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2010-04-26

日本仏教と輪廻転生(後編)

日本仏教と輪廻転生(中編)

前回は、中国の士大夫層(知識階級)が仏教に出会った時、輪廻と因果応報という思想を知った時、儒教における道徳的実践と幸不幸の不一致という問題を一挙に解決するものとして非常に感銘を受け、それこそ仏教の根本義だと考えたということを見てきました。

彼らは仏教そのものに関心を持ったのではなく、儒教を補完するものとして輪廻と因果応報を受け入れたので、輪廻からの解脱ということには深く関心を持ちませんでした。

そして、輪廻を苦の生存と考えるインド人と違い、現世肯定的な中国人は、輪廻を死んでもまたこの世に生まれてくることができると肯定的に受け止めたわけです。

このように、日本に伝わった仏教は、すでに中国に受容された時点で輪廻と因果応報を中心とする宗教に変わっていましたから、日本人が仏教を輪廻と因果応報を説く宗教だと受け取ったのは仕方がないこと、あるいは自然なことといえるでしょう。

仏教が中国に受容された時に儒教との関わりで変質した部分というと、もっぱら先祖崇拝の問題ばかりが注目されてきたように思います。しかし、士大夫たちが輪廻と因果応報こそ仏教の根本と考え、それがそのまま日本に伝わったのだというところに着目すれば、釈尊は輪廻を肯定したか、否定したかなどという不毛な議論をする必要はなくなるだろうと思います。

さらに、輪廻と因果応報を仏教の核心と考えるようになったのが儒教との関係であるということから考えると、前々回に書いた、もともと日本仏教では解脱という発想は希薄で、輪廻を繰り返しながら成仏(仏=完全な人間になる)というゴールに向かって向上していくという考え方も、儒教との関連で説明できるのではないかと思われます。

儒教では理想的な存在として「聖人」というものを説きます。その下に「君子」がおり、さらにその下に徳のない「小人」がいます。前回も書いたとおり、儒教で重視されるのは道徳的実践ですから、完璧な道徳の実践者(つまり完全無欠な人間)が聖人であるわけです。

そこから聖人君子という言い方ができるわけですが、我々が持つイメージというのは、道徳的に欠けたところのない完璧な人というものではないでしょうか。

つまり、儒教では完璧な道徳的実践を行える人というのを理想的な人格とするわけですが、言うまでもなく、現実には非常に困難です。というか、不可能です。

儒者たちは古代の政治に理想を見、堯・舜・禹や殷王朝を開いた湯王、周王朝を開いた武王や周公旦などの聖人が政治を司ったからこそ、理想的な政治が行われたのだと考えました。それを現代(彼らにとっての)に再現するために礼楽を重視したわけですが、しかし、そのためには自分たちが聖人や君子として振る舞わなければならないことは当然です。

論語などから考えれば、求められるレベルは聖人ではなく君子だろうと思いますが、それでも実践は大変です。表面的に君子ぶることはできても、内実はどうかというのは自分たちが一番よく知っているはずだからです。

そのようなことを考えた時、今生では聖人や君子になれなくても、輪廻を繰り返していく中で道徳的修養を積み重ね、そういう境地に到達できると考えたならば、これもまた彼らにとっては救いではないかと考えられます。

仏教でいう仏陀と儒教でいう聖人を同じようなものと見なしたと考えると、輪廻を繰り返して仏陀というゴールに到達するという、我々が漠然と持っている輪廻のイメージに合致するように思われるのです。

事実、森三樹三郎氏によれば、『後漢書』には仏教について「善を行い道を修め、以って精神を錬してやまず、以って無為に至り、仏たることを得るに在り」とあり、『魏書』には「勝行を漸積し、粗鄙を陶冶し、無数の形を経て、神明を藻練し、乃ち無為を致し、仏を得る」とあるそうです。どちらも輪廻を繰り返す中で、善行を積み重ね、精神を錬磨することによって、涅槃(無為)の境地に到達し、仏に成るという意味です。

ですから、輪廻と因果応報を中心に置き、本来の仏教では苦の生存と見なす輪廻による生を繰り返すことを肯定的にとらえる日本人の感覚は、中国人の士大夫たちが儒教に基づいて理解した仏教観を引き継いでいると見なして間違いないでしょう。

だから日本の仏教は間違っているとか何とかいう問題ではありません。それによって、(釈尊の仏教を忠実に受け継いでいるという)上座部仏教の国々より高い道徳水準を築き上げてきたわけですから、何とか長老などに文句をつけられる筋合いはないと私は考えます。

ただ、日本仏教は今後どういう方向に進むべきかということを考えるとき、こういうことを心得ていれば、輪廻は仏教的かどうかなどという不毛な議論に時間を費やす必要はないだろうと思います。

仏教は輪廻を前提としている。しかし、日本人が漠然と信じている輪廻と因果応報は、中国人が理解した仏教に由来している。それだけのことで、輪廻を絶対視する人たち(例えば幸福の科学の信者など)も輪廻を否定する人たち(例えば批判仏教を標榜する人たち)も、中国で変質した仏教を中心に考えているからおかしくなるのであって、どちらも本来の仏教という観点からすれば間違っているということになるわけです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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森 三樹三郎

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神道と道教

今必要があって『日本の道教遺跡を歩く』
(朝日新聞社)、を読んでいるのですが神道に
も道教思想が根幹に於て決定的な影響を
与えていたことが分かります。
融即、万物斉同論の見方が道家の書によって
かなり早くから日本に入っていたなら、その
後の仏教の同化についても、分かりやすく
なりそうです。

Re: 神道と道教

>うるの飼主様

ありがとうございます。

神道については、縄文神道とか弥生神道という言い方もあり、
仏教との習合以前に純粋な神道が存在したかのようにいう
人たちが少なくありませんが、おっしゃるとおり、神道と
いう名称自体が道教の別名であって、その影響を無視する
ことはできません。

そもそも現在の神道の基礎(例えば伊勢神宮など)を
確立した天武天皇・持統天皇が道教に熱心であったことを
考えれば、道教を基礎として従来の祭祀等を編成した
のが日本の神道であると考えるのが自然だろうと思います。

ただ、そのあたりについてはまだ不勉強ですので、
今後の課題にしたいと思っています。
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