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2010-06-08

六根清浄の大祓(23)

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六根清浄の大祓(22)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

此の時に清く潔き偈あり

この部分は説明するまでもないでしょう。心に不浄を見ず、聞かず、かがず、言わず、触れず、想わなければ、私たちの心は清浄となり、私たちの内なる神様の分霊(わけみたま)がそのまま現れることになるということです。

つまり、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根、身口意の三業は、私たちの心(阿頼耶識)の表れでもありますから、心(阿頼耶識)が浄められ、私たちの内なる神様の分霊がそのままに現れるようになれば、自ずから六根も身口意の三業も清浄になる、つまり六根清浄であるということになるわけです。

ですから、神道では「心不清浄なれば人、心清浄なれば神」といい、仏教では「迷えば凡夫、悟れば仏」といわれます。

根本的には私たちの阿頼耶識が浄められるということでしょうが、特にここでは、六根清浄の大祓を唱えることによって、私たちの心が清浄になったという意味としたほうが祝詞の趣旨に合うでしょう。

さて、ここの部分について、柄澤照覚氏は『六根清浄大祓図会』で、六根を清浄にしなければならないと思うあまり、本心に背いてしまってはならないと注意しています。

柄澤氏は、例として『新著聞集』にある話を取り上げています。

それによれば、松平薩摩守(徳川家康の四男、松平忠吉のことか?)が、近習の侍に初めての子どもができたと聞いて、「汝は子どもができたそうだが、さぞ可愛いことであろう」と尋ねたそうです。ところが、その侍は「いえ、まったくそのようなことはございません」と答えました。「まさか、可愛くないなどということはないだろう」と再三聞き返したのですが、誓ってそのようなことはないと言います。

すると、松平薩摩守は非常に怒り、我が子を可愛く思わないような邪見の心の持ち主では、主人に忠節を尽くすことなどできるはずがない、我が家には相応しくないといって、改易させてしまったそうです。常に厳しい主君なので、そう言えば評価されるだろうと思ったのが、思惑に反して我が身の災いとなってしまったというわけです。


そういうことからもわかるように、六根を清浄にするといっても、親子の愛情をも思わないようでは、どうして神明に忠義を尽くせるはずがあろうか。神国の人としては相応しくないといって追放されてしまうだろうとします。

無論、ここを読んでくださっている方は、すでに六根を清浄にするというのが、ただ自分の行いや考え方を清浄にする、不浄を避けるというだけではなく(もちろん、それが一番大切なことではありますが)、阿頼耶識にマイナスのデータを入力しないということだと理解されているでしょうから、そのような過ちをすることはないだろうと思います。

柄澤氏の『六根清浄大祓図会』は、もともと昭和12年に出版されたもので、明治から戦前の儒教的な堅苦しい価値観が背景にあるものと思います。それを考えれば、わざわざこのような注意を促していることもよく理解できます。

そういった価値観は、明治になって、世の中全体に武士的な価値観が広がった結果ではないかと思います。四民平等になった結果、堅苦しい儒教的価値観が国民各層に浸透し、さらに、同じく堅苦しいプロテスタント的価値観を世界標準のように錯覚して受け入れたため、日本古来のおおらかな精神性が失われていったのではないでしょうか。

戦後は、そういった堅苦しい価値観が否定され、一見、自由が尊重されているようですが、その実態は単なる戦前の価値観に対する反動・否定であって、その根底には戦前の価値観があります。それではいくら自由に振る舞っているようでも、儒教的・プロテスタント的価値観から解放されたわけではありません。

我が儘勝手な振る舞いが「心神(わがたましい)」を傷ましむることはいうまでもありませんが、道徳的な厳格さが心神を傷つけることも何度も書いたとおりです。

老子が「大道(だいどう)廃れて仁義あり。知恵出(いで)て大偽(たいぎ)あり。六親(ろくしん)和せずして孝慈あり。国家昏乱(こんらん)して忠臣あり」(大道が廃れてしまったから、仁義ということがいわれるようになった。知恵を使うようになったから、大嘘が現れた。家族関係が悪くなったから親孝行とか子どもへの慈愛ということがいわれるようになった。国家が混乱しているから忠臣というものが現れるのだ)といっているように、ことさらな善行というのは人為的なものであって、「本心から」というのとは違います。

神道では「惟神(かんながら)つまり「神様のご意志のままに」という言い方をしますが、自分の内なる神様の分霊がそのままあらわれるというのは、そこに人間的な思惑が介在しないということでもあります。

そういう意味では、「ことさらな善行」というのも、善行ではあっても、神様の分霊の働きがそのまま現れたものというわけではなく、むしろそれを妨げる要素が大きいと言えます。人格的には「立派な」人が、必ずしも本人にも周囲にも善い結果をもたらすとは限らないということを見れば、よくわかることです。

「此の時に清く潔き偈あり」とはそういう意味から考えるべきであって、必ずしも道徳的に完璧という意味でないことに注意しておく必要があります。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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