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2010-05-07

六根清浄の大祓(5)

六根清浄の大祓(4)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

人は則ち天下の神物なり 須らく静謐を掌るべし

前回は、「須(すべか)らく静謐(しずめしずまること)を掌(つかさどる)るべし」の実例として、私の知人の話をしました。

彼女は、夫がリストラされ、先の見通しも立たないという状況で(といっても、当然、失業保険はもらっていたわけですが)、自分が騒いでもしかたがない、これも意味があることに違いないと思い、心を動揺させませんでした。

過去を振り返らず、先々を心配せず、ただただ自分の心を静め、周りの心を明るくするように努力しながら、その時その時を(必ずしも一生懸命ではなく)生きていった結果、自分たちでも期待していなかったような結果になったわけです。

そのことを踏まえた上で、もう一度「須らく静謐を掌るべし」ということを考えると、非常に重要なポイントがあります。

彼女は柄澤照覚氏が言うように自分の精神を静謐にしたというのにとどまらず、家族が暗くなったり、嫌な思いをしないように努めました。というより、ある意味で家族のことを考えたからこそ、自分の精神を落ち着けることができたという面もあるでしょう。

とすると、それは「須らく静謐を掌るべし」の文字通りの意味である「世の中を静かで安らかにする役割を果たすべし」ということを実践していたということではないでしょうか。 

考えてみれば、もし自分の精神を静謐にするということだけを言いたいのであれば、わざわざ「掌る」とは言わないでしょう。わざわざ「掌るべし」とあるのは、それだけの意味があるはずです。

とすれば、この部分は自分の精神を静謐に保ちなさいというだけにとどまらず、自分の周囲を静謐に保つ、静かで安らかにすることを掌さどりなさいという意味とするのが正しいように思われます。

実際、彼女のケースでも、彼女だけが落ち着いていたからよかったのではなく、家族も平穏であるよう努めていたからこそ、良い結果がもたらされたわけです。

そもそも神道は「共同体の宗教」であって、個人的救済を求める宗教ではありません。それは、みんなが一緒に幸せになりましょうということもありますが、私たちが人との関わりの中で生きている以上、周囲が大変なのに自分一人だけが善い状態などということはありえないということでもあります。

例えば、自分一人の精神を静謐に保とうとしても、周りがあたふたしていたら、否応なく自分まで巻き込まれてしまいます。逆に、周りがあたふたしていても自分はまったく動揺しないというような達人であれば、その人がいるだけで、何となく周囲も落ち着いてくるものです。

まあ、そこまでの達人になるのは困難ですが、周りを落ち着かせようとすれば、自ずから自分自身の心も落ち着いてきます。人間というのは関係性によって成り立っている存在ですから、一人で山に籠もって修行するというのならともかく、人間社会の中では周囲と無関係に生きるということは不可能なのです。

ですから、社会生活を営んでいく上で、自分の精神が落ち着くようにするためには、周囲を静かに安らかにするというのがとても大切なことといえるでしょう。自分の心を落ち着かせるために周囲の人に当たるなどという行為とはまったく無縁です(まあ、そんなことをしても、本当に心が落ち着くわけではないのですが)。

彼女のケースにしても、彼女自身が落ち着こうとしていたとしても、夫が焦ったり悩んだりしていたら、やはり動揺していたでしょう。また、彼女自身が落ち着いていても、夫の気持ちを考えずに早く勤め先を探せとか何とか言って、ストレスを与えていたとしたら、やはり良い結果にはつながらなかったでしょう。

彼女は、大変なときこそ、家族を明るく穏やかに保たなければならないと思い、内心の葛藤を抑えて、夫や子どもにストレスを与えてはならないと心に決め、それを実践しました。彼女は六根清浄の大祓を知っていたわけではありませんが、その教えをしっかりと実践していたわけです。

そして、それを可能にするのが信仰というか、自分は自分を超えた存在によって生かされているという確信であろうと思います。神道においては「人は則(すなわ)ち天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり」、つまり自分は神様の分霊をいただいた尊い存在であるということです。

自分という小さい枠組みの中で考え、自分の力で何とかしようと思うと、普通の人であれば焦ったり悩んだり、あるいは人を陥れてでも自分が何とか生き残ろうと思ったりということになりがちです。

しかし、自分自身が神の分霊をいただいた存在であり、自分でも知らない可能性を秘めているのだ、神様に導かれているのだという確信を持つことができれば、能力のあるなしに関わらず、焦ったり悩んだりする必要はなくなります。

つまり、この一節は「人は則ち天下の神物なり」であるから「須らく静謐を掌るべし」という実践をしなさいということであると同時に、「須らく静謐を掌るべし」という実践は「人は則ち天下の神物なり」ということによって保証されているということも示しているわけです。

それにしても感心するのは、この祝詞はちゃんとそこまで考えて言葉を選んでいるとしか思えないことです。漠然と読んでもなるほどと感心させられる内容ですが、きちんと読み込めば、さらに深い内容が見えてきます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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