--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2010-04-22

統一教会談議(後編)

統一教会談議(中編)

前回までの内容で、A氏の、統一教会の問題は弟子たちが文氏の教えを実践せず、誤解・曲解によって教会内にサタン圏を作ってしまったことにあるという主張と、それに対するB氏の、教会特に末端信者の惨状に対し、文氏をはじめとして誰も責任をとろうとしていない実態を見れば、そもそも最初からインチキで、ちょうど詐欺師が責任をとるつもりがないからこそ平気でもっともらしいことを言うのと同じだと考えるのがもっとも合理的だという主張を紹介しました。

そこで、私としての見解ですが、基本的にB氏と同じですが、少々スタンスが違います。

まず、統一教会の悲惨な状況については、弟子たち(幹部)が文氏の教えを正しく理解せず、自分に都合よく誤解・曲解しているためだということについては、私も同意します。

例えば、統一教会で信者を服従させるための理論として批判されるアベル・カインの関係について、『原理講論』なり文氏の教えなりを見ると、実際の教会で押しつけられていること、あるいは実践されている内容とはまるで反対のことが説かれています。

統一教会の本来の教えで説かれるアベル・カインの関係は、カイン(部下)がアベル(上司)に絶対服従するというものではなく、カインがアベルに絶対服従するようになるまで、アベルがカインに尽くし愛するというものです。アベルがカインに対して徹底的に愛し尽くし、カインがそういうアベルの姿勢に感動した結果として、カインがアベルに絶対的に服従するようになる、というのが本来の趣旨です。

ところが、そのアベルがカインに愛し尽くすという肝心の過程が省かれ、カインはアベルに絶対的に服従しなければならないとしたのが根本的な間違いです。かくして、ある人曰く「ヤクザの論理」になってしまったのが統一教会の現状だというわけです。

実際、統一教会の人たちは、まったく統一教会の教えを理解していません。そもそも、どれほど関心を持っているかもわかりません。ただ、とにかく文氏を信じ、祝福を受け、何とか死ぬまでしがみついていれば天国に行けるはずだ、ぐらいの人がほとんどでしょう。

そういう意味では、文氏の教えを正しく実践していれば、今のようにはなっていないという考え方はまったく正しいと思います。

そこで、A氏などは、文氏の教えを正しく実践することが大切だと考え、そのためには教会組織の中にいては実践できないとします。それは、文氏の説教や指導の中に根拠があり、ある意味で教会を解体するような指示さえあるにもかかわらず(それが統一教会の名称変更に関わっている)、それを自分の権限や利権を守るために実行しなかった教会幹部を批判するわけです。

それに対して、私は、そう信じる人はそうすればいいと考えます。なぜなら、それらの内容についてはもっともだと思うし、社会にも迷惑を掛けず、本人の成長にも役立つであろうと考えるからです(その場では、そもそも二人を紹介したのは私だったものですから、あんまり場を騒がしてもいけないので、この部分は言っていません)。

と同時に、統一教会は、普通の人には実践不可能とも考えていますから、本気で取り組んでみれば、統一原理と文氏の間違いにも気づきやすくなるだろうという考えもあります。

教会組織を批判し、統一教会と距離を置きながら、それでも文氏とその教えを信じているという人たちの大半は、「教えは正しい。しかし、自分はそれを実践することの出来ない弱い人間だ」と規定することにより、つまり教えと実生活を分離することによって信仰を維持しています。

しかし、実践せずして教えが正しいかどうかを確認することができるでしょうか?

また、たとえ本当に教えが正しかったとしても、自分に実践できない教えであれば、それを信じることに意味があるでしょうか?

例えば、信者の半分が実践できて、残りの半分には実践できないというのであれば、自分が弱いから実践できないと言ってもいいでしょう。あるいは、信者の一割でも一分でも実践できているというのであれば、それでも努力すれば実践できる可能性があるといえるでしょう。

しかし、信者が誰一人として実践できない教えって、どうでしょうか。

文鮮明氏自身が実践しているかどうかはさておき(私は否定的ですが)、信者の誰一人として実践できていないことは間違いありません(これは全教会員が認めるところでしょう)。ということは、普通の人間には実践不可能な教えだと判断するのが妥当でしょう。

実際、この教えは実践不可能な教えなのです。その理由は最後に書きます。

さて、実践不可能だと私は断定するわけですが、しかし、実践できる人が出てこないとも限りませんし、統一教会においては文氏は実践していると主張しています。その点では、どちらに軍配を上げるかは、統一教会を信じるか信じないかという信仰の問題によらざるを得ません。

