてよいのだろうか、ということです。

しかし、善いか悪いかとは無関係にそういうことはある、というのが厳然たるこの世の法則です。

ただ、それだけだけで決まるわけではなく、自分の解釈とは無関係に、自分の行為そのものに対して果報を受ける面もありますから、都合よく解釈すればいいというわけではありません。それでも、どちらがより大きく影響するかというと、行為そのものの影響より、どのような解釈が施されたかというほうが大きいようです。

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