--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2010-03-02

変性女子はニセモノか?(2)

出口王仁三郎聖師は『霊界物語』13巻「信天翁(三)」において自らが偽物であると告白し、美濃か尾張に本物が現れると予言しているという説があります。

昭和10年の王仁三郎聖師による校正で問題の部分は書き換えられ、誤解を生じない形には改められていますが、世の中には霊界物語そのものを読まず、武田崇元氏の著書を孫引きする形で引用したり、書き換え自体が予言の正しさを証明しているみたいな解釈をしたりして、自分(もしくは自分たちの教祖)こそ予言された救世主だなどと主張している人がいます。

これは、都合のよい一部分だけを切り取り、全体の文脈を無視していることが大きな原因ですが、大本の歴史や当時の状況を考えれば、問題の部分を見ただけでも、王仁三郎が予言として書いたわけではないことがわかります。

昨日に続き、そのことについて考えたいのですが、まず、前提として、当時の大本や霊界物語の口述を取り巻く環境を見ておきたいと思います。。

大正10年、第一次大本事件のさなか、王仁三郎は『霊界物語』の口述を始めるとともに、それまで唯一の聖典とされてきた『大本神諭』(開祖のお筆先=自動書記を王仁三郎が漢字仮名交じりの文章に改めたもの)と、多くの信者を惹きつけた鎮魂帰神(神がかりを起こす方法)を封印し、大本を『霊界物語』を中心とする教えに切り替えようとしました。

これは、それまでの大本のあり方を否定し、完全に王仁三郎聖師を中心にする方向性でしたから、幹部や信者から大きな反発を招いたことは言うまでもありません。

普通の感覚から言えば、教主である王仁三郎聖師の権威は絶対的なもののように思えますが、実態は極めて不安定なものでした。例えば、霊界物語の冒頭部分は、浅野和三郎を中心とする当時の幹部たちが王仁三郎に談判し、書き換えられたほどです。

『霊界物語』の13巻の口述は大正11年9月で、『霊界物語』の口述が始まって1年経っておらず、まだ旧来の幹部たちが大きな力を持っていました。王仁三郎は『霊界物語』の口述を急ぐ一方で、その権威の確立のためにも戦わなければならなかったわけです(王仁三郎は『霊界物語』は『大本神諭』の神意を誤解のないように伝えるものだとし、開祖やお筆先を否定するものではないと主張していました)。

信天翁=アホウドリとは、そういう霊界物語を批判する人々のことを指しています。

では、『霊界物語』を批判する人々には、どういう人たちがいたでしょうか。

まず、開祖とそのお筆先を絶対視する人々がいました。基本的には古い信者たちです。

大本には出口なお開祖と出口王仁三郎聖師という二人の教祖がいます。開祖は厳の御魂(いずのみたま)・変性男子(へんじょうなんし)とされ、その教えは厳格で妥協がありません。これに対して、聖師は瑞の御魂(みずのみたま)・変性女子(へんじょうにょし)とされ、その教えは融通無碍です。
喩えとして引き合いに出されるのは、厳の御魂の教えは「渇しても盗泉の水は飲まず」であるのに対し、瑞の御魂の教えは「自分が責めを負うから、皆は安心して飲め」というものとされます。
キリスト教でいえば厳の御魂の役割は洗礼者ヨハネ、瑞の御魂の役割はイエス・キリストに相当するとされます。また、厳瑞の二霊は、記紀神話では天照大神と素盞嗚尊に当たります。

大本の信者は、大きく開祖派と聖師派に分かれるのですが、もともと開祖を囲む信者集団から始まっていますから、王仁三郎が大本に入るというのは、考え方のまったく違う人たちの群れの中に飛び込むということだったわけです。

開祖派の人たちというのは、開祖の筆先を盲信し、真冬でも水垢離をするような熱心な人たちではありますが、進歩的な風潮を嫌い、漢字で神の教えを書いてはいけないだとか、お筆先に「世の中真っ暗がりであるぞよ」とあれば昼間でも提灯をつける、「道の真ん中を歩いてくだされよ」とあれば、道路の真ん中を通って馬車もよけず、やむなく馬車が道を譲ると「どうじゃ、神様の力はすごいものじゃ」というような人たちでした。

