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2010-06-10

六根清浄の大祓(24)

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六根清浄の大祓(23)

六根清浄の大祓(古今宗教研究所)

諸の法は影と像の如し

「法(のり)」というと、普通は「法則」とか「真理」という意味で使われますが、仏教用語としての「法(ほう、ダルマ)」には、その他にも「仏の教え」「善い行為」など多くの意味があります。ここでは「事物」とか「存在するもの」という意味、もしくは「思考の対象となるもの」の意味とするのが適切だろうと思います。

「諸の法」で、この世に存在する一切の存在もしくは自分が認識できる対象ということになります。自分が考えられるすべてのもの、というようなところで、この世のすべてのものと考えればよいでしょう。

影と像の如しというのは、影というものは必ず本体に添って離れることがなく、しかも、本体の形と同じに形を変えるのと同じように、密接に関連して切り離すことができないという意味です。

「諸の法は影と像の如し」というのは、この世の存在と自分の心は、影と本体の関係のようなものである、ということです。つまり、自分に関わる事象・現象は、自分の心がそのまま投影されたものだということです。

清く潔ければ仮にも穢るること無し

自分の心が清浄であれば、いかに不浄にまじわろうとも、それによって穢れるということはない、ということです。

これは、言ってみれば「眼に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず」から「意に諸の不浄を思いて 心に諸の不浄を想わず」までの内容を逆から言ったものといえます。

つまり、眼にさまざまな不浄を見ても、心にマイナスのデータとして入れなければ、心そのものは穢れることはありません。心は原因であり、自分を取り巻く事象も、それを認識する眼・耳・鼻・舌・身・意の六根も(自分自身の身口意の三業も)その結果ですから、原因が清浄であれば結果も清浄だということになります。

祓を修することによって身心を祓い清めれば、私たちの内なる神様の分霊(わけみたま)がそのまま現れ、六根は清浄になるということです。

ですから『六根清浄の大祓』というわけです。

説を取らば得べからず

以上の内容というのは、言葉で説明しようとしても説明しきれるものではない、理論的に説明してもなかなか納得できるものではない、ということです。

まあ、こういう内容を理解し納得できるというのは、頭の良し悪しの問題ではなく、センスの問題のようです。それこそ、わかる人にはわかるけれども、わからない人は、どれほど言葉を尽くしたとしてもわかりません。わかろうとしないというほうが正確かもしれませんが。

こういうものは直観的に理解し、さらに自分自身で実感して納得するもので、理論は後からついてきます。直観的な理解があるから、理論的な説明がすんなりと入るのです。

それを、最初から理論的に納得しようとする人は、直観的な理解がありませんから、説明すれば説明するほど難しくなります。文字通り「説を取らば得べからず」です。

また、そもそもこういうものは言葉にして正しく伝えきれるものではありません。ですから、神道では「言挙げせず(言葉にして説明しない)」といいます。禅宗で「不立文字(ふりゅうもんじ)」とか「教外別伝(きょうげべつでん)」というのも同じでしょう。

皆花よりぞ木実とは生る

この部分については、「皆従因業生」と書くほうが本来の形だと思うのですが、これだとまったく読めず、読み方の見当すら立たないので、敢えて上記のような形にしています。

意味は、すべてのものは原因があって結果が生じるということで、ここでは心が原因となって、すべてのものが生じるということを示しています。

ここでは少々興味深い言葉の使い方をしています。「因」を「はな(花)」と読ませるところです。普通なら原因は「種」と考えますし、『倭姫命世記』の神宣でも「たね」と読ませていました。となると、これは明らかな意図があって「はな」と読ませていると考えられます。

その意図を断定することはできませんが、思うに、種からいえば花も結果的なものです。とすると、心は原因でもありますが、同時に結果でもあるということを示しているのかもしれません。

これまでも書いてきたとおり、心(阿頼耶識)は過去のデータの集合体ですから、自分が五官から取り入れた情報や自分自身の身口意の三業(いわば自分に関わる現象)が原因となっています。

つまり、心から見れば、自分に関わる現象(五官からの情報や身口意の三業)は、心の原因でもあり、結果でもあります。逆に、自分に関わる現象から見れば、心が原因であると同時に結果でもあります。

種と木の実は同じですから(木の実が種になる)、心を種とし、自分に関わる現象を木の実にたとえるのは変な話になりますが、自分に関わる事物を木の実(=種)とし、心を木の実の原因であり、種の結果でもある花にたとえれば、非常にピッタリとします。

それで、敢えて「因」を花にしたのではないかと考えられるのです。

六根清浄の大祓は、さらっと読めば別段どうということはないのですが、意味を考えながら読むと厳密さを欠いた適当な言葉遣いをしているように見えます。しかし、それをさらによく考えてみると、きちんと考えた上で、あえてそうしているとしか思えない内容であることがわかります。本当に「適当な」言葉を使っているわけです。

ただただ感心するばかりです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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