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2010-05-03

六根清浄の大祓(2)

六根清浄の大祓(1)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

全文はリンク先で見ていただき、こちらには掲載しません。

六根清浄の大祓は「神道五部書」の中の一書『伊勢二所皇大神御鎮座伝記(いせにしょこうたいじんごちんざでんき)にある託宣が元になっていると思われます。

神道五部書というのは、鎌倉時代に成立した伊勢神道(外宮の神官である渡会(わたらい)氏によって体系化されたので度会神道ともいう)の根本経典で、主に外宮の立場から伊勢神宮の由緒などをまとめたものです。

それによりますと、雄略天皇22年(478)11月の新嘗祭の夜、伊勢神宮の祭祀を司っていた倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)から次のような託宣を受けたそうです(豊受大神は外宮の御祭神)。

まず、原文を引用します。

人乃天下之神物也(ひとはすなわちあめがしたのみたまものなり)。莫令傷心神(あがたましいをいたましむることなかれ)。神垂以祈祷為先(かみはたるるにきとうをもってさきとなし)。冥加以正直為本(みょうがはしょうじきをもってもととなす)。任其本心(そのほんしんによざして)。皆令得大道(みなだいどうをえしむ)。故(ゆえに)、神人は混沌の始を守り、仏法の息を斥け、神祇を崇(とうとびまつ)る。散斎(あらいみ)致斎(まいみ)内外潔斎(ないげけっさい)之日には、喪を弔い、疾を問い、宍(しし)を食うことを得ず。刑殺を判(ことわ)らず、罪人を決罸せず、音楽を作さず、穢悪(えお)の事に預からず、其の正を散失せず、其の精明の徳を致し、左の物を右に移さず、兵器(つわもの)を用いること無く、鞆(とも)の音(ね)を聞かず、口に穢悪(けがらわしき)を言わず、目に不浄(きたなき)を見ず、鎮(とこしなえ)に謹慎之誠を専らにして、宜しく如在之礼を致すべし

人間というのは、神の分霊(わけみたま)をいただいた存在であるから、自分の魂(心)を傷めてはならない(それは神を傷つけるのと同じである)。
神が目に見える霊験を現すには祈祷をもって先とする。目に見えない加護を与えるのは正直な生き方を根本とする。
それぞれの本心によって、すべての人々に人として踏み行うべき道を悟らせる。
ゆえに神祭りを行う人は、原初の自然な状態を守り、仏教の影響を斥け、神祇を崇拝する。
散斎齋(祭祀の前後に行う比較的緩い物忌み)致斎(祭祀当日に行う厳しい物忌み)内外潔斎(心身両面の物忌み)の日には、死者の弔いや病気の見舞い、肉を食べることをしてはならない。
死刑の判決は下さず、罪人に罰を与えることはせず、音楽は演奏せず、不浄なことに関わらず、正しい心持ちを失わず、清く明るく振る舞い、左の物は右に移さず(決まっているとおりにして、手順や位置を変えない)、兵器を使わず、弓を引く音は聞かず(戦闘には関わらず)、口に穢れたことは言わず、目に不浄な物を見ず、ひたすら謹慎の誠をまもって、宜しく「いますがごとく」の礼を行いなさい。


特に「神は垂るるに祈祷を以て先となし、冥は加うるに正直を以て本となす(神が目に見える霊験を現すのは真剣なる祈りに対してであり、目に見えない加護を与えるのは正直な生き方に対してである)という一節は非常に有名かつ重要ですが、この部分については、いずれ詳しく考えてみたいと思います。

この託宣の冒頭「人乃天下之神物也、莫令傷心神」は六根清浄大祓の冒頭に同じ言葉があり(というか、ちゃんと莫令傷心神が入っています)、最後のあたりの「口に穢悪を言わず、目に不浄を見ず」というのも、何となく似た言葉があります。

ただ、この託宣と六根清浄の大祓には大きな違いが二つあります。

まず第一は、この託宣は祭祀に携わる人々が祭祀を行うに当たっての心構えを教えたものであるのに対して、六根清浄の大祓はすべての人々の生き方について説いたものだということです。

第二は、この託宣では「口に穢悪を言わず」「目に不浄を見ず」というように、行為として穢れや不浄があってはならないとするのに対して、六根清浄の大祓では、「口に諸の不浄を言いて、心に諸の不浄を言わず」「目に諸の不浄を見て、心に諸の不浄を見ず」とあるように、たとえ行為としての不浄があったとしても、心(潜在意識)に不浄として入れなければ不浄はないとします。

これは大きな違いであって、一見すると逆のことを言っているのではないかと思えなくもありません。

しかし、前者は神祭りに対する心構え、後者は日常生活における生き方の問題を扱っていますから、そもそも同じというわけにはいかないのであって、互いに矛盾しているというわけではありません。

言い換えれば、前者は天照皇大神の託宣の「神は垂るるに祈祷を以て先となし」に相当し、後者は「冥は加うるに正直を以て本となす」に相当しているわけです。

神祭りを行うのに日常生活と同じでは不都合ですし、日常生活を神祭りの時と同じにしていたのでは参ってしまいます。そもそも件の天照皇大神の託宣が厳しく穢れや不浄を縛めているのも、それが祭祀という特別な場面であるからです。

しかし、どちらにおいても「人乃天下之神物也、莫令傷心神」がそのまま冒頭にあるというのは、祭祀の場での心構えであれ、日常生活の生き方であれ、「人はすなわち天下の神物なり、わがたましいを傷ましむることなかれ」こそが基本であるということを示しているのです。

次回に続きます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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「神道」のこころ「神道」のこころ
(1997/10/15)
葉室 頼昭

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