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2010-04-12

桃水雲渓(12)

桃水雲渓(11)

鷹峰に住むようになった桃水(とうすい)和尚は、角倉からつかわされた使用人に酢を売らせ、病気もせずに晩年の7、8年を過ごしました。ある時は酢屋の通念、またある時は道全と名乗ったそうです。

そして天和元年(1681)9月19日、座禅を組んだまま亡くなりました。そのそばには自筆の遺偈(死に臨んで、自分の境地を漢詩にしたもの)が残されていました。

七十余年快哉
屎臭骨頭
堪作何用

真帰処作麽生
鷹峰月白風清


(七十余年、楽しかったものだ。屎臭い老いぼれになってしまい、何をすることもできなくなった。イー。涅槃の境地とは如何に。鷹峰の月は白く、風はすがすがしい)

桃水が亡くなると、使用人は急いで角倉に伝えました。角倉がすぐに仏国寺に連絡すると、琛洲と智伝が来て遺骸を仏国寺に引き取り、高泉和尚を導師として葬儀を行いました。

墓所は今も仏国寺にあり、そのかたわらには琛洲と智伝の墓が並んでいるそうです。

ということで、ようやく桃水和尚の生涯を一通り見終えたわけですが、最期は坐脱(ざだつ)、すなわち座禅を組んだまま遷化するという見事な生涯でした。

最後に3点ほど思うところを書いてみます。

まず第一に、前回も書いたことですが、桃水の目指したものは、一切の束縛から離れた自由の境地ではなかろうかということです。そして、それは一般社会の価値観から見れば、非常に我が儘で無責任に見える……というか、事実我が儘で無責任です。

真俗二諦という観点からすれば、俗諦<span class="ruby1">(ぞくたい)とは世俗の世界のルールに従って、あるいは利用して、その中での成功や幸福を目指すものです。世俗の世界のルールに従うということですから、当然不自由さを前提としますし、頭を使い、体を使い、気を使って、相応の努力をすることが必要になります。

不合理な価値観や制度にも従わなければなりませんし、それを変革しようとすれば、当然、それに従う生き方よりはるかに多大な知力・労力を費やさなければなりません。しかも、その過程では双方に犠牲者が生じます。変革が成功したとしても、そこには別の不合理が必ず生まれますから、人々にその不合理を強いることになり、いずれそれに不満を持つ勢力によって倒されることになるわけです。

いずれにしても、俗諦の世界というのは不自由なものであり、責任やら努力やら服従やらというものを前提として成り立っているものです(ですから、信者に責任やら努力やら服従やらばかりを求めて自由が抑圧されているような教団は、俗諦レベルの教団だといえるわけです)

それに対して、真諦(しんたい)の世界とは自由の境地です。

以前、六道輪廻の世界と四聖(六道を離れた悟りの世界)の違いとして、四聖の世界は自分のおかれている境遇がどのようなものであっても、心の平安や安寧を保つことができることと書いたことがありますが、言い換えれば「心が自由であること」といえます。

イエス・キリストが「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8;32)と言ったのも、そういうことではなかろうかと思います(ただし、原文の文脈は護教的な読み方と神秘主義的な読み方ができますから、注意が必要ですが)

心が自由であるためには、必ずしも自分の置かれた境遇は関係ないとはいえ、やはり境遇自体も自由であったほうが望ましいことは言うまでもありません。そこで、世俗の世界を離脱するという生き方、すなわち出家という選択も出てくるわけです。

釈尊が出家した動機は、生死を超越することであり、そのためにすべてを捨てたのだろうと思いますが、悟りを開いた後も出家を続けたのは、やはり環境自体が自由であるほうが望ましかったからでしょう。

以前も書いたように、出家と言えども、仏教の場合は世俗社会との関わりを前提として存在していますから(飲食は在家に依存している)、社会から干渉されず、責任も持たず、そのかわり出家者の側も社会に干渉しない(価値観を押しつけない)という適度な距離を保つことにより、自由な環境を確保したといえるでしょう。

ただし、ここで注意しておかなければならないのは、世俗社会との関わりを前提としている以上、完全に世俗社会の価値観(俗諦)から自由になることはできないということです。

極めて皮肉なことですが、世俗の社会を拒否すると、たしかに自由になる一面もありますが、かえって不自由になる側面もあります。

例えば桃水和尚でも、ある程度元気なうちは乞食に混じったり、肉体労働をしたりして生活を維持していくことができました。腐ったような雑炊を食べ、せっかくもらった金子や寝具を他の乞食に与えて自分は何も持たないというのは、一般社会の感覚から言えば苦しく不自由な生活ですが、桃水和尚自身にとっては自由以外の何ものでもなかったと思います。

ところが、だんだん年を取るにつれ、体の自由がきかなくなると、そうも言っていられなくなります。有馬での逸話を考えればわかることですが、もし雲歩和尚と出会わなければ、思うように湯治をすることもできなかったわけです。

さらに、雲歩和尚が桃水和尚と一緒に湯治することを喜んで承知したというのは、かつて桃水和尚が真俗二諦の世界にまたがって生活していた時代に、両方の世界で雲歩和尚に敬愛の念を抱かせるだけの因を作ってきたからにほかなりません。

あるいは、逆を考えてみましょう。俗諦の世界に徹底し、経済的基盤や社会的基盤を築いた人というのは、その分の自由が保障されます。無論、それ相応の義務や責任も生じますから、必ずしも経済的基盤や社会的基盤があるから自由だとは限りませんが(場合によっては、そのためにまったく自由がなくなってしまうという立場もありえますから)、それにしても、経済的な問題に煩わされないというのは、自由かどうかを決める極めて重要なポイントでしょう。

世俗社会の成功を追い求めるあまり、あまりにがめつく、目先の利益を追い求めるような生き方をすると、結局、世俗社会の成功すらおぼつかない、真諦の世界を踏まえた生き方のほうが世俗社会での成功と維持にとって有効だということも事実です。

そのように考えると、真俗二諦をわきまえた生き方というところに、我々人間がこの世で生きていくためのポイントなり、この世での人生で習得すべきポイントなりがあるように思われるわけです。

桃水和尚の最晩年というのは、うらやましいほど理想的なあり方ではないでしょうか。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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