そこで、誰もが納得しうる判断基準として提示するのが、やはり「責任」という問題になるわけです(ここまでは、件の議論では話しておらず、実際には以下の内容のみ話しました)。

私は宗教において、必ずしも教祖や教義が正しくなければならないとは考えません。間違いがあったとしても、誠実に実践し、結果に責任を持つならば、自ずから修正されていくと考えるからです。

それで、統一教会の場合を考えると、誠実に実践できているかという問題は途上であるという言い訳が可能ですが、すでに生じている自己破産者や自殺者という結果に対する責任をどう考えるかということについては言い訳ができません。

これについて、文氏がそれを指示したか、していないか、そういう実態を知っているかいないかは別にして、最高責任者である以上、最終的に責任をとる立場であることは間違いありません。しかし、この問題について文氏はまったく責任をとっていません。

文氏が責任をとらなくても、また、文氏に責任がないと主張するのであれば、それに代わって責任をとる人が必要です。しかし、誰一人として責任をとろうとしません。

例えば文氏の子ども達が、自分たちの財産をすべて投げ出して、そういう悲惨な末端信者を助けようとしたならば、たとえ全員が助からなかったとしても、本物であると私は認めます。

また、文氏を救世主・真の父母と信じる人たちが、自己破産したり自殺したりしている現役信者・元信者の苦しみに責任を感じ、たとえ現実には何もできなくても、心に痛みを感じ、せめて一人でも二人でも助けたいという気持ちを持ち続けているならば、その人に対しては本物と認めます。

しかし、文氏の子ども達は、自分の生活を犠牲にして、その生活を成り立たせてきた、あるいは現に成り立たせている元信者・現信者に対して何かしようとはしていません。当然の如く君臨しているだけです。

あるいは、もし自己破産したり自殺したりしている信者の存在に心を痛め、何とかしたいと真摯に考えれば、それでも文鮮明氏を信じ続けることができるとは考えられません。そういう人たちは単に教会の悪い幹部たちの犠牲になったのだとして、他人事として感じているから、本当の意味での心の痛みを逃れることができているのだと思います。

文氏を信じるのであれば、文氏がとろうとしない責任をとるべきだ、むしろ、本当に信じているのであれば、文氏を庇うために自ら積極的に飛び込むはずじゃないだろうかと考えるわけです。

つまり、文氏もしくは後継者、もしくは信奉者が、現に起こっている悲劇の責任をとらない限り、本物とは認められないということです(本当は、世界の人類を救済したときに初めて本物といえるのですが、それはまず不可能でしょうから)。

もし、キッチリと悲劇の責任をとる、もしくはその責任に向き合うことができないのであれば、いくら文氏が正しいと言っても説得力がないでしょうという立場です。

まあ、本当は悲劇が起こった時点で…、というより世界が救われていない時点で…、というより文家自体が悲惨だという時点で説得力などまったくないのですが。

で、結論はどうなったかというと、出ませんでした。それぞれ筋金入りですからねえ。

最後に、なぜ統一教会の教えは実践不可能かという理由を書いておきましょう。

それは、統一教会の教えは、完全無欠な人間が存在しうることを前提としているからです。しかし、この世に完全無欠な人間など存在しません。統一教会では、それは堕落の結果だと説くわけですが、堕落など無関係に、この世に完全無欠な存在など存在し得ないのです。

日本人は、現世に完全無欠なものが存在しないことを前提として完全を目指します。未完成であること(完全ではないこと)は当たり前の状態であって、向上しようとしているかどうかが問題とされます。そして、どんな高い目標でもクリアしようとするわけです。

そんな日本人に、完全無欠な人間であることを求める教えなどを与えたら、どういうことになるでしょうか。

統一教会というのは、理念と現実が乖離していても、現実を否定して理念の世界に生きることができる韓国人のための宗教であって、日本人向けの宗教ではありません(だから、韓国の統一教会と日本の統一教会はまったく違うといわれます)。

つまり、韓国の宗教である統一教会は、もともと教え通りの実践など想定していませんから、古参幹部(直弟子たち)が文氏の教え通りの実践などするはずがないことは当然のことですし、それを問題視してもしかたがありません。

そんな無茶な教えでありながら、日本人の優秀性のために、それなりに実現できてしまったというのが日本統一教会の悲劇であるといえるでしょう。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

↓一日一回クリックの応援をお願いします。
人気ブログランキングへ

無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21)無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21)
(2009/01/10)
島田 裕巳

商品詳細を見る
スポンサーサイト

theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

こまいぬ

Author:こまいぬ
古今宗教研究所のブログです。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ランキングに参加しました
人気ブログランキングへ
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。