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2009-11-27

悪人になろう

悪人になろう…といっても、もちろん悪いことをしようというわけではありません。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)の書いた『歎異抄(たんにしょう)』に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや善人でさえ極楽浄土に往生できるのだから、まして悪人が往生できるのは間違いない)」という有名な一節があります。

悪人こそ、阿弥陀様がもっとも救いたいと願っておられる対象だ、というわけです。

ここでいう悪人というのもなかなか解釈が難しいところで、実際、悪人こそが救われるというのだから、積極的に悪を行ったほうが救われやすいのではないかと考えた人たちもいたようです。

少々難しい話になるので、定義とか何とかが面倒な人はとばしてもらってもいいのですが、浄土真宗の教学的には、末法の時代のすべての人間は純粋な善行を実践できない悪人であると考えるそうです。そして、悪人とは自分が悪人であることを自覚した悪人(自分は本当の善行を行うことができないから、阿弥陀様によって救っていただくしかないと自覚した人)、善人とは自分が悪人であることを自覚できていない悪人(自分は本当の善行を実践できないということを自覚できず、救われるために自力で善行を実践しようとする人)と定義するようです。

※末法の時代…お釈迦様が亡くなって1500年もしくは2000年以上経つと、お釈迦様の正しい教えが伝わらなくなり、覚りを開く人がいなくなる時代になるという考え方があり、その時代を末法という。日本では永承7年(1052)から末法の時代に入ると考えられていた。

それじゃあ、悪事を働くことに何の罪悪感も持ってない人たちはどうなるんだとか、いろいろな問題がありますが、今日はそういうややこしい問題には立ち入らず、「莫令傷心神(わがたましいをいたましむることなかれ)」という観点から、「悪人」ということを考えてみたいと思います。
率直に言いまして、熱心な浄土真宗の人たちの中には、「悪人と称する善人」が結構多いように思います。

自分の悪を自覚していると言いながら、実はありのままの自分の問題から目をそらし、自分は悪くない、善人だとは思っているのだけど、真宗の教えから見て不都合なので、実感のない「根源的な悪」とやらを自覚することで(実際には、知識としてあると考えているだけ、実感はない)、「根源的な悪」を自覚していない一般人より優れた「悪人」に昇格した人たちです。

善人か悪人かという言葉は別にして、「宗教的に正しい立場の人」とすると、わかりやすいかもしれません。

つまり、看板は「悪人」ですが、本音の自己評価は「善人」なのです。

それが証拠に、その人たちの本当に悪い部分を指摘すれば、顔を引きつらせたり、不機嫌になったり、下手をすればキレたりするでしょう。まあ、そんな実験をすれば、自分の魂を傷つけますからお勧めしませんが。

そういうことになるのも、善人・悪人の定義を「悪人とは悪人であることを自覚した悪人」「善人とは悪人であることを自覚できていない悪人」とするところにあると思います。これなら誰が見たって、悪人のほうが善人より上だからです。

それで、前置きが長くなりましたが、私が「悪人になろう」というのは、もちろん、そういう意味での悪人でもありません。

まず善人・悪人の定義から考えたいと思いますが、例外として、世の中には純粋な善人というのがごくわずかながらいるようです。まったく悪意を持たない善意の人ですが、普通の人の中にはまずいませんから、考慮の対象からは外します。

で、定義しますと…

善人…自己評価も含め、人から善人と思われたい人。

悪人…自己評価も含め、人から悪人と思われても気にしない人。

人から悪人と思われてもいいと割り切るのは、なかなか大変なことです。

例えば偽悪者というのもいますが、ことさらに悪を装うというのは、悪人と見られることを気にしていないようで、実は偽善者以上に気にしています。だからこそ、あからさまに悪を強調し、ワルぶることによって、実はちゃんと自覚してやっているんだよ、本当は見た目ほど悪いわけじゃないんだよ、とアピールしているわけです。

本当は悪人じゃないというのを相手に汲み取ってもらいたいのが偽悪者です。

人から悪人と思われるというのは、非常に気分の悪いものです。そればかりではなく、悪人と思われるということは、悪人として扱われるということですから、現実的にもいろいろな不利益があります。

悪人になる、というのは精神的にも現実的にも非常に厳しい環境に置かれることです。

しかし、人間というのはすべてを思い通りに運ぶことはできませんから、どんなに善意で生きていても、常に善人という評価を受けることは不可能です。もし常に善人として評価を受けたければ、面の皮を厚くして、ずるいまねや人を陥れるようなことも必要になります。

そんなことをせずにすむのは、天皇陛下のように絶対的にその立場が保証されているような存在だけです(だから、そういう立場の存在が国の中心にいる意義が大きいのです)。

ですから、ごくごくまれに存在する純粋な善人以外で、世間から善人という評価を受けている人は、まずたいていその評価を維持するためにオモテとウラがある見て間違いありません。

それは、いくら世間の目からよく見えても、「心神を傷まし」める生き方です。

これに対して、悪人と見られることにこだわりがなければ、自分の評価を維持するために「心神を傷まし」める必要がありません。人の評価が変わったところで、自分の実態が変わるわけではないので、わざわざそのことで心を悩ませたり、苦しんだりする必要がないのです。

