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2010-06-12

葬儀と散骨

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先日、ある日蓮宗の中堅のご住職から話を聞く機会があったのですが、なかなか部外者からはわかりにくい実情や実感の部分を聞かせていただき、非常に勉強になりました。

布教師の教育にも関わってこられた方で、伝統を踏まえながらも新しい寺院のあり方を模索している非常にユニークな方です。檀家が少ないため、法務による収入は5%で、後は収益事業でまかなっているということでした。

収入面で檀家に負担をかける必要がなく、そのぶん葬儀などに対して客観的な見方をしており、家意識の変化など、精神的な過渡期にある日本の現状というものの一端を知った感じです。

中でも興味深かったのは、近年、葬送の自由を進める会などが進めている散骨についての評価でした。

檀家さんや、お寺を訪れる人の中にも散骨をされた方や、散骨を希望される方がいるので、そういう人から散骨に対する感覚を聞いたのだそうです。あくまで多人数に調査したわけではなく、ご自分が接した範囲で聞いた話なので、必ずしも一般的な意識かどうかを確認したわけではないと断った上での話でした。

それによると、海への散骨を希望している人たちに対して、死後の自分のイメージを話してもらうと、海の中に漂っているというイメージなのだそうです。つまり、個体としての意識を持ったまま、海に住んでいるという感覚があるようだというわけです。

そこには、どうも前提としてお墓を「終の棲家(ついのすみか)」として、そこに(生前と同じような感覚で)住んでいるという感覚があり、それならば狭くて陰気な墓よりも、海とか山とか広々とした、あるいは自分の好きだった場所に終の棲家を求めたいという感覚があるようだ、ということでした。

土に帰るという言い方がありますが、お墓にせよ、散骨にせよ、それは本来、大自然に帰っていくことが目的であって、仏教的には生前の個としての意識をなくしていくことが重要です。いわゆる日本で習慣的に使われる「成仏する」というのは、仏教本来の意味の「悟りを開いて仏に成る」という意味ではなく、この世に未練を残さず、行くべきところに行ったというような意味で使われます。

つまり、現世と決別し、未練を残さないということが、故人にとっても遺族にとっても重要なことです。葬儀や法要にしても、一つ一つの儀式の中でけじめをつけ、故人と遺族の心を整理していくという目的から体系化されています。

この点、キリスト教などの、今は別れることになっても、いずれ復活の時には再会して、永遠に一緒にいることができるなどというモルヒネみたいな葬儀とはまったく異なっています。

そのあたり、世の中のありのままの姿を直視するところから始まる仏教と、それから目をそらして願望にすがるキリスト教の違いを感じますが、そういう私の感想はさておきます。

そういう本来の意味から考えれば、葬式をして、火葬して、お墓に納めてという伝統的なあり方であっても、その意味をきちんと伝えていかなければ、お墓を終の棲家と考え、いつまでもそこに留まっていたいというような感覚になってしまいます。

それでも、葬儀から納骨までの一連の儀式、あるいはお墓にお参りし、法事を行いという中で遺族の心が整理されていきます。もちろん、僧侶はそのように導いていかなければならないのですが、やはり伝統というのは先人の智慧の結晶であって、形として行うだけでも、それを行う中で、自ずから心が整理されていくように体系化されているわけです。

ところが、現在ではその場だけの感覚で物事の善し悪しが判断され、例えば葬儀でも、宗教的な意義よりもセレモニーとしての出来のよさが重視されるようになっているのではないか、ということでした。

セレモニーとしては出来がよいが、遺族の心のケアまでは考えていない。遺族の心のケアが必要になるのは、通夜・葬儀・火葬など一連のバタバタが一段落した後なのですが、そういう視点が抜け落ちているという指摘です。

そうなると、故人と遺族の関係がきちんと整理されないままなので、いつまでも故人の師を引きずることになってしまうのだそうです。

そして、現在行われている散骨はそういう発想の延長上にあり、死というものを直視しているようで、実はしていないのではないか、という指摘でした。

なんとなくいいな、という感覚で、自然に帰るというようなことを真剣に考えているわけではないし、散骨を進めている人たちも、そういう故人と遺族の関係というところまでのケアをしてくれるわけではありませんから、お墓に埋葬した人たちに比べて、いつまでも引きずっている遺族が多いのだそうです。

このあたりは、マスメディアで取り上げられている遺族の声とはまったく違った実態があるという話でした。

ご住職によれば、今の形の散骨は、何十年か後にはやっぱりよくないということで廃れていくのではないか、ということでした。

まあ、檀家を抱えた僧侶という立場からの見解であることは留意する必要がありますが、逆に少数の檀家との継続的な関係の中での実感ですから説得力があります。

葬送ということが、その場限りのものではないという視点は、一般人にとっては忘れがちな、というか、あまり意識されていないわけですが、確かに極めて重要なポイントです。

島田裕巳氏の『葬式は、要らない』を読んだとき感じたに違和感も、ご住職の話を聞いて原因がわかりました。

島田氏は宗教学者ではあっても宗教者ではありませんし、ご自身の体験も、あくまでヤマギシ会という文字通りの疑似宗教団体ですから、伝統宗教の果たしている機能についてはよくわからないのでしょう。

伝統的な葬送に対する批判には、高額な戒名料に代表されるような、宗教的意義よりも利益を優先してきたという側面がありますが、だからといって全面的にそれらが問題だとするのも短絡的でしょう。

伝統というのは先人の智慧の結晶であり、必ずしも全面的に墨守しなければならないというわけではありませんが(そもそもそんなことはできません)、なぜそれをするのかという意義から考えていかなければ、後悔することになるだろうということを改めて考えさせられました。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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