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2010-02-25

真俗二諦(1)

仏教では真諦(しんたい)俗諦(ぞくたい)という二種類の真理を立て、合わせて真俗二諦(しんぞくにたい)と呼びます。

真諦というのは勝義諦(しょうぎたい)ともいい、最高の真理・究極の真理ということです。これに対して俗諦は世俗諦(せぞくたい)ともいい、世間一般の真理ということです。真諦を絶対的な真理、俗諦を相対的な真理ということもあります。

この真俗二諦についてはいろいろな解釈があるのですが、私は、ブログを始めて間もない頃に書いた二重構造の救いという観点から説明するのがわかりやすいだろうと思います。

つまり、

俗諦…六道輪廻の中でより良い状態を実現するための真理

真諦…六道輪廻を超えて彼岸へ渡るための真理


ということです。

この真諦と俗諦、その説くところは互いに矛盾しています。そして、最高の真理・究極の真理というぐらいですから、仏教の核心は後者なのですが、一般的には前者に関わる内容についての話が多いように思います。

例えば、因果応報に関する話は仏教においてもっともポピュラーな話題です。善因によって楽果を受ける、悪因によって苦果を受けるというのは、六道輪廻の世界における話であって、そこから抜け出すという話ではありません。

二重構造の救い(それにしても、あまりよいネーミングではありませんね)でも書きましたが、六道の世界を超えた四聖の世界というのは、自分の境遇がどうであっても(楽の果を受けようと、苦の果を受けようと)、心の平安が保たれるようになることです。

むしろ、世間一般の常識で考えられるような楽の果(幸福とされるもの。財産や名誉、家族や友人、その他を得ること)は、しばしば執着の対象となり、それを失うことを恐れる心が生じるため、かえって望ましくないこと、修行の妨げとも考えられています。

ですから、仏教の主目的から考えれば、因果応報というのは最重要課題とは言えません。それどころか、楽の果を期待して熱心に善行を積むというのでさえ、楽の果に対する執着がありますから、六道の世界から解脱するという目的からは外れてしまいます。

ですから、真諦においては一切のものに執着しない生き方、つまり本来の意味での出家者の生き方が理想とされるわけです(ただ僧侶になるというだけでは意味がありません。たいていの場合、お寺独特の世俗生活を営んでいるだけで、出家と称する在家ですから)。

出家というのは執着の原因となりそうなものを排除するのが大きな目的で、そのために、当然、家族も持ちませんし、財産も持ちません。

さらに、釈尊は、出家した弟子に対しては一切の生産活動を禁止しています。どれぐらい徹底しているかというと、例えば在家の非信者から質問を受け、それに対して釈尊が答えたときに、その答えに感動した非信者が食べ物を布施しようとすると、「詩を唱えて〔報酬として〕得たものを、わたくしは食うてはならない」(『スッタニパータ』中村元訳)と断っているほどです。つまり、食を得るために何らかの行為をしてはならないということです。

よく仏教では「財法の二施(ざいほうのにせ)」といって、僧侶が法を布施し(教えを説き)、それに対して在家信者が財を布施するという関係によって成り立っているとされますが、釈尊本来の基準からいくと、これは間違っていることになります。

まして、葬儀や法要をしてお布施をもらうとか、福祉事業や社会活動をして報酬を受けるというのは、まったくお釈迦様の教えからすると外れています。あくまで、僧侶というのは自らの涅槃のために修行するのが本義であり、在家信者とっては、そういう修行者に布施することが何よりの功徳を積むこととなるので、修行者に対して見返りを求めることなく布施するというのが本来の形であるわけです。

これは、私も多少宗教の世界に関わってきましたからわからないでもないのですが、宗教活動によって生活するとなると、否応なく、宗教者としての理想的なあり方からは逸脱せざるを得ないのです。やはり、人間は肉体を持って生きていますから、どうしても微妙なところで、相手のためと考えながらも、微妙にこちらの思惑を紛れ込んでいきます。まして、それほど厳格に考えていない人であれば……、まあ、そういうことです。

