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2010-05-10

六根清浄の大祓(6)

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六根清浄の大祓(5)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

天照皇太神(あまてらしますすめおほみかみ)の宣(のたま)はく 
(ひと)は則(すなは)ち天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり
(すべか)らく静謐(しずめしずまること)を掌(つかさど)るべし
(こころ)は則(すなは)ち神明(かみとかみと)の本主(もとのあるじ)たり
心神(あがたましい)を傷(いた)ましむること莫(なか)


心は則ち神明の本主たり 心神を傷ましむること莫れ

ここまでが天照大神の神宣になります。非常に重要な一節ですが、ここも不思議な言葉の使い方をしています。特に「神明」を「かみとかみと」と読ませるところが不思議です。

「心は則ち神明の本主たり」について柄澤照覚氏は、「本主」の「主」は主宰の意味で、心は神の本体であるという意味だとしています。主宰とは、全体を指導して物事を進める立場で、一切は心によって動かされるわけですが、心は神明であるとはいわずに、神明の本主であるとするところがポイントだと柄澤氏はいいます。

というのは、「心は則ち神明なり」というと、心の他に神明はないものと誤解し、神明を敬う心が薄れてしまいかねません。「神明の本の主たり」ということであれば、神明は賓客の立場、心は本の主で、別のものではなくても両者が一致するよう努力しなければならないということを示す方便であるとします。

神明が賓客で心が主人だというと、両者は別のものに見えますが、そもそも自分自身が神の分霊であるのだから、まったく別というわけではありません。しかし、人々を教え導くために、こういう表現をしているのだというわけです。

もう少し詳しく考えてみましょう。

皆人の詣る社に神はなし 心の内に神ぞまします

神道と言えば神社とお祭り(神事)をまず連想するぐらいですから、神様を敬うというのが基本ですが、同時に内なる神ということも強調されます。上記の古歌のように「詣る社に神はなし」とまで言ってしまうと極端ですが、それほど我が心の内なる神が大切だということです。

神詣でするとも心曲がりなば これ災(わざわい)を祈るとぞ知れ

自分の心が邪であれば、いくら神社にお参りしたり、神様にお祈りしたとしても、それは災いを招き寄せているようなものだということです。

心だに誠の道に叶いなば 祈らずとても神や守らん

菅原道真の御神詠と伝えられている有名な歌です。自分の心が誠の道に適っていれば、わざわざ祈ったりしなくても神様が守ってくださるということです。

よく、どこの神様は何の御利益があるというようなことが話題になります。また、パワースポットとしての関心も高くなっています。実際、神社には確かにそういう要素もありますし(鈍い私でも感じるときがある)、お楽しみ的な要素もあって、私も結構好きなのですが、しかし、神道の本質からいえば、それ以上に自分の心のあり方が問題とされるのです。

いくらパワースポットに行っても、自分の心が邪であったり、頑なであったりしたのでは、余りよい結果を得ることはできないでしょう。

一般に信仰というと、自分の心のあり方よりも信仰対象(どういう神や仏を信じているか)ということが問題にされます。しかし、実際にはどんな信仰対象を信じているかということよりも、自分の心のあり方のほうが重要です。なぜなら、神様に色があるわけではなく、私たちの心が神様に色をつけているからです。

「笑う門には福来たる」というように、心が明るければ何かとよいことが起こります。そういう人には、神様は恵みを与える存在として働くわけです。逆に、嫉妬や恨み、不満、悩み、取り越し苦労や過ぎ越し苦労、あるいは自分を価値のない存在だとか思っていると、何かと悪いことが起こります。

心の豊かな人には福の神が来ますし、しみったれた人には貧乏神が寄ってきます。心の豊かな人に貧乏神が寄ってくるという話は聞きませんし、しみったれた人のところに福の神が来たという話も聞きません。

つまり、どんな神様を信仰しているかに問題があるのではなく、自分の心がどのような状態であるかによって決まるのです。

これは当然のことでして、我々は神様の分霊をいただいている存在ですが、我々と神様の接点が自分の心です。我々の内なる神様は心というフィルターを通して働きますから、心の状態が現象として投影されるのは当然のことです。

内在する神というのは神様の分霊であり、それは根源の神様、いいかえればサムシング・グレートであるとはいえ、それが現実にどういう神様として現れるかは自分の心が決定しているのです。

そういう意味で、自分の心こそ自分にとっての神であるといっても間違いではありません。愛の神や裁きの神、福の神や貧乏神などいろいろな神様がいますが、すべて自分の心の現れといっても過言ではありません。ですから、心こそ神明の本の主というわけです。

続きます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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自分の心が神さまであると言うのは、とても美しい表現ですね。
神社を訪れる時に、拝殿から覗き見る本殿を神秘的に感じていました。
今回の記事で、拝殿の先の神秘的な場所が自分の心に通じるようで、とても嬉しい事ですね。あんなにシンとした場所が自分の心の中にあるなんて。とても嬉しい事です。

神の宮

>chiharu様

そうですね。それを感じていただけると本当に嬉しいです。
ですから、心は本当に大切です。

先回りして言うと、次の一節である「我がたましいを傷ましむる
ことなかれ」というのは、心というのはそれだけ尊いものなので、
ちょうどお社を常に清浄に保つように、自分の心も汚したり、
傷つけたりしてはいけないということです。

神社の本殿の雰囲気を感じることができる人なら、きっと自分の
心の中のそういう部分を感じることができるに違いないと思います。
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