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2010-03-08

真俗二諦(3)

仏教では真諦(しんたい)俗諦(ぞくたい)の二種類の真理を説きます。真諦とは勝義諦(しょうぎたい)ともいい、仏教の究極の真理を指します。また、俗諦とは世俗諦(せぞくたい)ともいい、世間の真理を指します。

そして、宗教団体、とくに新宗教においては俗諦レベルの内容しか備えていないところが多く、そういう教えではいずれ必ず行き詰まるというようなことを「真俗二諦(1)」で書きました。

さて、先日、世間からカルトと批判される某教団の古参信者の人と話す機会がありました。この方自身はしっかりした考えの持ち主で、教団のあり方についても極めて客観的に見ており、世間の批判は当然だという意見を持っていました。と同時に、それは教えの問題ではなく、信者が教えを誤解していることによるもので、正しく教えを理解し、実践すれば、世間から批判されるようなことにはならないという考えでした。

それで、この方の教えの解釈についても一通り聞いたのですが、厳密な教義通りの解釈かどうかは私の論評するところではないので棚に上げると、常識的に考えてもいちいちもっともという内容でした。

ただ、私としてその考えに納得はできても、賛同はできませんでした。というのは、その方の考え方というのが俗諦の世界、しかも倫理道徳の段階に留まっていると思われたからです。

もちろん、倫理道徳の段階が悪いというわけではありません。しかし、宗教の宗教たるゆえんは神や仏の存在を説くところにあるのではなく(倫理道徳でも神や仏を説くことはありえます)、最低限、そういう人間の力を超えた世界に生かされている実感が必要だと思うわけです。つまり、信仰の世界ですが、それでもまだ俗諦の世界で、真諦の世界というのは、もうひとつ奥ということになります。

それはともかく、その古参信者の人が、自分の解釈を説明した上で、これはどのような宗教であってもそういう結論になるはずだと言い切るのを聞いて、改めて真諦と俗諦について整理することの重要性を感じたわけです。たぶん、その場で仏教の真諦について説明すれば、単に理解してもらえないばかりでなく、たぶん誤解されるだろうなあと思いましたので。

特に倫理道徳の段階に確信を持っている人というのは、自分でやってきたという自信が強いだけに、信仰や真諦の世界というのは理解しがたいようです。もちろん、この人の場合も自分は信仰者だと思っているのですが、信仰ではなく自分の力の範囲に留まっています。世間的な意味では、間違いなく立派な人に分類されるとは思うのですが。

さて、上に書いたように、俗諦は倫理道徳の段階と信仰の段階に分けることができます。弘法大師の『十住心論』でいうところの第二住心と第三住心に相当します。

そして、その共通点は、不幸を避け、幸福を得ることにあります。相違点は、倫理道徳の段階では自分自身の努力によってそれを実現しようとするのに対し、信仰の段階においては人知を超えた力との関わりにおいて実現しようとするところにあります。

俗諦というのは、倫理道徳の段階であれ、信仰の段階であれ、心の持ち方は前向きです。努力によって、あるいは信仰によって幸福が得られると思うからこそ、熱心に努力したり信仰したりということになるわけです。ですから当然、自己啓発などのプラス思考なども俗諦に属します。

これに対して、真諦はまったく反対の世界です。

仏教は「一切皆苦」と説きます。仏教でいう「苦」は、単に「苦しい」というのではなく「思い通りにならない」というほうが正確だとされます。思い通りにならないから「苦」と感じるわけです。「一切皆苦」とは、すべての物事は思い通りにならないということで、努力や信仰は報われると考える俗諦の世界とは真逆のことを説いています。

これは、考えてみれば当然のことで、どれほど建康に気をつけても、熱心に信仰したとしても、老いない人はいませんし、病気になるときは病気になります。まして、死ななかった人はいません。

スポーツでも、必ずしも努力が報われるとは限りませんし、例えばオリンピックで金メダルを取れるのは一人(もしくは一チーム)だけで、みんなで金メダルということにはなりません。入試だって、合格する人がいれば、必ず不合格の人もいるわけです。

また、一時は成功した、思い通りになったとしても、それがいつまでも続くわけではありません。そのため、かえって成功したり、思い通りになったことに執着が生じ、それを失うことに「苦」を感じるようになるわけです。

だからといって、仏教は努力が無駄だと説いているわけではありません。俗世間で生きていく上では不幸を避け、幸福を得るように努力したり信仰したりする必要があります。だからこそ仏教は真諦と俗諦の二種類の真理を説き、釈尊も在家の信者には俗諦に基づいた教えを説いたわけです。

余談になりますが、仏教者の中には、俗諦を低級なものとして軽視する人がいますが、そういう言説を信じるべきではありません。だいたい、そういう人に限って、外は真諦、中は俗諦だったりするものです。

たとえば、仏教は「がんばるな」と説いていると主張して人気を集めている仏教思想家がいます。この人、読者には「がんばるな」と勧めていますが、ご自分は東大出身で、著書は数百冊もあり、あちこちで講演に励んでいます(もちろん有料で)。そして極めつけには、数年前、盗難によってタンス預金が1億7千万円もあったことが発覚しました。俗世であくせく働く人たちを「うんこ地獄」などと批判していましたが、そういうご自身が「うんこ地獄」の住人だったわけです。

「みな人に欲を捨てよとすすめつつ あとでひろうはさ○や先生」

まあ、普通の人は「いい話を読んだなあ」程度で、自分の生活を少しゆったりさせてみようかというぐらいに受け取っているからいいのでしょうが、こういう人の言うことをまともに信じたら大変なことになってしまいます。俗世で生きるためには、やはりがんばらなければなりませんし、釈尊は「がんばりすぎるな」とは教えていますが、決して「がんばるな」とは教えていないことに注意しておかなければなりません。

閑話休題。

真諦の観点からすれば、望ましい状態(例えば幸福な状態)に対する執着によって、望ましい状態が得られなければ、得られないことによって「苦」を感じ、望ましい結果が得られれば、それを失うことを恐れて「苦」を感じるということになります。真諦の世界における救いというのは、執着をなくし、今ある結果をあるごとくにに受け取れば「苦」が滅するというものです。

ですから、真諦の世界における救いというのは、自分の状態や境遇の良し悪しに関係なく、「苦」を感じる原因である執着をなくすことによって(さらに詳しくいえば、執着の原因である「無明」=「無知」をなくすことによって)、根本的に「苦」を滅するということになります。

言い換えれば、「楽」を求めないことによって「苦」を滅するということになるでしょうか。だからこそ、俗世の喜びを捨てて、出家(出世間)の道を選ぶわけです。

これに対して、俗諦の世界における救いは、自分の状態や境遇が良くなること、言い換えれば「楽」を実現する、あるいは与えられることということができます。

仏教においては、真諦の世界、つまり物事は思い通りにならないという究極の真理を前提として、俗諦の世界、つまり不幸を避け、幸福を得るように努力や信仰を勧めます。

これに対して、俗諦レベルの内容しかない宗教は、物事は思い通りにならないということを前提としていない、つまり必要な努力なり信仰なりをすれば、必ず自分の望む結果が得られるという発想です。

このことがわかれば、俗諦レベルの内容しかない宗教が行き詰まるのは何の不思議もないということになります。

明日は、このことをもう少し考えてみたいと思います。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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