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2010-03-01

変性女子はニセモノか?(1)

変性女子とは出口王仁三郎聖師のことで、体は男性だが御魂は女性されることによります。出口なお開祖は、体は女性ですが御魂は男性ということで、変性男子とされます。

さて、ネット上でも散見しますが、出口王仁三郎は「今大本に現れし変性女子はニセモノだ」と書き残しており、自らニセモノであることであることを告白しているという説があります。

まあ、文脈を無視して一部分だけを取り出すと、まったく別の意味を持つという典型的な例なのですが、これを根拠に自分こそ(あるいは自分たちの教祖こそ)本当の救世主だなどと称する困った人も少なからずいました。オウム真理教なんかもそうだったように聞きますし、今でもそう主張している人たちがあちこちにいるようで、先日もこのことについて聞かれました。

そこで、そういう困った人たちに惑わされないようにするために、今回はこの問題について考えてみたいと思います。

問題の文章は、霊界物語の刊行当時から大本の関係者には知られていたようで、いわゆる裏神業グループ(王仁三郎から密命を受け、本当の大本の経綸は自分たちが継承していると主張する人たち)や大本系の教団では、自分たちの正統性を主張する根拠として使われていたようです。

しかし、これが広く大本関係以外にも知られるようになったのは、霊界物語が読まれたからではなく、武田崇元氏の『出口王仁三郎の霊界からの警告』(カッパ・ホームス)によるのではないかと思います(後年、武田氏は出口和明氏の娘さん、つまり王仁三郎の曾孫と結婚し、王仁三郎を永遠の苑主と仰ぐ愛善苑に関わっています。自分の書いたことが王仁三郎否定に利用されているというのは不本意なことではないかと…)。

武田氏は、それを王仁三郎が政治家・床次竹二郎の弟・真広に渡した遺書としているのですが、この本以外にこのことは書かれていませんから、確認できません。ただ、同じ文章が『霊界物語』13巻「信天翁(三)」の最後の部分にあり、公刊されている内容ですから、裏神業グループなどが根拠にしたのはこちらでしょう。ただし、現行版は後に王仁三郎が校正したもので、問題の部分が書き換えられています。

この書き換えの解釈が問題となるのですが、それは後に回して、まず問題の部分を見てみたいと思います。

王仁三郎ドット・ジェイピー「王仁三郎はニセモノ?」に、問題の部分が初版本の画像付きで掲載されていますので、そちらを参考にします。

今 大本にあらはれた  変性女子(へんじやうによし)は似而非(にせ)ものだ
誠の女子(によし)が現はれて  やがて尻尾が見えるだろ
女子の身魂(みたま)を立直し 根本改造せなくては
誠の道はいつまでも 開く由(よし)なしさればとて
それに優りし候補者を 物色しても見当たらぬ
時節を待つて居たならば  いづれ現はれ来(きた)るだろ
みのか尾張の国の中  変性女子が分りたら
モウ大本も駄目だらう  前途を見こして尻からげ
一足お先に参りませう  皆さまあとから緩(ゆつ)くりと
目がさめたなら出て来なよ  盲目(めくら)千人のその中
一人の目明(めあ)きが気を付ける  アア惟神々々
かなはんからたまらない 一足お先へさようなら。


今大本に現れている変性女子とは王仁三郎のことですから、パッと見れば王仁三郎は偽物であって、いずれ美濃か尾張に本物が現れるという予言に見えそうな気もします。

そして、校正後の現行版(実際に出版されたのは昭和34年)では「一人の目明きが気を付ける」以降が次のように変更されています。

一人の目明(めあ)きが気を付ける  なぞと慢神(まんしん)してござる
王仁(おに)はこの言(こと)きくにつけ  お気の毒にてたまらない
こんな判らぬ奴ばかり  メクラばかりがささやけり
 この歌を各自の事に誤解して 罪を重ねる曲人(まがひと)もあり


※天声社版では「一人の目明が気を付ける」を「目がさめたなら出て来なよ」、「メクラ」を「もうじや(亡者?)」と変えています。差別用語を改めるという主旨ですが、現代的価値観に基づいて聖典を買えてしまうということには非常に疑問があります。

この変更について、王仁三郎が自ら偽物だと告白しているとする人たちは、当然、教団もしくは王仁三郎が不都合を隠すために書き換えたと解釈します。それに対して、王仁三郎を本当の救世主と考える人たちは、偽物だというのは読み間違いであり、そういう誤解を防ぐために訂正したとします。また、王仁三郎ドット・ジェイピーにあるように、王仁三郎に反対する人をあぶり出すための意図的な陽動作戦という解釈もあるようです。

私は、これについては、読み間違い説がもっとも適切だと考えます。ここに至る文脈や問題の部分の内容から考えて、ここは王仁三郎が言いたいことを書いているのではなく、王仁三郎に反対する人たちの考えていることを書いているからです。

誤解の大きな原因は、この部分に続く「信天翁(あほうどり)」全体の文脈を無視したところにあります。

ただし、読み方によっては、問題の部分は、それまでの文脈を無視するような形で突然内容が変わっているようにも解釈できますから、誤解してもしかたがないところではあります。といっても、そもそも読み手にそういう願望があるから、そういう部分に反応するのですが。

誤解させやすい書き方をしているという意味では、陽動作戦ということも否定しがたいところではありますし、王仁三郎自身がそういういたずらをしかねないところがありますから、そういう意味で魅力のある説ではあるといえます。

「信天翁」はアホウドリのことですが、王仁三郎や霊界物語にケチをつけ、批判する人々を指しています。第10巻に(一)、第11巻に(二)、第13巻に問題の(三)、第14巻に(四)が掲載されています。いずれも王仁三郎と霊界物語に対する批判への反論で、正面から真面目に答えるのではなく、教団内外の反対派の嘲笑罵倒に対して、逆にあざけったり、挑発したりという内容です。

例えば、霊界物語は神の啓示ではなく、王仁三郎が百科全書などを読破して、その内容を種として作ったものだという批判に対しては、「たとへ霊界物語 神の作りしものでなく この瑞月(王仁三郎のこと)が頭から ひねり出したり百科全書 暗記してゐてじゆんじゆんと 述べたとすれば神よりも この瑞月はえらいだろ」という調子です。ともかく、霊界物語の口述は人間業ではないという自信にあふれています。

そういう文脈の中で、自らを偽物と言う必然性などまったくないわけです。

さらに言えば、問題の箇所にしても、大本の歴史や当時の状況を踏まえて読めば、王仁三郎の予言として書いたものではなく、王仁三郎の批判者が考えていそうなことを書いているに過ぎないことがわかります。

次回、そのあたりについて考えてみたいと思います。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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