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2010-03-16

真俗二諦(7)

釈尊の時代の出家は、ホームレスになることでした。現代でも、インドにはサドゥーと呼ばれる出家修行者がいます。出家修行者は家を持たず、財産を蓄えず、社会の倫理や法律に束縛されません。

こういう社会の枠外にいる出家修行者の存在はインド世界の特徴ではないかと思います。

日本などにもそういう宗教者はいましたが、それは仏教の影響、すなわちインドの伝統を受け入れたことによります。

中国の仙人は、俗世を離れているという意味では同じようですが、仙人が完全に俗社会を離れているか、逆に見た目は完全に俗社会に紛れ込んでいるのに対し、インドの出家修行者は乞食(こつじき)という形で俗社会と関わっています。

ここが出家の大きなポイントであり、事実上のホームレスだという所以です。文明を否定し、原始に帰ろうなどというのではなく、文明社会の中でなければ存在し得ない形態ということです。

誤解を恐れずに言えば、文明社会に寄生していると言ってもあながち間違いとは言い切れません。なぜなら、釈尊は生産活動を一切禁じ、行為も含めて食物を得るために対価を払うことを許していないからです。

例えば釈尊自身、托鉢の途中に呼び止められ、質問を受けていることがあります。それに対する釈尊の答えのすばらしさに感激し、食物を供養しようとしたときに、釈尊は「詩を唱えて〔その報酬として〕得たものを、わたくしは食うてはならない」(『スッタニパータ』中村元訳)として断っています。あくまで供養する人が、自分自身の功徳を積むために供養するのでなければならない、というのです。

ギブ・アンド・テイクではなくギブ・アンド・ギブ(互いにギブ)と言えば確かに理想的ですが、見方を変えれば、ギブ・アンド・テイクで成り立っている社会構造に組み込まれることを拒絶しながら、一方的に自分たちの食べるものの提供を受けているというわけですから、寄生という見方もできないではありません(事実、そう思っていた人が少なからずいたことが原始経典から読み取れます)。

誤解のないよう付け加えておけば、社会に寄生するというのは、社会から見ればギブのみ、本人からいえばテイクのみという場合です。釈尊とその教団の場合、在家の信者たちが釈尊に供養する価値があると認めたのは、その教えによって救われたり、喜びを得たりしたからです。そういう意味では「寄生」というのは不適切で、むしろ「共生」というほうがいいのだろうと思います。

ついでに余分なことを付け加えれば、お布施の金額によって読経の長さが変わる、うちの実家の菩提寺などは、お布施を読経の対価と考えている(もしくは読経をお布施の対価と考えている)わけですから、積極的にギブ・アンド・テイクで成り立っている社会に参加しているといえるでしょう。

さらに余分なことを付け加えると、真宗のお坊さんたちの中に、真宗の葬儀や法要は死者を供養するためのものではなく、それを機縁として仏法を伝える場だなどということで、自分たちのやっていることが釈尊の教えからずれていないと強弁する人たちがいますが、儀式なり布教行為なりの「対価」としてお布施をもらったならば、やはり釈尊ご自身の教えからは逸脱しています。それなら、下手な言い訳などせず、潔く死者の供養をしてお布施をもらうほうが誠実だと思います。

しかし、問題はそこではありません。

生産活動を一切禁じるということは、乞食(こつじき)以外に食物を得る手段がないということです。ですから、余剰の食物がある文明社会に接したところに居住しなければ生きていけないということになります。人里離れた山の中では修行できないわけです。

日本の場合(中国などでもそうですが)、人里離れた山の中に籠もり、木の実や草の根を食べながら修行するという形態があります。しかし、これは仏教本来の主旨からは外れています。なぜなら、木の実をとったり、草の根を掘ったりというのも一種の生産活動だからです。そういう修行のあり方というのは、仏教というより中国の道教(神仙道)の影響ではないかと思います。

※念のために断っておきますが、私は原理主義者ではありませんので、そういう修行のあり方が間違っているなどとはいいません。あくまで釈尊の教えに忠実か、どうかというだけのことであって、釈尊の教えに忠実であることを絶対視しているわけではありません(むしろ逆です)。ただ、釈尊の教えに忠実であることを標榜するなら、ご都合主義的なつまみ食いはやめろと言いたいわけです。

考えてみれば、普通のホームレスというのも、余剰の食物がある文明社会の存在を前提としています。みんなが自分の食物の清算に手一杯の社会では、非生産者を養うような余裕はありませんから、ホームレスの存在する余地はありません。

ですから、釈尊自身は社会からドロップアウトしていますが、文明社会の存在を否定しているわけではありません。むしろ、文明社会が健全に機能していることが、出家修行者が安心して修行していく上でも絶対的に必要になるわけです。

そして、釈尊の一般社会に対する姿勢は、基本的に不干渉です。これは当然のことで、社会に干渉するということは社会に組み込まれるということです。社会に対して不干渉だから、社会からの不干渉も保証されるわけです。ただ、求めに応じてアドバイスをするだけです。

例えば、釈尊は暴力を否定していますが、国王に対して軍隊を持つなと求めたことなどありません。

考えれば当然のことですが、確かに暴力が苦しみや悲しみをもたらすことは間違いないとはいえ、世俗の社会において暴力から無縁で過ごすことなどまず不可能です。例えば我が子が暴力による危険にさらされているとき、暴力をふるってはいけないからといって、それを傍観しているだけということが可能でしょうか。

釈尊は、世俗の社会では一切暴力をふるわずに済ますということが不可能だからこそ、理想を実現するために社会からドロップアウトし、子どもや財産といった暴力の原因になるものから無縁であることを選択したわけです。

現代の日本では、在家と出家の区別がなくなってしまったために、そのあたりの区別も曖昧なまま、釈尊は暴力を否定したのだから、仏教徒は軍隊を否定しなければならないとかいう理屈で憲法九条を拡大解釈したり、自衛隊を否定したりする人たちがいます。

まあ、平和を名目に闘争精神を発揮していること自体(暴力は肉体を使ったものばかりではありませんから)、ご都合主義的にできた人たちだなあと感心するやら呆れるやらですが、世俗の世界において、紛争を抑止したり、国家国民を守るために軍隊を持つことは当然のことです。お釈迦様は、自分の在俗信者であったマガダ国のビンビサーラ王やコーサラ国のパセーナディ王に軍隊を放棄せよなどと説いたことはありません。

そんなに真諦(仏法の究極的真理)の世界に生きたいのであれば、世俗の生活を捨てて(お寺に住み、儀式の対価としてお布施をもらうような生活をやめて)、社会からドロップアウトすればよいのではないでしょうか。

まあ、現代の国民国家においては、釈尊のような出家生活は困難でしょうが、それこそホームレスになって、社会の保証も受けずに生きていくということが不可能だというわけではありません。

でなければ、俗諦を重んじ、世俗の社会の制約を甘んじて受けるべきです。自分が有利な立場を確保するために、都合のいい部分だけ真諦の論理を持ち込むような姑息なまねをするべきではありません。

また、そういう表面で綺麗なことを言いながら、自分の権益をちゃっかりと守っている宗教者に惑わされないことも大切でしょう。

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