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2010-05-24

六根清浄の大祓(14)

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六根清浄の大祓(13)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

是の故に 目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず


前回は、「心に諸の不浄を見ず」「心に諸の不浄を聞かず」「心に諸の不浄を嗅がず」ということについて、外部からどのような情報が入ってきても、それをプラスのものとして解釈し(少なくともマイナスのものとは解釈せず)、マイナスのデータとして阿頼耶識にインプットしないということを見てきました。

そして、同時に六根清浄の大祓には、これを唱え続けていれば、五官からマイナスの情報が入っても、阿頼耶識には入らないようになっていくという、さらに重要な仕掛けがあるというところまで説明しました。

今回はそれについて見ていきたいと思います。

外部から入った情報をプラスのものとして解釈する、あるいは少なくともマイナスのものとしては解釈しないとはいっても、マイナス思考の強い人にはなかなか難しいものです。そういう話を聞いた当初は、なるほどそういうものかと思って実行できるのですが、時間が経つうちに難しくなり、結局理屈ではそうだけど、とか、自分にはできないと思ってしまうものです。

その原因は、自分の思いというのも、阿頼耶識に蓄積された種子(過去の業、データ)から発生するため、阿頼耶識にマイナスのデータが大量に蓄積され、プラスのデータが少なければ、自然にマイナス思考になってしまうからです。

外からのデータに解釈を施すのも、その基本は自分の中に湧いてくる「思い」であり、よほど注意していなければ「思い」に引っ張られてしまいます。そして、その「思い」は阿頼耶識に蓄積されたデータに基づいていますから、阿頼耶識にマイナスの種子(データ)が多ければ、自然にマイナスの思いが湧き上がり、入ってきた情報に対する解釈もマイナスに引っ張られ、マイナスのデータとしてインプットしてしまうことになるわけです。

そして、さらにそのデータが種子となり、マイナスの思いを引き起こして、入ってきた情報にマイナスの解釈を与えることになります。

逆に、プラスの種子(データ)が多い場合は、自然にプラスの思いが湧いてきますから、解釈を施す場合もプラスになりやすくなります。

ですから、世の中には楽観論者と悲観論者がいますが、それは単にどういう価値観を持っているかという差だけではなく、阿頼耶識にプラスのデータが多いか、マイナスのデータが多いかによって決まる面が大きいのです。プラスのデータが多ければ楽観論者になりやすく、マイナスのデータが多ければ悲観論者になりやすいということです。

それをさらに強化するのが根源的自我意識である「末那識(まなしき)です。

末那識には重要な作用や特徴がいくつかあるのですが、その一つが阿頼耶識を自己の本質だと錯覚し、執着するというものです。

阿頼耶識というのは過去のデータの集合体ですから、どのようなデータを入れるかによって変更可能なものなのですが、末那識は阿頼耶識の現状を永遠不変の絶対的なものと錯覚し、執着します。自分とはそういうものだと思い込み、それを守ろうとするわけです。

すると、どうなるかというと、阿頼耶識にマイナスの種子(データ)が多い人は、末那識の阿頼耶識に執着する働きにより、無意識のうちにそれを自分の本質だと思い込み、守ろうとします。怒りというデータの多い人は、怒りっぽいということこそ自分の本質だと思い込んで、無意識のうちにそれを守ろうとし、ひがみというデータの多い人は、ひがみっぽいことこそ自分の本質だと思い込み、自分はついてないというデータの多い人は、不運な人生こそ自分の本質だと思い込んで、無意識のうちにそれを守ろうとするわけです。

ですから、怒りっぽい人は、湧いてくる思いが怒りの思いになりやすいだけでなく、怒りっぽい自分を変えるためのデータをインプットしようとしても、末那識がそれを妨害します。ああいう奴を許してはいけないとか、ここで怒らなければ物事が正されないとか、単に我慢がならないとか、さまざまな思いや考えを引き起こして、怒りっぽい自分が変わってしまうようなデータが入ってくることを拒絶するわけです。

わかりやすいのは自分に自信のない人で、そういう人は阿頼耶識の中に「自分はダメだ」というデータが大量に蓄積されていますから、誰が見ても人並み以上のことをやっているという場合でも、本人には「ダメだ」と感じています。

そして、周りの人がいくら褒めても、本人は素直にそれを受け取ろうとはしませんし、余り喜びもしません。それは、褒め言葉を素直に受け取ると、阿頼耶識に蓄積された「自分はダメだ」というデータを否定することになりますから、末那識がそれを拒絶し、排除しようとするためです。

周囲から見て、なんでわざわざ不幸になるようなことをするんだろう、と思うような人が少なくありませんが、そういう阿頼耶識と末那識の作用によるものです。そのため、幸運な人はますます幸運になり、不運な人はますます不運になるという事態が起きるわけです。

ですから、阿頼耶識にプラスのデータをインプットすることが開運の鍵ではあっても、そこで問題になるのは末那識の作用です。

仏教においては、末那識を「平等性智(びょうどうしょうち)」という智慧に転換することで最終的な解決をするとされるのですが、それは悟りの世界ですから、そう簡単なことではありません。

そこで、もっとも手っ取り早く、末那識の妨害を受けずに阿頼耶識にデータをインプットする方法が、言葉を活用した方法なのです。

続きます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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