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2010-04-24

日本仏教と輪廻転生(中編)

日本仏教と輪廻転生(前編)

前回は、日本の仏教において輪廻と因果応報が中心とされていることについて、森三樹三郎氏の『老荘と仏教』によると、中国の士大夫層(知識階級)が仏教を受け入れた際、輪廻と因果応報、彼らの言葉を使うと「三世報応」の教義に大変な感銘を受け、それを仏教の根本義と考えたということまで書きました。

今回は、それはなぜかというところから考えたいのですが、その前に、仏教を含むインドの輪廻観について確認しておきたいと思います。

まず、インド宗教の輪廻では、今生で人間であったとしても、来世で人間に生まれ変わるとは限りません。天界の神々や地獄の亡者、さらには牛や馬などをはじめとする人間以外の動物に生まれる可能性もあります。牛や馬、あるいはミジンコに産まれるかもしれません。

人間以外の動物に生まれた場合、よりよい生存を目指すために善行を積むなどということはできません。再び人間に生まれるのは極めて困難になりますから、インドの人たちや上座部仏教の在家信者たちにとって、来世において人間以上に生まれることができるようにというのは切実な問題になるわけです。

仏教を含むインドの宗教では、このような輪廻の生存を苦と見なし、そこから解脱することを切望するわけです。そして釈尊は、輪廻の原因とそれを消滅させる方法を発見し、自らそれを達成したと主張したのでした。

ですから、輪廻と因果応報は仏教の前提であり、核心などではありません。そこからどう解脱するかこそが眼目であるわけです。

では、なぜ中国の士大夫たちは、輪廻と因果応報を仏教の中核と考えたのでしょうか。それは、輪廻こそが彼らの抱えていた深刻な問題を解決する回答と思われたからです。

では、その問題は何かというと、道徳的実践が幸福につながるとは限らない、この世においては悪人が栄え、善人が苦しむということが少なくないのはなぜかという問題です。

もともと中国では死後という問題にはあまり関心を持ちませんでした。子孫による先祖の祭祀がきちんと行われるかどうかということは重要な問題でしたが、生前の行為によって死後の禍福が決まるなどという発想すらなかったわけです。

ですから、ともかく現世においていかに生きるかということが中心的な課題でした。そして、少なくとも建前としては、道徳的な生き方をすることに価値があり、たとえ境遇はどうであったとしても、道徳的に生きられればよしとしました。

孔子は、周の武王を批判して首陽山に隠れ、最後には餓死してしまった伯夷・叔斉の兄弟について、「仁を求めて仁を得たり。また何をか怨まんや」といいました。仁という道徳的価値を求めて、それを実現したのだから、彼らが自分の運命を怨んだはずはないというわけです。

このような儒教を奉ずる士大夫たちは、自らの道徳的完成に伴う満足感を最高の幸福としましたから、建前としては幸福そのものに独立した価値を置きませんでした。

とはいえ、彼らも人間ですから、そういう現実的幸福を願わなかったわけではありません。「天道は善に福し淫に禍す」(書経)「積善の家に必ず余慶あり」(易経)というように、道徳的実践は必ず現実的幸福をもたらすはずだと考えたわけです。

しかし現実には、伯夷・叔斉がそうであったように、善人が苦しみ、悪人が栄えるケースが少なくありません。孔子の最高の弟子といわれる顔回も、貧困に苦しみ、最後は若くして亡くなっています。

そうなると、本当に道徳的実践には意味があるのか、という疑問が生じます。そして、道家などから儒教的道徳が批判されることになるわけです。

この問題について、儒教は答えることができませんでした。

ところが、ここに「三世報応」つまり輪廻と因果応報を導入すると、見事に問題が解決します。

例えば顔回が現世において善行を積みながら苦難の人生であったというのは、本人に記憶がなくても、前世において積んだ悪業の報いを受けたからということになります。そして、現世で積んだ善行は、たとえ現世において報われることがなかったとしても、必ず来世における幸福として報われるということになりますから、儒教が抱えてきた道徳的実践と現実の禍福が一致しないという問題は一挙に解消します。

『後漢書』には、「王公大人は、生死報応の際を観て、瞿然として自失せざるはなし」、つまり輪廻と因果応報という考え方を知って、驚き、呆然として我を忘れないものはいなかった、とあるそうです。それほどショックだったのです。

儒教を信奉する士大夫たちは、仏教そのものに関心を持ったわけではなく、儒教の抱える矛盾を解消し、補完する思想として輪廻と因果応報という思想に感銘を受けたわけです。

しかも、現世を苦と見るインド人と違い、現世肯定的な中国人(特に士大夫階級の人々)は、輪廻についても苦の生存などと見なすどころか、死んでもまたこの世に生まれることができるという福音として受け取ったのでした。

これが中国の士大夫層(知識階級)の仏教需要について森三樹三郎氏が説くところです。

そして、言うまでもなく、日本の仏教は中国で受容された仏教が朝鮮半島を通して、あるいは直接に伝わったものです。ですから、日本に伝わる以前、すでに中国において輪廻と因果応報を中心とする仏教になっていたというわけです。

続きは次回に。

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