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2010-03-09

真俗二諦(4)

引き続いて、俗諦(世俗の真理)レベルに留まる宗教について考えてみましょう。

真諦(仏教における究極の真理)というのは、諸行無常(あらゆるものは常に移ろいゆく)・諸法無我(あらゆるものは因縁によって生じたもので、実体性がない)で、この世のあらゆる物事は絶対的なものではなく、思い通りにはならないということです。

ですから、真諦のレベルに到達した宗教あるいは宗教者は、除災招福(不幸を避け、幸福を願う)のために祈祷したり、実践を指導したりするときでも、それを前提にしたものとなります。

ところが、俗諦レベルに留まる内容しかない宗教あるいは宗教者は、この世にも何か絶対的なものがあると考えています。そもそも、何か絶対的なものがあると信じ、それが宗教の世界にあると思っているからこそ、それを追い求めて宗教をやっているわけです。そして、その絶対的なものを見つけたと思っているから、その宗教をやっているのです。

この世の物事には絶対的なものはないということだけが絶対だという真諦レベルの宗教と、この世には何か絶対的なものがあり、自分たちの宗教こそがそれだという俗諦レベルの宗教には根本的な違いがあるということです。

無論、絶対的なものはないということが、人間の力を超えた何者かの力が働くことを否定するわけではないのは言うまでもありませんし、それがなければ宗教とはいえないわけですが、俗諦レベルの宗教というのは、それを人間の力で100%コントロールできると考えているわけです(真諦では必ずしも思い通りにならない、コントロールはできないと考える)。

その結果、俗諦レベルの宗教というのは、自分たちの宗教に入れば必ず救われるとか、教祖は完全無欠の存在であるとか、自分たちの指導に従えば必ず問題が解決するとか、この世において一切の問題がない理想的な状態が実現できるといったことを信者に信じさせ、あるいは自分たちでも信じています。

そこに致命的な問題があるわけです。絶対的ならざるものを絶対視する以上、そこに望ましくない現実を突きつけられる事態が起きることは避けられませんので。

思うに、真諦といっても、最初からこの世に絶対的なものはないということを、表面的にだけではなく理解できる人というのは滅多にいないのではないでしょうか。もちろん、世の中には極めて優れた資質の持ち主がいますから、もしかすると、すぐに理解できる人もいるかもしれませんが。

普通の人は、自力であれ他力であれ、何か絶対的なものを求めて、それを徹底していった結果、この世には絶対的なものはないということに気づくのだと思います。そして、俗諦レベルに留まる宗教というのは、あれこれ言い訳をしたり、自分や他人を誤魔化して、絶対的だと信じたいものが絶対的ではないという事実から目をそらそうとしています。

もちろん、自分たちの信じている宗教は絶対であり、教祖は完全無欠だとか、教えに従っていれば必ず幸せになるとか、お布施をしたら問題が解決すると信じることにメリットがないわけではありません。

信じることには力があって、受ける側がどの程度信じているかによって結果が変わってきます。これは医療におけるプラセボ(偽薬)効果と同じです。

薬に効果があり、なおかつ患者が効果があると信じていれば、その効果は最大限に発揮されますが、薬が本物であっても患者がブドウ糖だと信じていれば、その効果は限定的なものになりますし、ただのブドウ糖であっても、患者が薬と信じていれば一定の効果が現れます。

それと同じで、ニセモノの教祖でも、信者の側が本当に信じていれば、勝手に効果が現れるということが起こります。

そして、宗教の世界で興味深いのは、信者の側が信じると同時に、教祖の側が信じているかどうかも大きなポイントになるところです。

昔、四国に前野というお婆さんがいて、「大麦小豆二升五銭(おおむぎしょうずにしょうごせん)」と唱えながら手を当てると病気が治るというので評判でした。ところが、ある禅宗のお坊さんが、それは「応無処住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」と唱えるのが正しいのだと(親切にというか、お節介にもというか)教えました。それで、それから正しく唱えるようにしたところ、病気が治らなくなったという実話があるそうです。
それを唱えれば治るという信念が崩れてしまったため、病気が治らなくなってしまったわけです。俗諦というのは馬鹿になりません。

そんなことで、ニセモノの教祖でも、信者の側が本当に信じていれば、その信じる力によって、信者が勝手に救われ、しかも教祖のおかげと感謝することがあります。救われた人を見れば、周囲の信者も「教祖様を信じれば救われるんだ」という信念が強くなりますから、救われる可能性が高くなります。

そうやって信者から感謝されると、考えの足りない教祖や、自己愛型パーソナリティの持ち主の教祖は、自分には本当にそういう力があるのだと信じるようになります。すると、その信念の力がますます効果を発揮させるようになります。

ここに俗諦レベルの宗教が成立するわけです。

ところがこの俗諦レベルの宗教は、この世には絶対的なものはなく、自分たちの宗教は教祖と信者の信じる力によって成り立っている虚構の存在だということを知りません(虚構の存在でも、病気が治ったりするわけですから、嘘の宗教とはいえません)

真諦レベルの悟りがあれば、それを方便として使うことができるのですが、俗諦レベルに留まる宗教では、自分たちの宗教や教祖が絶対だということに対する信念が存在基盤になっているわけです。

とはいえ、どんなに頑張ったところで、その教団や教祖が本当に絶対的な存在になり、過ちを犯さなくなるということはありませんし、すべてが思い通りになるということもありません。

むしろ、自分たちが絶対だと思えるぐらいですから、それほど頭がいいとはいえないわけで(必ずしも知識がないというわけではありません。むしろ、ある種の秀才の人たちは、理屈をこねることが得意なぶん、事実に基づかない妄想を膨らませるところがあり、そういう世界に没入してしまう可能性があります)、わざわざ自分たちに不都合な事態を引き起こすことをする可能性のほうが高いと考えられます。

そういうギャップが生じたとき、真諦の世界に進める人というのは、そういう不都合な事実を見逃さず、自分の信じていることを顧みることができるのですが、俗諦レベルに留まる宗教の人たちは、不都合な事実には目をつぶり、自分たちの信念を守ることを選択します。

自分たちの信仰対象を世界を超越した神様や、人知を超えた霊的存在を信仰対象とし、それを絶対視しているのならまだいいのですが、生きた人間(教祖など)を絶対視している場合は特に問題です。

人間というのは、どれほど立派な人でも完璧ということはありません。まして、自分が絶対者だなどと錯覚しているような教祖は、宗教者として以前に人間として問題を抱えている可能性が大です。当然、さまざまな問題が起きることは疑う余地がありません。

ところが、その不完全な人間を絶対化しなければなりませんから、不都合なことは無視したり、信者や幹部、あるいは教団外の世間の責任にしたりして、教祖の絶対性を取り繕うことになります。そうして信者や幹部は現実的なしわ寄せを受け、教祖は霊的に堕落して、この世での体裁は取り繕えても、来世ではその報いを受けるだろうということになるわけです。

まあ、俗諦レベルであっても、救われる人は救われるわけですから、あえてそれを否定しようとは思いませんが、教祖と信者の幸福のため、少なくとも教祖や幹部には俗諦のレベルを脱して真諦の段階へと進んでほしいものだと思うわけです。

まあ、それも危険な話で、下手をすると力を失ってしまいますから、実際には難しいでしょうが…

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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