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2010-02-27

嫌な相手は雑巾

ある知人から、どうも上司から不当につらく当たられている気がする、という相談を受けました。無茶な要求をされて、しかも、常識的に考えて両立は不可能というと、心構えが足りない、とか、やるべきことを十分にやってから言え、というようなことを言われ続け、言われ続けているうちに、本当に自分が不足しているのかという気になり、だんだん頭がいっぱいになって、夜も寝られなくなったというのです。

要求されている内容というのは、通常業務に特別業務を押しつけ、しかも権限は渡さず、悪いのは全部部下(中間管理職)で、助言といえば精神論だけという、悪い上司の典型みたいな話でした。

これで、普通の人であれば、上司が悪いということで、だからといって問題が解決するわけではないにしろ、過剰に自分を責めることはありません。

ところが、その知人はなまじ信仰がありますから、やはり自分が不足なのだろうか、とか、相手は自分の鏡だから、まだまだ自分があらためないといけないのだろうか、とか、自分にそういう業があるのだから甘んじて受けなければいけないのだろうか、とか、自分を責めるほうに向いてしまうわけです。

まして、相手は信仰のない一般人ですから、お互いに信仰的な受け止め方をして中和されるなどということもありません。信仰者の陥りがちな罠の典型と言えるでしょう。

まあ、嫌な物事を受けとめるのに、100%自分に責任があると受けとめるのは正しいことですし、相手は鏡であって自分に改めるべきことがある、そういう業が残っているから、そういう目に遭うというのもその通り。

しかし、それによって自分を責め、夜も眠れないほどストレスを溜め込んだのでは本末転倒です。心神(わがたましい)を傷(いた)ましむること莫(なか)れ、というのが一番大切なことであって、信仰的とらえ方といっても、それを基準に考える必要があります。

では、100%自分に責任がある、その他の信仰的受け止め方と、心神(わがたましい)を傷ましめない受け止め方は、どのようにすれば両立するのでしょうか?

まず第一に、自分に100%責任があると受けとめるのは、相手に責任がないからではありません。相手の責任を追及する、相手が変わることを期待するより、自分の責任として受けとめ、それを変えるために自分が努力したほうが早いし、建設的だし、自分にとってプラスだからです。

そもそも自分で自分を改めることだって難しいのに、相手を変えることなど不可能に近い話です。自分が上司の立場なら強制的に変えさせることも可能かもしれませんが、そういうときでも変わるのは表面だけで、たいていの場合は面従腹背で、恨みや反感を残すのが関の山です。

まして、相手が上司で自分が部下の時など、よほど出来た上司でなければ変わってなどくれないでしょうし、それほど出来た上司であれば、そんなに悩まされることなど絶対にないでしょう。

ですから、相手の責任を追及したところで、物事は変わらないわけです。ならば、そういう理不尽な状況に対して、自分を傷つけるものと受けとめるのではなく、自分を浄化し、成長させるものと受けとめようというのが、自分に100%責任があるという受け止め方の目的で、自分が責任を感じて落ち込もうという話ではありません。

偉大なイスラームの神秘主義者で、マウラーナー(我らの師)と称されたジャラール・ウッディーン・ルーミーの語録に、妻の性格を改めようと悪戦苦闘する弟子たちに向けた次のような言葉があります。

「夜となく昼となく、お前がた、ひたすら女の性格を匡正(きょうせい)し、女の汚れを己が身を以て浄化しようと努めている。むしろ己れ自身を女によって浄化したらどうか。その方が、己れによって女を浄化するよりずっといい。己れ自身を女によって匡正することだ。
     …(中略)…
女の我儘(わがまま)を受け流したり身に受け止めたりしているうちに、いわば自分の汚れを女にこすりつけて落としてしまう。こちらの性格は忍耐によって次第に善くなってゆき、向こうの性格は威張り散らして我意を通そうとすることによって次第に悪くなってゆく。この道理がよく分かったなら、一路自分自身を清浄にすることに精出すべきだ。つまり女たちを一種の着物と考えて、自分の不潔さをその着物にこすりつけて取り除くように努めるのだ。そうすれば自然に清純な身になってくる」
(『ルーミー語録』井筒俊彦訳)

当然のことながら、これは夫と妻の関係(まして夫から見た妻との関係)に限定されることではなく、あらゆる不愉快な人間関係について言えることです。この後の部分で、ルーミーは「ムハンマドの道は女や男の横暴と、彼らの惹き起こす苦しみによく堪え抜くことにある」(前掲書)とも言っています。

そして私が思うに、どうも着物に不潔さをこすりつけて取り除くという表現は日本人向けではないので、雑巾に言い換えることにしました。

ということで、私たちは、そういう嫌な上司も含めて、嫌な相手については、わざわざ自分の身を汚してまで(悪因を積んでまで)自分を浄化し、成長させてくれる有難い相手と思えばいいわけです。つまり、自分を汚して相手を綺麗にする雑巾のような存在なのです。

それをくよくよ思い悩むというのは、せっかく綺麗にしてくれたのに、また自分で自分を汚すようなものです。まして腹を立て、(たとえ心の中であっても)相手を責めるなどというのは、せっかく拭き取ってくれた汚れを、また自分が拭き取り返すようなもの。相手がそれを感謝して受け止めれば汚れの移動ですみますが、そういう悪い相手はこちらを恨むでしょうから、この世に汚れを増やしていくだけのことになります。

せっかく、普通ならば10年かからなければ浄化しない、あるいは成長しないようなところを、わざわざ自分の身を汚してまで短期間に浄化・成長させてくれようとしているのですから、その厚意を無にする必要はありません。相手がどんな報いを受けるかと、わざわざ親切に心配してあげる必要もありません。

