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2010-03-23

風外慧薫(2)

風外慧薫(1)

風外慧薫(ふうがい えくん)の話を続けます。

寺を捨て、曽我山中で穴居生活を始めた風外禅師ですが、禅師の噂を聞いて面会を求めてくる人が多くなりました。そこで、真鶴(現在の足柄下郡真鶴町)山中の岩窟に移りました。真鶴の景勝を気に入ってのことのようで、風外60歳の頃といわれます。

風外が住んでいた窟のそばには、今も風外が岩に刻んだ天神様を祀る天神堂が残っているそうです。

ある時、食べ物がなくなったので托鉢に出ようとすると、雨が降ってきました。しかし、笠など持っていません。そこで周囲を見ると、窟の前に根府川石のそげ石がありました。根府川石というのは、小田原あたりの特産の石で、板状に割れる性質を持った安山岩の一種だそうですが、その板状になった百貫(約375kg)ほどの石を笠の代わりに頭に載せ、それで平然と托鉢をしたそうです。

それまで村人たちは風外のことを乞食坊主と馬鹿にしていたのですが、それを見てすっかり驚き、尊敬するようになったといいます。

また、小田原城主であった稲葉侯(春日局の孫・稲葉正則であろう)が、小田原に稲葉家の菩提寺を建立した際、開山に風外を招こうとしました。しかし、当然ながら風外は頑として拒絶します。そこで、やむなく黄檗宗の名僧・鉄牛道機を招いて開山としました。これが長興山紹太寺です。

因みに、風外ゆかりの「翁媼尊」が祀られている墨田区の弘福寺も稲葉正則の開基、鉄牛道機の開山です。

さて、ある時、稲葉候と鉄牛和尚が風外を訪ねたそうです。

鉄牛が「世を遁れ、心安らかに修禅をなさっているというのは本当にうらやましいことです」と言うと、風外はこう答えたそうです。

「世を遁れるなどということは難しいことではない。また、出家するというのも簡単なことだ。しかし、出家ののちの出家は難しい。たいていの僧は、頭を丸め、墨染めの衣を着て、形は出家になっているが、心の中はむしろ在家の人間より劣っている。俗世というのは捨てやすいものだが、捨てがたいものでもある。家を出て僧になるのは簡単だが、寺を出るのが難しいのだ。せっかく発心して仏弟子となっても、蛇などが穴倉を恋い慕うようなことをしていたのでは意味がない」

実に明快です。

まあ、だからといって、僧侶はみんな寺から出ろなどというわけではありません。実際、私たち一般的日本人の宗教生活にとって、「お寺の和尚さん」は欠かすべからざる役割を担っています。

すぐに「葬式仏教は、云々」などと言う人がいますが、日本の仏教の現状にいろいろな問題があることは事実にせよ、葬式仏教が日本人の精神的バックボーンとして機能していることは動かしがたい事実です。

日本人の高い道徳性の背後には、「ご先祖様」という感覚があります。我々の世代はあまり経験していない(私自身も経験していない)ことですが、昔は、子どもが何か悪いことをすると、仏壇の前に座らせて、ご先祖様に謝らせたと聞きます。

自分が、先祖-自分-子孫という関わりの中で存在することを認識する時、自分さえよければいいというわけではないという自覚が芽生え、自ずから自分の行動を律するようになるわけです。

そういう意味で、先祖供養を中心とする日本仏教は、日本人の精神性を支えてきたわけで、そのことに仏教者自身が誇りを持つべきだと思います。

日本の「葬式仏教」が果たしてきた役割を忘れ、誇りを失ったがために、日本の伝統を無視して葬式や法要は死者に対する供養ではないなどという馬鹿なことを言う宗派やら(阿弥陀様に対する感謝だなどというのですが、もし、そういう思想が檀家に浸透したら、阿弥陀様への感謝をするために、僧侶に大金払わないといけないのかという当然の疑問が起こってくるでしょう。檀家が亡くなった人への供養と思い込んでいる錯覚を利用した詐欺みたいなものです)、戒名やら何やらで高額の布施をふっかけるボッタクリ坊主が増えて、葬式仏教不要論みたいな話になるわけです。

そういうことはともかくとして、出家と在家という関係の中で、今の僧侶はどういう位置にいるのか、また、出家とはどういうものかということを考える必要があるのではないかということです。僧侶になったから出家というのでは、ちょっと違うのではないだろうかと。

それともう一点、こういう厳しい実践を自らに課している人というのは、他人に同じことを強要しない(それどころか、基本的に何かを強要するということがない)というところが重要なポイントです。

風外禅師は、「出家ののちの出家が難しい」と言い、自らは紹太寺の開山になることを拒絶しながらも、鉄牛禅師に同じことをしろとか、あんたは間違っているとかとは一切言ってないわけです。

私は、ここが本物か偽物かを見分ける重要なポイントだろうと考えています。

だいたい、自分が自分で言っているほどのことをしていない人というのは、自然に言うことが押しつけがましくなるものです。特に宗教はたいていそうです。

そのあたりを見抜くことができれば、変な教祖に惑わされることはなくなるだろうと思うわけです。まあ、それが難しいことなのですが。

釈尊ご自身がそうでしたが、出家の論理すなわち真諦(しんたい)を、在家の個人であれ、社会や国家に対してであれ、押しつけるようなことはすべきでありません。まず自分が実践すべきだろうと思います。

例えば、軍備を持つなというのであれば、そんなことで政治活動をするのではなく、自分が寺を出て、無一物になって、殴られても蹴られても抵抗せず、警察にも頼らない生活をしてみればいかがでしょうか、ということです。

それを自分でやってみれば、他人様にまでそれを押しつけようという気にはならないだろうと思うわけです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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