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2010-02-26

真俗二諦(2)

俗諦(ぞくたい)レベルの内容しかない宗教ということについて、もう少し考えてみたいと思います。

簡単なことですが、俗諦レベルの内容しかないということは、真諦(しんたい)つまり究極的な真理がわかっていないということです。

では、真諦とは何かというと、「諸行無常、諸法無我」、この世に存在するものは、すべて縁起によって仮にそういう存在としてあるだけであって実体はなく、絶対的なものはないということです。

ところが、このことを知らない(気づいていない)ために、実体がないものを実体がある、絶対的ではないものを絶対的だと錯覚し、それに執着するために、さまざまな苦が生じるというものです。

この立場に立つと、財や名誉といった世俗の価値は当然のこと、法律や道徳、芸術や文化に対しても、特別の価値を置かない、守ったり大切にする必要はない、ということも可能です。それどころか、人類だって生じては滅びるものの一つであって、特別の存在ではないということになります。極めてニヒリズム的なのです。

ただし、仏教の場合は、そういう立場は必ず慈悲によって裏打ちされている点、また、真諦と俗諦の二つの真理を認め(特に業の観念、因果応報)、現実を決して無視しない点において、ニヒリズムとは無縁です。

それに対して、俗諦はさまざまなレベルで見ることができます。

まず、法律や社会規範、マナーや慣習、倫理や道徳などは俗諦です。これらは人間が社会生活を営む必要から作られたもので、本来、絶対的なものではありませんが、これを抜きにして生きていくことは極めて困難です。

あるいは国家というのも虚構だといいますが、では、国家がなければ我々の生活が快適になるかというと、決してそんなことはありません。

「宇宙からは国境線は見えなかった」というのは宇宙飛行士の毛利衛氏の名言ですが、これは真諦の立場であって、現実的には厳然として国境が存在し、それが機能することによって人々の生活や平和が守られています。不都合な面も少なくないとはいえ、もし今すぐに国境がなくなったら、人類は弱肉強食・優勝劣敗の大変な世界に放り込まれるでしょう。

それはともかく、とかく批判の対象になりがちな社会のルールですが、それによって私たちの生活が守られているということは間違いのない事実です。

ただ、宗教の世界において、世俗のルールのみに価値を置く宗教というのはまずないと思います。それなら道徳倫理で十分なわけで、世俗のルールを肯定するにせよ、否定的に扱うにせよ、それを超えた世界があるというのが宗教の立場です。

そこで、宗教の世界においては、因果応報を強調したり、人間を超越した存在(神など)を説いたり、教祖による救いを呼びかけたりするわけですが、それらはすべて俗諦です。

因果応報が俗諦というのは、因果応報に実体がない、仮のものであるという意味ではありません。因果応報による結果に過剰な価値を置き、それが絶対的なものだと錯覚し、執着するところがポイントです。

昨日も触れましたが、私たちが因果応報を信じる場合、悪業によって苦の果を受けることを避け、善業を重ねて楽果を得ることを望みます。それで、一生懸命に努力し、人に親切にしたり、お布施をしたりします。

それで良い果報、楽の果を得たとしましょう。そうすると、たいていの場合はそれで安心してしまいます。その楽の果が永遠に続くように錯覚するのです。

ところが、現実はそうではありません。所行は無常ですから、楽の果を得た時点で、その果報をもたらした因縁は尽き(因縁によってある程度果報は継続しますが、必ず尽きるときが来ます)、その果を因縁とする次の果報が生じてきます。楽の果報に安心して怠けたり、傲慢になって悪因を作ると、望ましくない果報を受けることになるわけです。

それだけではありません。縁起というのは、何度も言うように複数の要因によって複数の結果が生じるというものですから、一生懸命に善因を積み重ねたとしても、他で悪因を作っていれば、思うような結果が出ないということがあります。むしろ、そういうことのほうが多いものです。人間、無意識のうちにいろいろなことをしているので。

ですから、どれほど善業を積み重ねたところで、物事がすべて思い通りになるなどということはありえません。つまり、その性質上、因果応報というのはすべてを自分の思い通りにすることはできませんから、結果に対して絶対的な期待を持つ、絶対視するということはできないわけです。

しかし、因果応報を説く教団は、たいていの場合、そんなことは言いません。それは当然で、必ずそういう結果になるとは限りませんよ、などというとアピール力が落ちてしまうからです。ただ、問題は、どんなにそうなると言っても、必ずしもそうなるとは限らないということですが…