当然、そこには自分の生存を維持したいという執着があり、それは六道の世界に自分を縛り付けることですから、真諦…仏教の説く究極の真理に基づく生き方からは逸脱せざるをえないということになります。

とはいえ、もし釈尊本来の基準でいくならば、日本の僧侶の大部分は、あっという間に餓死するでしょう。なぜなら、スリランカやタイなどと違って、そういう伝統がないので、見返りもなく布施をするという人はほとんどいないだろうからです。

現代日本は釈尊が生きていた古代インドとはまったく違う世界なのですから、その精神を受け継ぐことは必要であっても、必ずしも同じ形をとる必要はないと考えます。むしろ、その社会の伝統(例えば日本の伝統)に応じて、釈尊の精神を生かしていくことのほうが大切だろうと思います。

また、釈尊が弟子に求めた基準で在家の生活を営むというのは、これはどんな社会であっても不可能です。真諦の世界においては解脱の障害となるはずの執着こそが、世俗の生活を営む上で不可欠のエネルギー源になるからです。無執着などといっていたら、企業はあっという間に破綻します。

まして、在家で生きる人間にとって、因果応報に基づいて、悪の果を避けるために悪因を作らず、楽の果を得るために善因を積むことは必要不可欠、最低限のことです。このあたりについては、釈尊はきちんとわきまえていたので、在家の信者に対しては善行を積み、悪行を避けるように教えたわけです。

このことについて、仏教学者などの中には、因果応報は仏教本来の内容ではないが、衆生を強化するために便利なので利用したなどという浅薄な議論をする人がいます。こういう学者たちというのは、しょせん、仏教というのは学問の対象であって、自分の生き方とは無関係なのだろうと思います。

俗諦というのも、究極の真理ではないとはいえ、我々の日常生活を送る上では間違いのない真理であるわけです。物理学に喩えてみれば、俗諦はニュートン力学などの古典物理学、真諦は相対性理論や量子論などの現代物理学に喩えることができるかと思います。

ですから、俗諦というのは決して軽視してはなりません。

しかし、問題は、宗教の中には俗諦レベルの内容しかないところが少なからずあるということです。真諦=六道輪廻の世界を超えた内容を持つ宗教というのは、俗諦レベルの教えが真諦レベルの教えによって裏打ちされているからいいのですが、俗諦レベルの内容しかない宗教というのは、必ず行き詰まりが来ます。

というのは、この世に生きるということは、完全がないということですから、常に何かしら問題が生じることになります。そのとき、俗諦レベルの宗教では、どうしても超えられない問題があるわけです。

真諦のレベル、つまり六道の世界を超えたレベルから見直すことにより、俗諦の執着から解き放たれて、問題を解決…というより解消することが可能になるのですが、俗諦レベルの内容しかない教団の場合、たいていは執着の対象が教団の根幹を成していますから、真諦レベルからの見直しというのは教団のアイデンティティの否定につながることが少なくありません。

こうなると、そのまま放置しておくと教団は破綻してしまいます。そこで、教団の幹部は教団の存続のためにさまざまな手段を取るのですが、たいていの場合は信者に矛盾を押しつけて、教団の正当性を取り繕いつつ、巧妙に内容を変更するという手段を取ります。当人たちは、教団の正当性を守ることが何よりの正義だと思っていますから、信者に矛盾を押しつけることには何の疑問も罪悪感も持っていないのが普通です。

まあ、そんなもので、真諦と俗諦ということについて、きちんとわきまえておくということは非常に重要なことです。特に信仰によって不幸にならないためには、その宗教団体が真俗二諦をきちんと理解しているかどうかを見極めることがポイントになります。

俗諦レベルだけだと行き詰まるというのは宗教団体だけのことではありません。企業をはじめとするさまざまな組織でも同じですし、個人だって同じです。この世間で生きていく上では、真諦の世界と俗諦の世界を必要に応じて行ったり来たりすることで、健全で幸福な人生を送ることができるわけです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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