これに対して王仁三郎は、皆が水垢離をしていても「わしはカエルやない」と言って絶対に参加せず、「こっちのほうが汚れがよう落ちる」と言ってお風呂に入るという町史でした。ですから、生真面目ななおや開祖派の人たちから見れば、王仁三郎の言動は体主霊従の悪の身魂にしか見えませんでした。

そして、大本には「型の仕組み」という考え方があり、出口家に現れたことは大本に現れ、大本に現れたことは日本に現れ、日本に現れたことは世界に現れる、とされます。つまり、出口家で善が悪に勝つという型を作れば、それが大本に現れ、さらに日本、世界に現れて、最終的に善が悪に勝つということになるというわけです。

それで、開祖派の人々は、まず体主霊従の身魂になってしまっている王仁三郎が改心し、本来の変性女子の御魂になることができれば、世界の立替え立直しが成就すると考えていました。逆に、王仁三郎のほうからすれば、開祖が王仁三郎の神格と使命を理解し、それに協力して御神業を成し遂げていくようにしなければならないという立場です。

それで、二人が神懸かりになると、双方に懸かった天照大神と素盞嗚尊が互いの改心を迫りました。その激しい有り様は「金神さんの喧嘩」として近所に知られていたそうです。

役員信者の大半は開祖派ですから、王仁三郎の霊力や実務能力は認めざるを得ないものの(王仁三郎がいなくなると、教団が維持できないという現実がある)、王仁三郎が改心しなければいけないということを名目に、妨害や迫害を続けました。

最終的には、大正5年の「神島開き」のとき、神様から開祖に王仁三郎の神格(ミロクの神=救世主)が示され、なおが王仁三郎の権威を認めることになります。漢字を使ってはならないというお筆先を王仁三郎が漢字仮名交じりの文に改め、『大本神諭』として発表する権限を持つようになったのも、これを根拠としています。

しかし、これに不満を持ち、内心認めていなかった開祖派の人も少なくありませんでした。その代表格がなおの三女である福島ひさです。
ひさは八木(現在の京都府南丹市八木町)に住んでいたので、ひさを中心とする人々は八木派と呼ばれ、今では単に王仁三郎に反対した異端という位置づけですが、当時はかなりの影響力を持っていただけではなく、大正初期の大本の発展に寄与した軍人や知識人(その代表が浅野和三郎)の入信も、彼女らの活躍によるところが大きかったようです(因みに、王仁三郎が綾部に来るに当たっても、きっかけを作ったのはひさでした)。

ひさを中心とする人たちは、開祖のお筆先が絶対で、自分たちこそ開祖の教えの忠実な継承者であると考えていました。王仁三郎がいなければ大本が維持できないことは理解していても、開祖を超える権威を持つことには我慢がならなかったはずです。
まして、融通無碍で奔放な王仁三郎は、生真面目さを美徳とする開祖派の人たちから見れば悪の身魂としか見えません。その立場から、あくまで王仁三郎に改心を求めたわけですが、改心するどころか、お筆先を封印し、勝手に『霊界物語』などという怪しげなものを出し始めたのですから、許し難いと思っていたでしょう。

次に、浅野和三郎などをはじめとする知識階級の幹部がいます。この人たちは、開祖のお筆先の預言と鎮魂帰神という実践的霊学に惹かれて大本に入信し、その社会的立場や知識によって幹部となった人たちです。しっかりと近代合理主義的な教育を受けた人たちですから、知識を尊重し、理性的な判断を尊ぶという、ある意味で信仰とは相容れない要素を持った人たちといえます。

なぜ、この人たちが大本に入信したかというと、当時はエジソンが霊界通信機を作ろうとしていた時代で、霊界や霊的現象について科学的に証明できるのではないかという期待を持った人たちが少なからずいたという背景があります。そして、鎮魂帰神を体験することで、霊界について実証、解明できると期待したわけです。

さらに、価値観の変化や社会的混迷に対する問題意識が、開祖のお筆先に説かれた世の立替え立直しに反応したこと、さらにそれが聖書の黙示録や仏教の弥勒教典に対応すると考えられたことも大きな要因でした。さらに、それを説く開祖が極めて謹厳実直な人柄で、明治的価値観を持った人たちに感銘を与えたことも大きかったようです(ということは、この人たちにとっても、王仁三郎の融通無碍な性格は好ましからざるものに見えたのではないかと思われます)

