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2010-03-13

真俗二諦(6)

原始仏教の経典の一つ『サンユッタ・ニカーヤ』に、次のような神と釈尊の対話があります。

(神曰く)「子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。執着するよりどころによって、人間に喜びが起こる。執着するよりどころのない人は、実に喜ぶことがない」
(釈尊曰く)「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。執着するよりどころによって人間に憂いが起こる。実に、執着するよりどころのない人は、憂うることがない」
(『ブッダ 神々との対話』中村元訳)

また、こういう言葉もあります。

「鉄や木材や麻紐でつくられた枷(かせ)を、思慮ある人々は堅固な縛(いましめ)とは呼ばない。
〔愚鈍な人が、〕宝石や耳輪・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、--これが堅固な縛であると、思慮ある人は言う。
それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。
かれらは、これをさえも断ち切って、顧みることなく、欲楽をすてて、遍歴修行する」
(同上)

これを見てもわかるとおり、釈尊は家族や財産、あるいは地位・名誉といったものは自分に憂いや苦しみを与えるものだと考えていました。先日も書いたように、釈尊は「楽」を得ようとしないことによって「苦」を滅しようとしたわけです。

考えようによっては非常にマイナス思考のような気もしますが、それは釈尊の目的が輪廻からの解脱にあったからです。解脱という究極目標がなければ、何もわざわざ苦を滅するために楽を望まないなどという消極的態度をとる必要はありません。

もし人生が一回だけのものであり、死ねば終わりだというのであれば、まあ、どんな悪いことをしても人生が楽しければいいじゃないかとまでは言いませんが、普通の人なら、多少苦しいことがあっても、そのために楽しみや喜びを犠牲にしようとは考えないのではないでしょうか。むしろ、憂いや苦しみがあるからこそ、喜びや楽しみが引き立つという考え方だってあります。

もし釈尊が、単に子供を持つことによる喜びと子供を持つことによる憂いを天秤にかけて、憂いのほうが大きいから子供は持たないほうがいい……というような考えの持ち主なのだとしたら、結婚したくないとか、子供はほしくないという現代日本の風潮は釈尊の教えに近づいているということだって言えるでしょう。

輪廻からの解脱という究極目標があるので、子供や財産を持つことによる喜びよりも憂いを重視し、出家つまりホームレスの生活を選択するわけです。

現代日本の仏教者や仏教学者の中には、釈尊が輪廻を否定していたなどという人たちがいますが、もし輪廻を否定するならば、出家の必然性がなくなります。そういう発想は、肉食妻帯を肯定し、事実上出家がほとんど見られない日本(の仏教)だからこそ出てくるものだと思います。

それはさておき、仏教の究極の真理である「真諦(しんたい)」は、当然、輪廻からの解脱を目的とするものです。そして、俗世での成功(によって得られる結果)は、輪廻からの解脱を妨げる可能性が高いものです。

それで、釈尊は究極的目標である解脱を実現するために、極力、解脱のための妨げのない環境として、出家すなわちホームレスの生活を選択しました。実際、ホームレスというのは3日やったらやめられないという話を聞いたことがありますが、私たちが社会生活を営むというのは、それだけで大変なストレスを受けているのでしょう。

ただし、ここで忘れてはならないポイントがあります。

釈尊やその弟子の出家が単なるホームレス生活でないことはいうまでもありませんが(解脱のためのものなので、一般の在家生活よりはるかに規則正しい)、それだけではなく、決して俗諦も世俗の社会も否定していないということです。

より詳しく言えば、まず、自分たち出家者はともかくとして、在俗信者や非信者が世俗で生きることを否定はしていませんし、その人たちに対しては積極的に俗諦を説いています。それは、古代インドから現代日本にまで伝えられ、私たちの生活規範の基礎となっています。

それと同時に、釈尊は自分や出家の弟子たちのグループにおいても、俗諦を完全に排除しているわけではありません。釈尊は自分の教団のあり方について、出家の方向性を徹底するのではなく、世俗のあり方と妥協した方針をとっています。そして、そこに仏教が2千5百年も存続し、世界宗教の一つにまでなりえた重要なポイントがあります。

まず、釈尊が在俗信者や非信者が世俗で生きることを否定しなかったという点について。

釈尊には、コーサラ国のパセーナディ王やマガダ国のビンビサーラ王、祇園精舎を寄進したスダッタ長者をはじめ、巨大な富を所有する有力な在俗信者がたくさんいました。また、庶民の中にも多くの在俗信者がいました。

しかし、釈尊はこれらの人々に対し、その生業を否定したり、財産や子供を持つことをやめさせたり、出家を強要するようなことはありませんでした。むしろ、施しをしたり、戒めを保ったり、善行を積むことによって、財産が増えたり、子孫が栄えたり、(解脱ではなく)死後天界に生まれたりすることを教えています(つまり俗諦)

最期の旅においては、高級遊女のアンバパーリーから供養を受けていますが、アンバパーリーは釈尊の教えによって「教え諭し励まし喜ばされた」といいますから、彼女の生き方や職業を否定したりするようなことはされなかったはずです。

それはもちろん、釈尊の教えが慈悲に基づいたものであり、争いや苦痛を引き起こすものとは無縁であったということもありますが、同時に出家生活は世俗社会の存在を抜きにしては成立しないという側面も忘れてはなりません。

次回はそのあたりから、出家ということについてもう少し考えてみたいと思います。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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