--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2010-05-21

六根清浄の大祓(13)

人気ブログランキングへ
↑クリックの応援をお願いします。

六根清浄の大祓(12)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

是の故に 目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず


前回は、阿頼耶識には自分の思考・言葉・行為という身口意の三業(カルマ)のみならず、五官を通じて入ってくるプラス・マイナスの情報が蓄積されていくということまでを見てきました。

しかし、六根清浄の大祓では、「是の故に 目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず」というように、五官からマイナスの情報が入っても、それをマイナスのデータとして阿頼耶識に蓄積してはいけないといいます。

それが可能になるのは、私たちが物事を見たり聞いたりするときに、見たまま、聞いたままを受け入れているのではなく、それに善悪好悪の解釈や感情を付け加え、プラス・マイナスの色づけをしているからです。

同じものを見ても、人によって感じ方が違います。

例えば、仕事で失敗して叱られたときに、自分が悪いのだからしかたがないと感じるか、嫌な目に遭わされたと腹を立てるか、期待されているんだと喜びを感じるかによって、阿頼耶識に蓄積される情報はまったく違ったものになります。

阿頼耶識にとって、客観的な情報というのはあまり意味がありません。主観的にどう解釈したか、どう感じたかということでプラス・マイナスに分けられ、阿頼耶識に蓄積されていくわけです。

ですから、相手が嫌がらせで叱ったとしても、それを自分が励まされているのだと受け取ればプラスのデータとして阿頼耶識に入り、将来のプラスの種子となりますし、相手が自分のことを思っての忠告でも、それを自分に対する嫌がらせだと受け取ると、マイナスのデータとして阿頼耶識に入り、将来のマイナスの種子となります。

まして、世の中の物事を見ると、常識や習慣、伝統、あるいは過去の経験などに基づく価値観(個人から地域、国家、人類レベルまでさまざまありますが)によってプラス・マイナスの意義づけ・価値づけされていますが、よくよく考えるとそれ自体にはプラスもマイナスもないものがほとんどなのです。

簡単な例が、黒猫が横切ったから縁起が悪いなどという迷信がありますが、これは魔女狩り時代のヨーロッパに始まったものらしく、むしろ日本では魔除けや商売繁盛の象徴とされていました。

黒猫は縁起が悪いという人にとっては、黒猫を見るというのはマイナスの情報ですが、黒猫を幸運の象徴と考える人にとってはプラスの情報です。しかし、黒猫自体には、本来プラスの意味もマイナスの意味もありません。

ならば、自分の都合のよい解釈を施し、プラスのデータとして阿頼耶識に蓄積するほうが、よほど得な話ではないでしょうか。

つまり、「目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず」というのは、自分が見たものについて、プラスの情報としての解釈を施して(最低限、マイナスではない情報としての解釈を施して)阿頼耶識に入れなさい、ということです。

腹を立てても仕方ないことには腹を立てない、嘆いてもしかたがないことは嘆かない、むしろ、そこから自分にプラスになる要因を探し、プラスのデータとして阿頼耶識に蓄積したほうが得です。少なくとも、本当にそれほど腹を立てるべきことなのか、それほど嘆くことなのかと見直すことは必要です。

「いや、それでは自分の気持ちが治まらない」「そういうことは正義に反する」などと言うかもしれませんし、それは本人の自由ですが、それによって「心神(わがたましい)を傷ましむる」ことになるのは、損な話ではないでしょうか。

何も正義を軽んじるという話ではありません。正義を実現するためにも、今、無駄に腹を立てたり嘆いたりして心神を傷ましむるするより(現状では正義が実現できないから、腹が立ったり嘆いたりすることになるわけです)、阿頼耶識にプラスのデータを蓄積し、将来において善を実現したほうが、結局はいいはずです。

そういったことも含めて、心神を傷ましめない、阿頼耶識にマイナスのデータをインプットせず、プラスのデータをインプットするために工夫を凝らすということがもっとも大切だということです。

言い換えれば、自分自身が意識的に受け入れる情報を取捨選択し、あるいは適切な解釈を施すということになります。つまり、自分が自覚的に自分の主人になるということです。

そういう観点からすると、いかにも道徳的にご立派な人というのは、一見いい人のようで、非常に有害です。この人たちは無自覚的に、正義や道徳を旗印にして、自分ばかりでなく他人の阿頼耶識にまでマイナスのデータを入力しようとします。

いや、往々にして、他人の阿頼耶識にマイナスを押しつけても、自分だけはちゃっかりマイナスを拒否していることが少なくありません。まったく迷惑きわまりない存在で、むしろ清濁併せ呑むような人物こそが本人にも周囲にも有益ですし、私たち自身がそうなっていくことが必要です。

かつての日本では、そういう人が尊敬されていました。こせこせした道徳的人間に価値が置かれるようになったのは、儒教的プロテスタントが宗教の標準みたいになった明治以降、特に第二次大戦後のことではないかと思います。

しかし、六根清浄の大祓には、これを唱え続けていれば、五官からマイナスの情報が入っても、阿頼耶識には入らないようになっていくという、さらに重要な仕掛けがあります。

次回はこのことを考えてみます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

↓一日一回クリックしてくださった方には、きっと何かいいことが起こると思います。
人気ブログランキングへ

楽する人―無能流楽々人生説法楽する人―無能流楽々人生説法
(1999/07)
無能 唱元

商品詳細を見る
スポンサーサイト

theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

分かりやすい言葉のようでいて、捉えどころのない言葉でした。

既存の概念や、先入観を軽々とひっくり返させるような解放の言葉・と言うか、浄化の言葉のようですね。個人の思考のフィルターを軽やかに取り払われるようです。

今日の取り上げられた言葉のように、囚われない、自由な心を保ちたいです。

そこなんです

>chiharu様

> 既存の概念や、先入観を軽々とひっくり返させるような解放の言葉・と言うか、浄化の言葉のようですね。個人の思考のフィルターを軽やかに取り払われるようです。

そうです。そこなんです。

宗教というのは、既存の概念や先入観をひっくり返して、人間を自由にするものなのですが(だから、新しい宗教に出会ったときの勘当があるわけです)、時間が経つうちに、それ自体が別の既成概念や先入観を形成して、人間を不自由にしてしまいます。

この祝詞は、自分がとらわれのない自由な心になれば、天地すべてが自分を応援してくれる、「為すところの願いとして成就せずということなし」ということを教えてくれているのです。
プロフィール

こまいぬ

Author:こまいぬ
古今宗教研究所のブログです。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ランキングに参加しました
人気ブログランキングへ
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。