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2010-06-24

金光教祖の御理解 その2

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金光大神(金光教祖)の言葉というのは素朴で飾らない言葉ですが、そもそも教祖の言葉というのはそういうものではないかと思います。例えば釈尊やイエス・キリストでも、伝えられている言葉というのは、飾らない言葉が多いものです。

そういえば、次のような御理解があります。

「人を殺さないといっても、心で人を殺すのが重大な罪である。人を鉄砲でうったり、刀で切ったりしなければ、私は人を殺してはいないというが、それは目に見える。目に見えない心で人を殺すことが多い。それが神様のご機感にかなわないことになる。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうから、それでかたづく。心で殺すのは神様からおとがめになる」
と仰せられた。心で殺すとはどのようなことかということについては、
「病人でも、これは大病でとても助からないなどというが、これが心で殺すことになる。氏子の心では、助かるか助からないか、わかりはしないであろう。また、あの人は死ねばよいと言ったりもする。それがみな心で殺すのである。それよりは、どうぞ向こうが改心しますようにと、神様に祈念してやれ」
と言われた。
(佐藤光治郎の伝え)


これは、次のようなイエス・キリストの言葉を思い起こさせます。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる物は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(「マタイによる福音書」5章21~22節)

また、イエス・キリストの「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打ったら、左の頬をも向けなさい」という言葉は有名ですが、金光教祖の御理解にも次のようなものがあります。

信心する人は、人に頭をたたかれても、「私の頭は痛みませんが、あなたの手は痛みませんか」という心になり、また、頭から小便かけられても、ぬくい雨が降って来たと思えばらくじゃ。
(近藤藤守の伝え)


次のようなのもありますが、ちょっとニュアンスが違うかもしれません。

負けてこらえておれ。負ければ損をするのだからばからしいと思うかもしれないが、神がまた、繰り合わせを授けてやる。そうして、人からも、よい人と言われるようになり、身に徳がついてくる。村の中でも、肩をいからして歩いたり、欲をしたりしていた者の後を見よ。あのようなことになってしまったと言われることがあろう。
(河本虎太郎の伝え)


宗教が違ったところで、同じ世界に生きているわけですから、真理そのものは同じです。そう考えれば、イエス・キリストの言葉と金光教祖の言葉に共通する内容があっても不思議はありません。

にも関わらず、どちらが上とか下とか差別化したがったり、他宗教を悪く言ったりしたがりますが、金光教祖はそれを誡めています。

氏子らの中には、此方の前に来て、人のことをそしるばかりする者がある。やれ、黒住はどう、仏道がどうなどと、そしったりする。自分の産んだ子供の中で、一人は僧侶になり、一人は神父になり、神主になり、また、他は役人になり、職人になり、商人になりというように、それぞれいろいろになった時、親は、その子供の中でだれかをそしられて、うれしいと思うだろうか。此方の前に来たら、他人のことを言うな。他人をそしるのは神の機感(み心)にかなわないことになる。釈迦もキリストも黒住も、みな神の氏子である」
(佐藤範雄の伝え)



「宗教はどれがよいでしょうか。天台でしょうか、真宗でしょうか」とおたずねすると、
「どの宗教もよい」
と言われた。さらに、「それでは、人ではだれが偉いでしょうか。弘法大師でしょうか、黒住教祖でしょうか」とたずねると、
「どちらも偉い人です」
と仰せられた。
(秋山米造の伝え)


たしかに、天地の神、宇宙の神というのであれば、そういうものでしょう。一生懸命、自分の信者を使って陣取り合戦をするようなことは必要ないはずです。結局のところ、そういうのは信者が勝手に自分の欲望を神様に投影している、あるいは神様をダシにして自分の欲望を果たそうとしているに過ぎません。

なにしろ「心は神明(かみとかみと)の本主たり」ですから、自分の心次第で神様の現れ方(あるいは見え方)が変わります。

であれば、天地の神様を祀るというのであれば、金光教祖のようなこだわりのない、広い心を持つ必要があるのは言うまでもありません。いくら天地の神様を信じていると言っても、自分の心が教団レベルのサイズしかなければ、教団レベルの神様しか対応しないからです。

「どの宗旨もくさすことはない。みな、天地の神様の氏子である。あれこれと宗教が分かれているのは、たとえば同じ親が産んでも、大工になる子もあり左官になる子もあり、ばくちを打つ子もあり商売好きな子もあるというようなものである。みな宗教が分かれているといっても、天台でも法華でも天地の神様の子で分かれているのである。そばの好きな者や、うどんの好きな者があり、私はこれが好きだ、わしはこれが好きだと言って、みな好き好きで立っているのであるから、くさすことはない。
世界中、天が下の者は、みな天地の神様の子である。天地の神様のおかげは世界にいっぱい満ちている。そのおかげがなければ空気がないのと同じで、一時も人は生きておられない」
(佐藤光治郎の伝え)


心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

※御理解は『金光教教典』(金光教本部教庁)、聖書は『新共同訳聖書』(日本聖書協会)による。

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読むほどに、心の枷が外れていくような記事でした。小手先の技術よりも、真理が大切なのだと改めて思いました。
明日、梅ジュースを作ります♪これからの季節をおいしく乗り切りますわ(^^)

Re: 梅ジュース

「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出てみよ。空が神、下が神」という御理解もあります。
自分で勝手に小さく狭くしていることがいかに多いことか…

梅ジュース、いいですねえ。もう、そういう季節ですね。
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