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2010-05-22

徳もあるが、業も深い

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先日、ある宗教団体で中堅クラス…地域のスタッフをしている知人と話をして、いろいろ愚痴を聞いたり、アドバイスをしたりしたのですが、その中で、その教団に限らない誤りというか、たいていの宗教団体に共通する錯覚があることを再確認しました。

それは、宗教団体で人の上に立つ立場になるというのは、人よりも価値があるとか、清められた存在であるからではないということです。むしろ、先祖なり前世なりの業(マイナスの因縁)が大きいので、人のお世話をすることを通して、自分のマイナスの業を解消するために、そういう立場に立てられているのです。

もちろん、マイナスの業(因縁)が大きいだけで教団の幹部や信者のお世話をする立場になれるわけではありません。プラスの業(因縁)も大きいからこそなれるのであって、マイナスの業は大きいけれどもプラスの業は少ないという場合、とても人のお世話をすることなどできません。しかし、プラスの業が大きくてマイナスの業は少ないという場合、宗教団体で人のお世話をするなどという苦労をさせられる必要はないわけです。

ですから、およそ宗教団体の偉いさんが自分の下の人たちに偉そうにするなどというのはとんでもない話で、お世話をさせていただくことによって、自分が救われるのだという感謝の思いをもって接しなければなりません。自分が面倒を見ている人こそ、自分を救ってくれる人なのです。

そういう話になったのは、最近、その知人が体験した次のような話からの流れでした。

その知人(仮にNさんとします)が所属している支部の責任者を迎えて、自宅で集会をすることになったそうです。その際、Nさんがお世話をしている人の一人が、集会の前に面談を受けることになっていたのですが、前日、急遽用事ができて行けなくなったと連絡がありました。それを、何とか面談してもらわなければならないと思い、時間を調整してもらって、集会の途中から参加できるようにしてもらい、集会の後で面談を受けることができたそうです。

ところが、用事ができて遅れたのはしかたがないとして、本人がやってきたとき、「遅れました」とか「すみません」とは言わなかったのだそうです。それは、その人の癖で、本人にとっては、やむを得ない用事があったのだし、それでも無理をして参加をしたのだから、わざわざ謝る必要はないという感覚なのだそうです。

まあ、それについては、そういう人なのでしかたがないかと思っていたのだそうですが、その日の予定が終了した後の反省会で、その責任者から「あの人がそういうことをするということは、あなたの中にもそういうことがあるということだから、反省しなければならない」と言われたそうです。

それを聞いたNさんは、確かにそうだけどと思う一方で、「ということは、あなたの中にも同じものがあるということでしょう」と言いたくなったのだというのです。

実にもっともな話です。

まず、その責任者の言うことは半分その通りで、人間が人に出会うというのは必ず意味があります。宗教団体で人のお世話をするというのは、その人を通して自分が変わっていくためですから、相手の問題を指摘する前に、そういう出会いのあった自分自身を反省しなくてはなりません。

ただ、半分その通りというのは、そうやって見せられる問題が、自分が目をそらせている自分自身の中の問題であるということはよくあることですが、必ずしもそればかりではないからです。逆に、自分の中にはないのだけれども、そういう出会いを通して自分の不足に気づいたり、乗り越えられなかったものを乗り越えるチャンスを与えられていたりということもあります。

相手の問題を責める前に、まずそういう出会いのあった自分を反省するという意味では同じですし、それが自分の中に同じ問題があるというケースが多いのも事実ですが、それに限定すると、気づくべき自分の問題を見誤る可能性があるわけです。

まあ、そういう誤りを口にしている時点で、その責任者というのが自分の言っていることを実行していない人だということがわかるわけですが…。

それはともかく、自分がお世話している人の問題というのは、自分自身の悪しき因縁を解消するために与えられたもので、信者の世話をするというのは、そうでなければ解消できない因縁が本人の中にあるということです。つまり、そのぶん業が深いのです。

ですから、自分の傘下の人について、あの人が悪い、この人が問題だなどということはできないということになります。

ところが、それを敷衍すれば、Nさんが感じたとおり、支部の責任者というのは、その支部の人たちすべてが、自分の中のマイナスの因縁を解消するために与えられた人ということで、それだけ業が深いということになります。

支部の責任者になるぐらいですから、それだけプラスの因縁も大きいとはいえ、マイナスの因縁も大きいということです。

ですから、支部の責任者であれば、支部の信者さん一人ひとりが、自分を救ってくださる人であって、それに対して偉そうにしたり、ないがしろにしたりというのはとんでもないことです。もちろん、信者さんにとっても責任者やお世話してくれる人というのは自分を救ってくれる人ですから、相応の敬意を払うべきですが、一方的に偉そうにされるいわれはありません。

どんなに思い業を背負った人であっても、その人のお世話をする人というのは、もっと思い業を持っているということになる理屈ですから、教団で人のお世話をする立場の人が、お世話させていただいている信者の業の深さを云々する権利などありません。

でもって、その理屈を徹底すれば、一番業が深いのは誰かというと一番上の人、つまり教祖になるわけです。教祖というのは徳も大きいけれども、業も深い人がなるものであって、信者を救うことによって自分が救われるという人です。

ですから、教祖が偉そうにするなどというのはとんでもない話です。

もちろん、大きな徳(プラスの因縁)を持っていますから、いい思いをすることは可能です。しかし、善悪の因縁というのは、自分の行為によって増減するものですから、徳も大きい(プラスの因縁が多い)けれども、業も深い(マイナスの因縁が多い)教祖がいい思いをするというのは、せっかくあるプラスの因縁を浪費し、マイナスの因縁を増やしていくことになる、つまりマイナスの因縁は極めて多いけれども、プラスの因縁は少ないという人になっていくということを意味しています。

しかも、教祖になれるほどの徳がありますから、なかなか悪いことが起こらない、つまり徳を減らしていることに気づきにくいという危険があります。

まあ、もちろん信者というのは、そういう教祖や責任者を通して救ってもらおうというわけですから、教祖や責任者をないがしろにしたり、軽視したりして幸福になったりすることはできませんが、だからといって、一方的に偉そうにされたり、虐げられたりする筋合いもありません。

そういう目で教祖や責任者、あるいは教団を見ていれば、無駄に信仰で不幸になることもなくなるだろうと思います。

まあ、そんなことをNさんにもアドバイスしたのでした。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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