彼らにとっても、当然『大本神諭』と鎮魂帰神の封印は、我慢ならないものだったでしょう。

さらに、『大本神諭』の預言に惹かれ、世の立替え立直しを信じて大本に来た比較的新しい信者の中には、事件によって『大本神諭』と開祖の筆先の違いに関心を持つ人たちも現れました。
というのは、王仁三郎がお筆先を解釈し、『大本神諭』を発表するようになって以降、お筆先の原本は一般信者のみならず、幹部も実際には見ることはできなかったからです。

王仁三郎は、開祖のお筆先は艮の金神・大国常立大神の言葉ばかりではなく、いろいろな神々、あるいは低級霊の類まで懸かっている上に、いわば台本の台詞と同じで、それぞれの言葉が説明もなく並んでいるため、そのまま受け取ると大変な間違いを犯すことになると言っています。

つまり、主人公や悪役や脇役の台詞が、誰の台詞という説明もなく並んでいるだけなので、その中からきちんと主人公の台詞を抜き出して整理する必要があり、それが自分の役割だと主張しているわけです。
それができるのは、開祖のお筆先の内容が、自分の明治31年の霊的修行による霊界での見聞と一致しており、開祖でさえ知らない神意の全貌を知っているからだとします。

しかし、事件の結果、幹部の中にはお筆先の原本に触れる機会が出来た人もいました。そして、開祖のお筆先は見たことがないけれども、お筆先の預言は絶対だと思っていた人の中には、第一次大本事件について、お筆先は絶対だけれども『大本神諭』には王仁三郎の勝手に考えた内容が混じっているためにおかしくなったに違いないと考えた人もいたようです。

ところが、王仁三郎が指摘するとおり、開祖の原本は、『大本神諭』からイメージされる荘重で高邁な内容ばかりではなかったため、それを見て失望し、お筆先自体を批判したり否定したりするようになった人もいたようです。

因みに、生長の家の創始者である谷口雅春師は、当時、大本の青年幹部として文筆関係で活躍し、『霊界物語』の口述筆記にも携わっているのですが、第一次事件後、大阪の控訴院から、開祖のお筆先と『大本神諭』を調査するよう依頼がありました。40日かけてお筆先を調査し、そこで初めてお筆先の全貌に触れるとともに、王仁三郎の書き換えも知ることになったそうです。

『生命の実相』自伝篇を見れば、お筆先はひらがなであって、どのような字を当てはめるかによって意味が変わると指摘しています。「地震、雷、火の雨降らして平らげるぞよ」という一見無慈悲な言葉も「自身神なり、霊の雨(真理)降らして平らげるぞよ」つまり人間神の子であるという生長の家の真理の登場を予言しているという解釈も可能だとして、お筆先そのものは否定していません。また、王仁三郎に不思議な力があったことも認めているようです。

ただ、大本を離れる前、王仁三郎に会いにいったが留守であったため、後の三代教主である直日師に、教えに対する自分の考えを述べ、大本の大正十年立替え説のために、家業を捨て、会社を辞めて大本に入り、生活に困っている人もいるのだから、大本は間違っていたと謝罪するよう求めたそうですから、お筆先自体を否定する言動があったのかもしれません(確認できません)。

王仁三郎としては、取り違えをしないようにということで『大本神諭』という形で発表し、さらに積極的に大正十年立替え説に賛同したわけでもないわけですから(といって、積極的に否定したわけでもない)、勝手な取り違えを大本の責任にすべきではないという立場でしょうし、また、その過ちを繰り返さないための『霊界物語』だという主張しているわけですが、ともかく、霊界物語がどうこうという以前に、お筆先を根拠として大本自体が間違っているという人々も現れていたということでしょう。

それらの批判者に対する王仁三郎からの批判・反論が「信天翁」であるわけです。

次回に続きます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

↓一日一回クリックしてくださった方には、きっと何かいいことが起こると思います。
人気ブログランキングへ

生命の実相―頭注版  (第19巻)生命の実相―頭注版 (第19巻)
(1963/11)
谷口 雅春

商品詳細を見る
スポンサーサイト

theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

こまいぬ

Author:こまいぬ
古今宗教研究所のブログです。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ランキングに参加しました
人気ブログランキングへ
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。