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2010-04-01

桃水雲渓(5)

桃水雲渓(4)

翌朝、桃水と琛洲は祠を出て、坂本の町で物乞いをしてまわり、そのまま堅田のほうへと向かいました。

しばらく行くと、道の傍らに年老いた乞食が倒れて死んでいるのに行き会いました。桃水はそれを見ると、琛洲に向かい、近くの村の入り口にある小屋に行って、鋤を借りてくるように言いました。

そして、もし何をするのかと聞かれたら、「我らの仲間が一人死んだのですが、そのまま捨てておいたならば、往来の人が悪臭で迷惑するでしょう。それで死骸を隠したいのですと言うように教えました。

琛洲が鋤を借りてくると、桃水は自ら穴を掘り、乞食の遺体を埋めました。それを見ていた琛洲は、思わず「本当に不憫なものよ」と言いました。

すると、それを聞いた桃水は「不憫じゃと? なぜ、この死人だけが特別に不憫だというのか」と言いました。

「上は天子や将軍から下はこの死人に至るまで、糸一筋、米一粒も携えずに生まれてくるものだ。とするなら、死ぬときに裸で飢えて死んでいったとしても、帳尻があったというだけのことだ。たとえ百万石の米を設けたとしても、その時節が来たときには一さじの粥ものどを通らなくなる。また、衣装を倉いっぱい貯めたとしても、死ぬときには経帷子(きょうかたびら)一枚だけで旅立つのだ。ここのところに気づかないものが多くて、天子や将軍、大名が死ぬのは何か特別のことのように思っているが、まったく愚かなことじゃ」

そして、乞食の死骸を埋め終わると、その枕元にあった雑炊らしきものの食べ残しが入ったお椀を取り、美味そうに半分ほど食べました。そして、残りを琛洲に渡すと、「お前もいただきなさい」と言いました。

師匠に勧められたとはいえ、雑炊なのか反吐(へど)なのかわからないような代物です。それでも一口か二口は口に入れたものの、とても喉は通りません。

それを見ていた桃水は、お椀を取り戻すと、美味しそうにすっかり食べてしまいました。琛洲は、なんとか口に入れた分だけは飲み込んだものの、しばらくすると、突然顔色を変え、食べたものを全部吐き出して、その場に座り込んでしまいました。

桃水は言いました。

「だから、最初からついてくることはできないと言っただろう。さあ、帰りなさい。昨日、袈裟や道具を預けてきた小屋に行くのだ。十日ばかりの間には小僧が受け取りに来るからと言ってあるから、荷物を返してもらいなさい。そして、智伝と一緒に仏国寺の高泉和尚のところに行って、私たちは雲渓の弟子です、雲渓の指示でこちらにきましたと言って、弟子入りを願いなさい。そして、高泉和尚のもとで、命を投げ出すような厳しい指導を受けても躊躇しない覚悟で修行しなさい。わしのことなど、夢にでも思い出さないように。それでこそ孝順の弟子というものだ。では、さらばだ」

そう言うと、湖水のほうに去っていきました。

さすがに琛洲も諦めざるをえず、桃水の指示通り、智伝とともに高泉和尚の許を訪れ、弟子入りして修行に励みました。そして、言われたとおり、敢えて死ぬまで桃水に会おうとはしませんでした。

さて、桃水の境地は私が云々できるようなものではないので、敢えて触れることはしませんが、一つ感じるところを。

風外慧薫(ふうがい えくん)もそうですが、桃水の逸話を見ていて思うのは、自分自身が徹底した実践者であって、悟った立場から教えを説いたり、弟子を育てたりという一ではないということです。私の師匠などもそういう人でしたから、余計に感じるところがあるのだろうと思います。

そして、そういう人の特徴というのは、自分に課していることを人には強制しないということです。それは当然のことで、弟子や信者よりはるか先を行っている人が、自分自身に可能な最前線を実践しているのですから、弟子や信者にまねのしようなどありません。

それは、その時点でそうということかもしれませんが、そもそもそういう段階まで進めば、人によってやるべきことが違うということかもしれません。

このことは、当たり前のことのようですが、現実には逆のことが多いものです。実際上、やむを得ない側面があるとはいえ、往々にして、ある教団なり宗派なりに入るということは、そこの型に入れられるということを意味します。

もちろん、修行というのは一時的に型に入れられることも必要ですが、最終的には自分の型を作っていくべきものだろうと思います。

しかし、特に新宗教などにおいては、型にはまった人間を作ることが目的になっていたりするものです。そのほうが教団の拡大にとって便利だからです。

そして、自分がやっていることを他人にも押しつけるどころか、自分はしていないことさえ押しつけることが少なくありません。しかも本人は、自分がそれをしていないということに気づいていなかったりするものです(嘘みたいですが、本当に)。

そういうことを思うにつけ、桃水和尚の逸話の中でも、こういう部分に惹かれるわけです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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