また、自分の評判を維持するためにずるいことや他人の足を引っ張るようなまねをする必要もありません。

さらに重要なポイントは「自己評価も含め」というところです。

人目を気にしている人というのは、だいたい自己評価が低いものです。自分の低い自己評価を他人の目に投影している人が少なくありません。人が大丈夫と言っても、本人が勝手にダメだと思っているものです。そうして「心神」をズタズタに傷ましめているのです。

ですから、自己評価においても、自分が悪人であることに罪悪感を持たないというのは大切なことです。自己評価として、自分が悪かったなどとは思わないことが大切です。

悪いことをしなかったとか、無理に善かったのだとごまかすのではなく、自分がやったことを正面からありのままに受けとめて開き直るわけです。また、あくまで自己評価ですから、他人の評価やそれに伴うデメリットは甘んじて受けなければなりません。問題は、自分の中で、自分に対して悪かったという評価をしてはいけないということです。

悪人でいるということは「莫令傷心神」ということにとって、非常にメリットがあります。悪人と評価されることが気にならなくなるというのは、六道の境地から(ある程度)抜け出しているといってもよいでしょう。

実際、世の中で成功者といわれている人は、遠くから見るぶんにはともかく、近くで接すれば、だいたいわがままです。そんな人目を気にして気遣いをしていて、大きな成功など期待できないということでしょう。

あるいは、意外に大悪人が栄えるというのも、「莫令傷心神」ということから考えれば不思議なことではありません。大悪人は、悪事を働いていることについて罪悪感を持っていないでしょうし、また善人と見られたいとも思っていないでしょうから。

このことについて、黒住教の教祖である黒住宗忠(くろずみむねただ)は「善人にも罪あり。悪人にもまた道あり」と言っているそうです。

とはいえ、人から悪人と思われることを気にしないというのはともかく、自分が悪かったと思わないのはまずいのではないか、と思うかもしれませんが、それは大丈夫です。

この世には因果応報というものがあり、時間の早い遅いはあれ、必ず自分の行為の結果を自分が受け取らなければなりません。

ですから間違いなく帳尻は合いますし、自覚的に自分が悪かったと思わないようにしていれば、現実をごまかさないぶん、因果応報ということを痛感することになりますから、自ずと悪い結果を受けるような原因は作らないということになります。

およそ信仰というのはそういうものであって、何々教を信じているから自動的に罪を犯すことがなくなるなどという都合のいいものではありません。そういう意味でも、悪人になるというのは大切なことなのです。

「心神を傷まし」めないため、悪人になりましょう。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。
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theme : 宗教
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そう~か~!

凄い内容ですね!

自己評価ということで、傷ましめていました。

これからは、切りかえていきたいです。
本当に有り難うございました~!

因果応報につきまして

 時々こちらにもお邪魔しております。記事は大変面白いので、拝見しています。もっとも、ちゃんと理解できているかどうか心もとないのですが・・・。

 さて、因果応報が出ていましたので、この際お聞きしたいと思います。因果応報は、実に好ましい法則だと思いますが、存在しているのかどうか疑問に感じています。

 例えば若者や子供が殺人事件の被害者になることがありますが、そんなひどい報いが来るような人生を歩んでいたとは思えないからです。それとも事件は報いではないのでしょうか。また、大きな天災、人災で大勢の人が亡くなりますが、千差万別の人生を歩んでいた人達がどうして同じ報いを受けることになるのか、理解できないわけです。

 お忙しいところ、恐縮ですが、お時間のとれる時にでもご説明くださればありがたいです。では。

Re: そう~か~!

>しーさー様

すごいかどうかはともかく…(汗)

真面目な人ほど、自己評価で自分を傷めている人が多いように思います。

Re: 因果応報につきまして

>荻野様

たぶん、いずれどなたかからそのような疑問が出ると思っていました。

因果応報については、たいていの人が誤解しています。まったく法則的なもので、人間の感情や都合とはまったく無縁なものですが、どうしても人間の造った道徳観念を前提として理解しようとするために、あるのかないのか疑問だということになるようです。

荻野さんがおっしゃったような内容は、いわゆる輪廻を前提としなければ因果応報が成り立たないのですが、これは信じるか否かという話で、最終的には水掛け論になると思います。

しかし、因果応報のあり方を理解すれば、身近なレベルの実生活に応用可能で、そういう体験を通して因果応報があるということを納得できます。

先日も、職場の上司との関係で一時は鬱状態になっていた人が、因果応報の法則性を理解して対処することで、大変なことが起こっても悩まずにすむようになったといっていました。どういうことがあったかを聞いて、改めて因果応報のあることを確信した次第です。

ただ、一般の感覚とはかなり違うところがありますので、前提の部分から丁寧に説明しなければ、たぶん、わけがわからないと思います(その人などは、鬱状態まで行っていたので、かえって実感を持つのが早かったようです)。

近いうちに、その内容を順次エントリーしていきたいと思いますので、それまでお待ちいただけると幸いです。

Re: 因果応報につきまして

 ありがとうございます。では、お手数ですが、よろしくお願いします。

 ところで、某宗教では、私の疑問に対しては、前世の罪、先祖の罪があるからだ、と
いう回答をすると思います。それも信じれば、納得できるので、悪いとは思いませんが・・・。

 それではまた。
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