ですから、因果応報を説く宗教の場合、必ずそれによって善いことばかりが起きるようになるという教えは俗諦レベルです。導く側もわかっていないので、思うような結果が生じなかった場合、それにどう対処していいかがわからず、しばしば独りよがりで不適切な指導をすることになり、信者は不幸になっていきます。

ただ、信じるものは救われるで、良い結果が起こると信じ込んでいる人のほうが、より良い結果が起こりやすいのも事実ですから、因果応報の果報が必ずしも本人の望み通りにはならないということをわきまえた上で、敢えて願いが叶うと説く宗教者もいます。これは、真諦の立場から方便を使っているので、俗諦レベルではありません。

こういう人であれば、本人の願いが叶わなかった場合の適切な導き方も想定済みでしょうから、安心してゆだねることができるわけです。

むしろ、最初から絶対ではないなどと言われると、出家して俗世を離れて修行しようという人ならともかく、普通は一生懸命やろうという気持ちにはなれないでしょうから、訳もわからず俗諦レベルの教えを信じている人より結果が出ないものです。最初から真諦を説くというのは、俗世で生きる人にとってはむしろ不親切だと思います。

そういう意味では、俗諦の信じるものは救われる世界に飛び込んだほうがいいものです。信じるものは救われるというのは、単にそういう気がするというだけではなく、実際にある種の力を持って、それなりの結果をもたらすものですから、積極的に活用しないという手はありません。俗諦といえども、立派な真理であるわけです。

このことも重要なポイントで、宗教を成り立たせているという要素には、同じ信念を持つ人が集まると、一種の思念共同体のようなものができて、ある程度の結果を生じさせるということがあります。

これは実証しづらいことですが、私自身が体験してきたことです。というのは、私は過去、統一教会を信じなくなってから、生活の為やら、師匠のアドバイスやらによって、3年間内部にいたことがあります。

本人が信じていないのですから、信じるものは救われるということに影響されないはずなのですが、現実には、偶然ではない確率で、統一教会は正しいと思わせる出来事が起こるのです。普通なら、やはり統一教会は正しいのだろうかと思うはずで、私も、どう考えても間違っているはずだが、やっぱり正しいのだろうかと何度も思いましたので。

例えば、統一教会とは縁のない人が夢に導かれてやってくるとか、病気が治るとか(実際には治らない人のほうが多いのですが)、自分自身においては、統一教会に反することをしようとすると不都合なことが起こるとか。

ただ、私の場合、そういったことに惑わされずにすんだのは、外部との接触を断たなかったことにあります。特に、他の教団とも関わりを持っていましたから、そういうことが統一教会のみならず、どこの教団でも起こっているということを見ることができ、統一教会を絶対視せずにすんだわけです。

さらによく観察すると、そういう不思議な現象は、絶対的に自分たちの思うとおりになっているのではなく、自分たちが思うとおりになっていると思える程度のことが起こっていることがわかりました。要は、効率よく自分たちの信念を守るために力が働いているらしいと推測できるわけです。

ですから、教祖に特別な力があるように見える場合でも、本当に力がある場合と、信者に教祖に力があってほしいという期待があるために、信者の共同思念が教祖に力があるかのような現象を起こしている場合とがあると考えられます。まあ、それで信者が幸せになるのならいいのですが。

このような共同思念による現象も俗諦の一種で、そのことをわきまえた教祖(真諦を理解した教祖)もいれば、そういうわきまえがなく、力がないのにあると錯覚した教祖(俗諦レベルにとどまる教祖)もいます(特に二代目以降)。

そして、教祖が絶対的な存在であることを教義や実践の中核とする教団の場合、信者の共同思念は教祖を絶対化することに費やされますから、教祖によって救われるという現象を起こすために、信者に問題が起こり、それを教祖が解決するというパターンが作られるようになります。信者が幸福になってしまうと、教祖が絶対的な存在である必要がなくなるからです。

そのため、熱心に信仰し、その時その時の問題が解決しているように見えても、なぜか幸福にはなれないという現象が起こるわけです。俗諦レベルの教団では行き詰まるというのはそのためです。

そうではなく、信者一人ひとりが幸福になるという方向に共同思念の力を働かせるようになればいいのですが、教祖に本当の力がない場合、教祖も教団もそれに耐えられないでしょうから(アイデンティティが解体の危機に瀕する)、真諦レベルからの見直しというのは極めて厳しいわけです。

そういう観点から、教祖の権威づけ(=教祖の絶対化)に熱心な教団というのは、俗諦レベルにとどまっている可能性が高いので、あまり関わりを持たないほうがいいでしょう。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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