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2010-05-25

六根清浄の大祓(15)

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六根清浄の大祓(14)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

是の故に 目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず


前回は、私たちの五官を通して入ってくる情報をプラスに解釈して阿頼耶識に蓄積しようとしても、それは私たちの心に湧き上がってくる「思い」に引っ張られること、その思いは阿頼耶識に蓄積された過去の種子(データ、業)によるので、マイナスの種子(データ)が多い人はマイナスの思いが湧き上がってマイナスの解釈を施しやすく、プラスの種子(データ)が多い人はプラスの思いが湧き上がってプラスの解釈を施しやすいということを見てきました。

さらに、根本的自我意識である末那識が、構成要素によって変化する阿頼耶識を永遠不変の絶対的な自己と錯覚し、執着し、守ろうとするため、それに反するようなデータを拒絶します。そのため、マイナスの種子(データ)が多い人は無意識のうちにマイナスのデータを取り込んでプラスのデータを拒絶しようとし、プラスのデータが多い人は無意識のうちにプラスのデータを取り込んでマイナスのデータを拒絶しようとします。

このような阿頼耶識と末那識の作用があるため、幸運な人はますます幸運になり、不運な人はますます不運になるということになるわけです。阿頼耶識にプラスのデータをインプットするためには、末那識というフィルターが問題になるわけです。

そこで、もっとも手っ取り早く末那識の妨害を受けずに阿頼耶識にプラスのデータをインプットする方法が言葉を活用した方法だというところまで見てきました。

これは、よく知られている方法として、1日千回「ありがとう」をいいましょうとか、「ツイてる」と言うとよい、というのがあります。

自分の言葉というのは、自分の行為であると同時に、それ自体が自分の耳から入ってくる情報ともなります。五官を通じて入ってくる情報のうち、最も簡単にコントロールできるのが、自分自身で発する言葉であるわけです。

阿頼耶識というのは極めて機械的ですから、どんな形であれ、情報をインプットすれば、そのまま受け入れます。現実を伴わない言葉であろうと、イメージであろうと、同じ情報として処理しますから、「ありがとう」という言葉も有効ですし、イメージトレーニングも効果があるわけです。

イメージトレーニングというのはある程度のテクニックも必要ですが(本当は、ただの空想でも効果はありますが)、プラスの言葉を発するというのは何のテクニックも必要有りません。ただ、機械的に言葉を言えばいいだけです。

むしろ大切なことは、無理に感情を伴わせようとしないことです。無論、感情が伴うのであれば、それにこしたことはありませんが、そういう気持ちにならないというときは、無理にそう思おうとはせず、機械的に言ったほうが効果的です。

何人かの人から、「ありがとう」と言えばいいのはわかるけど、ありがたいという気持ちになれないから言えない、ということを聞いたことがありますが、これはとんでもない間違いです。ありがたいという気持ちになれないからこそ「ありがとう」という言葉だけを言うわけで、決して無理にありがたい感情を伴わせる必要はありません。

むしろ、無理にありがたいと思おうとすると、かえって「本当はありがたくない」という感情が湧き上がってきます(末那識の抵抗です)。それは、無理に起こしたありがたいという感情の十倍だといわれるぐらいですから、阿頼耶識には大量のマイナスのデータが蓄積されることになるのです。

そうではなくて、ただ「ありがとう」という言葉だけを言う。そうすると、即効性はありませんが、感情は伴っていませんし、ありがとうと言うぐらいは特別なことではありませんから、末那識も特に抵抗せず、そのまま阿頼耶識に入っていきます。末那識に抵抗させないということが非常に重要なのです。

そして、阿頼耶識というのは非常に機械的に作用しますから、「ありがとう」という言葉がデータとしてインプットされると、「ありがとう」と言うような出来事があったのだな、と判断します。つまり、何があったのかはわからないけど、ともかくよいことがあったのだと判断して、プラスのデータとして蓄積されます。

それを続けると、阿頼耶識に「ありがとう」というデータが増えていき、「ありがとう」という気持ちが起きやすくなりますし、ささいなことにでも「ありがとう」という言葉がでやすくなります。そして、本当に「ありがとう」と言うような場面に遭遇しやすくなるというわけです。

これが言葉を活用した方法なのですが、ポイントは無理に感情を伴わせようとしないこと、呪文のように言うことです。

さて、そういう観点から六根清浄の大祓の「目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず」以下を見ると、「不浄を見るな」「不浄を聞くな」「不浄をかぐな」と禁止するではなく、「不浄を見ない」「不浄を聞かない」「不浄をかがない」と断定していることに気づきます。

この断定というのが重要なポイントで、もし「見るな」「聞くな」「かぐな」というような禁止の言葉であれば、阿頼耶識は「今の自分は、目で見た不浄を心でも見ているし、耳で聞いた不浄を心でも聞いているし、鼻でかいだ不浄を心でもかいでいるんだ」と解釈します。なぜなら、禁止するということは、現状ではそうだと肯定していることと同じだからです。

そして、現状では心で不浄を見、不浄を聞き、不浄をかいでいるというデータがインプットされる結果、阿頼耶識と末那識は自分はそういうものだと思って、マイナスのデータを取り入れるようになります。ですから、禁止の言葉というのは、阿頼耶識という観点からすると非常にマイナスの効果が大きいのです。

しかし、六根清浄の大祓は「見ず」「聞かず」「かがず」と断定していますから、これが阿頼耶識にインプットされると、「自分は目で不浄を見ても心には見ないし、耳で不浄を聞いても心には聞かないし、鼻で不浄をかいでも心にはかがないんだ」と解釈します。そして、阿頼耶識と末那識は、そういうデータに基づいて、阿頼耶識に入ってこようとするマイナスの情報をシャットアウトするようになるわけです。

さらにいいのは「目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず」というのが、わかるようでわからないというところです。

理性に訴えかけるような言葉だと、顕在意識があれこれ不要な解釈を付け加えようとしますから(納得できない、とか)、かえって阿頼耶識にストレートには入らず、効果がなくなります。しかし、わかるようなわからないような言葉で、無理に顕在意識が解釈しようとしなければ、訳はわからないなりに阿頼耶識にインプットされ、機械的に効果を発揮するようになるわけです。

さらに、この部分は調子よく唱えられるので、呪文的な効果もあります。

そういうわけで、六根清浄の大祓を唱えているだけで、無理をせず、次第にマイナスのデータが阿頼耶識に入らないようになるわけです。

ただ知識として知るだけではなく、ぜひ毎日唱えてもらいたいものだと思う所以です。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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「ありがとう」は祈りの言葉―隠岐の離島に生きる幸齢者たち「ありがとう」は祈りの言葉―隠岐の離島に生きる幸齢者たち
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