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2010-04-23

日本仏教と輪廻転生(前編)

「僧侶となってみると、世間の大方の人々は、私がこだわる問題を仏教のテーマとは考えていないことがわかった。そうではなくて、僧侶がただの葬祭執行者でないとすれば、『あの世』や『霊魂』や『輪廻転生』の専門家、よくて『親の因果が子に報い』式『因果応報』説の広報官のように見ていることがわかった」南直哉「『正法眼蔵』を読む」講談社選書

仏教とは、もともと輪廻からの解脱を目的とする宗教です(南先生がおっしゃる「私がこだわる問題」は、また別の内容だろうとは思いますが)。ですから、輪廻を前提とするものの、それ自体については主たる関心の対象とはなりません。解脱できさえすれば、輪廻がいかなるものであろうと関係ないし、来世を考える必要もないからです。来世を考える必要がなければ、因果応報も深刻な問題にはなりません。

しかし、解脱できない場合は、事前の目標として、よりよい生存の状態が望ましいということになります(地獄道や畜生道に生まれたのでは、解脱など考えることもできないでしょうから)。その意味で、輪廻や因果応報ということが問題になりますが、本来、それが主たる関心事というわけではありません。

ところが日本では、南先生がおっしゃるように、仏教とは霊界や霊魂、あるいは輪廻転生や因果応報を説く宗教と見なされています。特に輪廻転生や因果応報こそ仏教の核心と思っている人が少なくないのではないでしょうか。

その反動だと思いますが、日本の一部の仏教者や仏教学者には、輪廻はもともと仏教とは相容れないもので、釈尊は輪廻を否定していたなどという人もいます。

しかし両者とも、釈尊の出家の動機であり、何度も自分はそれを成し遂げたと主張している解脱の問題を軽視している点で、同次元の過ちを犯しています。

一方は、輪廻と因果応報を中核に置いた結果、ほとんど永久的な輪廻の繰り返しの中で、「仏」という「完全無欠な存在」に近づいていくことを目標にしています。修行(善行)を積み重ねてレベルアップし、仏というゴールを目指すという感じで、輪廻から解脱するという発想はあまりないように思います(生まれ変わりを好ましいことと思っている)。

もう一方は、輪廻自体を否定するので、解脱の必要性もなくなります。輪廻がないと認識することによって、輪廻を超えたというような言い方をする人もいます。しかし、輪廻がなく、輪廻がないことを認識すればよいだけであれば、悟った後もわざわざ出家生活を継続する必要はないでしょう。

あらゆる経典は輪廻を前提としているにもかかわらず、ごく一部の文言を恣意的に解釈することによって釈尊は輪廻を否定していたなどと主張し、輪廻を肯定する大量の根拠は後世の付加物として否定するなど、学者としても聖職者としても失格でしょう。

それはともかく、この輪廻を仏教の中心課題とするという発想はどこから出て来たのか、ということが非常に興味深い問題です。

例えば、幸福の科学の輪廻観も、この流れの上にあります。

「人間は、永遠の魂を得、転生輪廻の過程にあるのだ」(『仏陀再誕』)

「永遠の進化の過程において」(同書)

「人間が永遠の生命を生き、転生輪廻をしているという事実、」(同書)

輪廻転生を信じている場合、あまり違和感を覚えない人が多いのではないでしょうか。釈尊自身もそれを前提としているインドの輪廻とはまったく異なっていますが、日本人にとっては、むしろインド的な輪廻のほうに違和感を感じるのではないかと思われます。

生長の家その他も同じような輪廻観ですから、19世紀に起こった近代西洋のスピリチュアリズムの影響ではないかと思ってはいたのですが、それにしては広く深く根付いています。そもそも「解脱」より「成仏」が一般的だということ自体、もともと日本仏教では解脱という発想は希薄で、輪廻を繰り返しながら成仏(仏=完全な人間になる)というゴールに向かって向上していくという考え方が主流だったと見るのが自然でしょう。

では、いつ、どこでそうなったのか。

これまで因果応報や真俗二諦、幸福の科学の問題などを考える中で、ここが一つのポイントだろうと考えていました。

そんな中、久しぶりに森三樹三郎氏の『老荘と仏教』
(講談社学術文庫)を読んでいましたら、あっさりとその答えが書いてあることに気づきました。まあ、私がいかにいい加減な読み方をしていたかというか、まあ、当時はそういう問題意識が希薄だったのでしょうが。

森氏によれば、仏教が中国に受容される時点で、輪廻と因果応報が仏教の中心として認識されたのだそうです。

一般的に、中国における仏教の受容というと、道家の「無」に基づいて仏教の「空」を理解しようとする「格義仏教」や、先祖崇拝との結合などばかりが注目されているように思います。

しかし、儒教を信奉する士大夫階級の人たちが仏教に感銘を受けたのは、輪廻と因果応報、彼らのいう「三世報応」の教えでした。そして、彼らは輪廻と因果応報こそ仏教の根本義と考えたわけです。

では、なぜそれほど輪廻と因果応報に感銘を受けたのか。それが、従来考えてもみなかった新しい考え方であったということも当然ですが、それ以上に深刻な問題があったのです。

次回はそれについて考えてみたいと思います。

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老荘と仏教 (講談社学術文庫)老荘と仏教 (講談社学術文庫)
(2003/09/11)
森 三樹三郎

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