ああ、有難い人だなあと感謝すればいいわけです。対等な人間と思えば腹が立つこともありますが、雑巾のような存在だと思えば忍耐できる余裕も広がります。

第二には、自分に100%責任があると受け止めるからといって、自分が悪いと思う必要はないということです。自分が正しいか間違っているかという客観的な評価とは無関係に、自分を浄化し、成長させるために、自分が自分の心で責任を受け止めるというだけのことです。

本当に自分が悪かったとしても、因果応報の観点からすれば、自分がつらい思いをした分の悪因は、つらい思いをした時点で尽きているので(法律や社会的責任は別ですが)、宗教的な観点からは、それ以上自分を責める必要はありません(ただし、自分に過ちがなかったと強弁する意味でないことは言うまでもありません)。

第三に、自分に100%責任があると受け止めるというのは、自分の運命の主導権を自分で保持するということです。

もし相手に責任があり、相手が変わることによってしか自分の境遇が変わらないとすると、自分の運命は相手次第、つまり自分の運命の主導権を相手に引き渡すことになってしまいます。わざわざ嫌な相手に自分の運命をゆだねるというのも、考えてみれば奇妙な話です。

第四に、理不尽な相手の態度や要求に対して、自分に原因があり、自分が改めなければならないからといって、それが相手の要求を受け入れることだとは限らないということです。これが非常に重要なところで、特に信仰者の陥りがちな罠に陥って悩んでいる人は、現状について、この観点から見直す必要があります。

たとえば、件の知人の場合、上司からの理不尽な要求というのは、現実的に誰が聞いても不可能な内容です。その上司が精神論的な助言(指示?)しかしないというのも、上司自身がそれをやり遂げる方法論を持っていないからです。

まあ、そういう不可能に見える目標でも、信仰や信念でもって達成できるということはあります。信仰的に受け止めて、目の前のことをコツコツ実践し、結果的に人が驚くような結果を出すという人が実際にいますから、そういう体験をするために、そういう理不尽な境遇が与えられるということもあるわけです。

ただし、その知人の場合はそれに当てはまるとは思えません。というのは、その知人は若い頃、そういう信仰的な取り組みで、周囲から変人扱いされながらも、誰もが認めざるを得ない驚くべき実績を上げたという体験をしてきた人だからです。なので、そういう状態に追い込まれたのなら、簡単に突破することが可能なはずです。

そういう人が理不尽な境遇に苦しんでいるというのであれば、求められている内容(本人が改めるべき方向性)は別ということになります。では、どういうことが考えられるかというと、信仰者の罠に陥らないようにする、という可能性が高いと思うわけです。

例えば、自分を責めないようにする。心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ、ということを教えられているとも考えられます。

上司が責任を押しつけてくるとき、その知人などは信仰的ですから真正直に正面から受け止めるわけですが、そのぶん、いろいろな思い(疑問や不満)が顔に出たりします。それで、ますます上司が不機嫌になったりする。そこを、真正面から受け止めず、その場さえ切り抜ければいいと割り切って、申し訳ないと思っていないけれども申し訳なく思っているふりをするということも、生きていく上では必要だと教えられているのかもしれません。

あるいは、そんな上司に振り回されないぐらい精神的に強くなれ、と言われているのかもしれません。真面目な信仰者というのは、往々にして図太さが欠けているために自分を傷つけていることが少なくありません。

あるいは、実は神仏から転職を勧められているのかもしれません。自分の可能性を発揮するために、もっと違う道を進んだほうがいいということで、自分にはそこしかないという思い込みを覆すために、そういう嫌な上司をあてがっているのかもしれないわけです。

まあ、それが逃げである可能性もありますから、判断には十分注意する必要がありますが…

そのためには、敢えて今の職場に留まることにはこだわらず、だからといって自分からやめることもせず、もし、上司から辞めろと言われたり、辞めざるを得ない状況に追い込まれたときには、自分はここを卒業するときが来たのだと、有難く受け止めればいいわけです。

人間である相手が要求している言葉などにとらわれると、自分が改めるべき内容を見落としたり、見誤ったりする可能性があります。言い換えれば、そういう嫌な相手は、自分のとらわれや思い込みという汚れを取ってくれるために使わされた雑巾だと言ってもいいわけです。

まあ、そんな話をしていると、何か元気が出てきたというようなことを言っていました。元気が出てくれば、物事何とかなるものです。元気な心や明るい心に神仏(今風にいえばサムシング・グレート)の力が働きます。嫌な相手というのは、その言動自体よりも、こちらの元気を奪うところが危険なのです。

嫌な相手は雑巾である。対等な人間と思わなければ、感謝するにも抵抗が少なくなります。

感謝といっても、最初は言葉だけ、形だけで十分で、心から感謝する必要もありません。言葉や態度で感謝していると、いつの間にか気持ちもついてきますが、最初から気持ちを伴わせようとすると、かえって腹が立ち、恨みが増したりします。それでは意味がありません。

最初は形や言葉だけ、相手のことを雑巾だと思っていても、それで自分が浄化され、成長し、幸福になったなら、その時は本当に感謝が湧いてくるものです。

なお、これはあくまで信仰の罠に陥っている人に対するアドバイスで、普通の人はそこまで考える必要はありません。むしろ、こんなことを考え出すと、かえってマイナス思考に陥ってしまいますから、そういうこともあるのだなあというぐらいに思ってもらったほうがいいでしょう。

大切なのは、心神(わがたましい)を傷ましめない、前向きな気持ちを失わないということです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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