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2010-05-04

六根清浄の大祓(3)

六根清浄の大祓(2)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

それでは冒頭から見ていきましょう。

天照皇太神(あまてらしますすめおほみかみ)の宣(のたま)はく 
(ひと)は則(すなは)ち天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり
(すべか)らく静謐(しずめしずまること)を掌(つかさど)るべし
(こころ)は則(すなは)ち神明(かみとかみと)の本主(もとのあるじ)たり
心神(あがたましい)を傷(いた)ましむること莫(なか)


この部分は、前回見た『伊勢二所皇大神御鎮座伝記』の託宣の冒頭部分をより詳しく説いたものといえるでしょう。

天照皇太神の宣はく

言うまでもなく「天照皇大神様がお告げになりました」という意味で、以下の内容が天照大神の託宣であるということを示しています。しかし、このような始まり方をする祝詞は他に見当たりません。

明治から昭和にかけて活躍した稲荷山神誠教会の創立者・柄澤照覚の『六根清浄大祓図会・中臣大祓図会』によれば、これは、この神宣(神様の託宣)が信じるべき価値があるものであることを標榜し、その教えが疑いのないものであることを示すために、わざわざ神名をあげているのだとします。

そして、「宣はく」つまり天照大神の託宣であるというのは、この祝詞が神様の精神神徳を分け出したものであり、言葉の一つ一つが神体であるということだといいます。ですから、この祝詞を読めば天照大神が読む人の心に降臨されるので、あらゆる災難も消滅し、願い事も成就するのだと説いています。

つまり、この祝詞として珍しい始まり方は、この祝詞の霊験が極めて大きいことを示しているといえるでしょう。

人は則ち天下の神物なり 須らく静謐を掌るべし

ここから「莫令傷心神」までが、天照大神の託宣になります。

人は天下の神物(みたまもの)なりとは、人間は誰でも神様の分霊(わけみたま)をいただいた尊い存在であるということです。

大事なことは、まず、自分自身という存在が、出自や資質、能力などに関係なく尊い存在であるということ、そして、自分がそうであるように、他のすべての人も等しく貴い存在であるということです。

自分をおとしめたり、いやしめたりというのは、神様をおとしめたり、いやしめたりするのと同じことです。同時に、人をおとしめたり、いやしめたりするのも、神様をおとしめたり、卑しめたりすることと同じです。

もちろん、神道においては、人間以外の動物を始め、山川草木すべてに神が宿ると考えます。「山川草木悉有仏性(山川草木もことごとく仏性を有している)」といいますが、これは仏教用語とはいえ、インド以来の仏教には見られない、日本人独特の感性なのだそうです。

そういう意味では、人間のみならず、あらゆる存在が神の分霊をいただいた尊い存在です。ですから日本人は、古来、井戸を埋めたり、土地の形を変えるときは、必ずその土地の神様をお祭りして失礼のないようにしてきました。

ただ、その中でも人間だけは自由意志が与えられています。他の生き物がそれぞれの本能やあらかじめ与えられた性質に従ってしか生きられないのに対し、人間だけは心(知能を含む)を自由に扱い、本能から離れた行動を取ることができるのみならず、他の存在にも働きかけることができます。

これを誤った方向に使うと自然破壊などを引き起こします。逆に、正しく使うと、ただの自然状態では存在できないものを育て上げ、世界をより豊かにすることができます。近年、青森県のリンゴ農家である木村秋則さんの奇跡のリンゴが評判になっていますが、あの方の人生を見ると、まさにそれを理想的な形で実践していると思います。

そういう意味で、あらゆるものが神様の分霊をいただいているとはいっても、人間は特別な存在であり、尊いものなのです。たとえどんな状況下でも、それを確信することができれば、必ず道は開かれます。

にもかかわらず、人間はややもすると「どうせ、自分なんか…」とか「やっぱりダメなんだ…」とかと、すぐに自分を卑下したり、自信を失ったり、価値のない存在と見なしたりします。

そうかと思うと、自分に自信を持ち、価値があると思うのはいいのですが、そのために他人を見下したり、貶めたりする人もいます。

なかなか自分も他人も等しく尊い存在だと思うというのは難しいことです。

もちろん、何もないときに、ああ、自分は尊い存在なんだ、他人も尊い存在なんだと思うことは、それほど難しいことではありません。しかし、自分が落ち込んだり、追い詰められたりするような状況下でそう思えるかというと、これは大変な闘いがあります。そういうときにこそ、本当に自分が神様の分霊をいただいた尊い存在だと思っているか否かが試されるわけです。

まあ、それはそういう事態になったときに考えればいいことですが、そのためには普段から、「自分は天下の神物なり」という自覚を植え付けておくことが必要不可欠です。

この「人は則ち天下の神物なり」という言葉は、天照大神様からの私たちに対する「自分は神の分霊をいただいた尊い存在なのだ」という自覚を促すための呼びかけなのです。

そして、そういう私たちがどのような生き方をすべきかということを端的に説明したのが、「須らく静謐を掌るべし」ということです。

次回に続きます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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(2006/11)
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はじめまして。いつも興味深く拝見させていただいています。
最初にお邪魔したとき、一切成就の祓を紹介されていて、とてもすてきな言葉だなぁ。と思い、それからお散歩の度に口ずさんでいました。気持ちが清浄になる気がして、とても気持ちが良くて好きな言葉になりました。

今回は、一切成就の祓より少し長い言葉ですが、分かりやすくて、美しくて、とても好きな言葉になりそうです。
続きが楽しみです。

Re: タイトルなし

>chiharu様

コメント、ありがとうございます。喜んでいただけで感謝です。

六根清浄の大祓は、比較的わかりやすい上に、ただ読むだけでも非常に効果があり、
しかも、よく読み込んでいけばいくほど奥の深い、大変なすぐれものです。

ちょっと長いですが、一人でも多くの人に知ってもらいたい祝詞です。

これからもよろしくお願いします。
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