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2010-06-03

六根清浄の大祓(20)

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六根清浄の大祓(19)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

(こ)の故(ゆゑ)
目に諸(もろもろ)の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅(か)ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言はず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
(こころ)に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想(おも)はず


身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず

これはもう説明の必要はないでしょう。マイナスのデータを阿頼耶識に入力しないということです。

桃水雲渓が破れた衣を着て野菜に下肥をやっていたとき、法兄の船岩和尚から「清浄の身であるべき沙門が糞尿を扱ったりしてはいかん」と言われ、「畑に肥をやったからといって、心まで汚れるということはない」と答えたエピソードが思い出されます。

意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず

(こころ)に思って 心(こころ)に想(おも)わないとは、普通に考えれば不思議な感じですが、意が第六意識、心が第八阿頼耶識だということがわかれば、ともかく意と心の違いはわかります。

因みに、意(こころ)に思って 心(こころ)に想(おも)わないでは不都合だと考えたのだと思いますが、心のほうを「中心」と書いて「なかご」と読ませる場合もあります。

私が初めて六根清浄の大祓を音声で聞いたのは、山田誠人氏の『古神道の行法と科学』のビデオだったのですが、それでも「中心に諸の不浄を想わず」と言っていました。

中心(なかご)ということになると、私たちのうちにある神様の御分霊ということになります。それは理論上正しいし、本来の意味から考えてそちらがより正確だと考えられなくもないのですが、以下のような理由から、私は採用していません。

すでに説明したとおり、神様の御分霊そのものは穢れるということはありません。あくまで穢れるのは私たちの阿頼耶識です。それはちょうど、鏡が曇ったり汚れたりしても、それは鏡の表面に曇りや汚れが付着しただけで、鏡そのものが曇ったり汚れたりしているわけではないことにたとえられます。

その解釈でいけば、心(中心=神様の御分霊)に不浄を見ず、聞かず、かがず、言わず、触れず、想わずというのも、穢れが付着することはあっても、心(中心=神様の御分霊)そのものが穢れているわけではないという意味になります。

ですから、その穢れを祓い清めればいい、いたずらにクヨクヨする必要はないということで、それはそれで間違いのない事実ですし、また、それを確信することによって阿頼耶識に不必要なマイナスのデータを蓄積しないという効果があります。

ただ、それを素直に信じ切ることができる人なら十二分に効果があるのですが、残念なことに、私を含めてたいていの人は、それがどういう理論に基づくのかを考えたがります。そういう人は、納得するにせよ、納得しないにせよ、「考える」という時点で効果がほとんどなくなってしまうのです。

「信じるものは救われる」で、例えば「大丈夫だよ」と言われて、大丈夫と思い込んでしまえる人は本当に大丈夫になるのですが、自分に「大丈夫」と言い聞かさなければいけないようでは本当に信じているのではなく「信じているつもり」「信じようとしている」ということですから、なかなか厳しいものがあります。

「自分の内にある神様の御分霊は、決して穢れることはないから大丈夫」と言われて、ああそうかと思っても、現実には阿頼耶識にマイナスのデータがインプットされると新たなマイナスの現象を引き起こすという現実は変わりません。

素直に信じ切ることができる人というのは、そういうときでも「自分の内にある神様の御分霊は、決して穢れることはないから大丈夫」といって平然としていられる人です。それによって、マイナスの現象がマイナスのデータとしては入力されなくなります。

しかし、そういう人は稀であって、普通はこれはまずいのではないかと考えます。本当にまずいのはマイナスの現象が起こることではなく、まずいのではないかと考えることなのですが、やはり現実を見ると、平然としているというのは難しいものです。

となると、ただ信じ切れるというのがベストなのですが、無理をせずにまず理論的に納得し、その上で効果がある方法を実践するのがよいということになります。

そもそも意(こころ)と心(こころ)をわざわざ区別するために中心(なかご)と言い換える時点で、理論的に考えて納得させようという賢しら(さかしら)が入っているように思います。

私からしてみれば、「心(こころ)に諸の不浄を想わず」で素直に納得できるぐらいでなければ、なかなか効果は期待しがたいのではないかと考えるわけです。まあ、そうはいっても、そう唱えている人の大半は、そんなややこしいことは考えず、素直に唱えているのでしょうから、いちいち引っかかる私の問題とも言えるでしょうが。

そんなわけで、私としては「中心(なかご)」という言い方は採らないわけです。あくまで私自身のこだわりですので、自分が素直に納得できるほうで唱えるのが一番いいと思います。

こういうものは「どちらが正しいか」よりも「どちらがしっくりくるか」というのが大切だからです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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