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2010-06-29

金光大神(2)

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金光大神(1)

前回は、金光大神(こんこう だいじん)が12歳の時、川手粂治郎の養子となり、名を川手文治郎と改め、周囲からは文治と呼ばれたところまででした。

粂治郎夫妻は、文治郎が新しい生活になじめるよう心を砕いたようです。

養子に入ったとき、そして、「嫌いなものは何か?」と聞くと、「私は麦飯が嫌いです」と答えたそうです。ただ、これは単なる好き嫌いということではなく、文治郎は幼少の頃から体が弱く、体質的に麦が合わなかったのだそうです。

とはいえ、当時は麦飯を食べるのが当たり前の時代でしたから、これはとんでもない答えでした。それでも、粂治郎は麦2升と米1升を交換してまで、文治に米の飯を食べさせたといいます。

さらに「好きなものは何か?」と尋ねました。すると文治郎は、「神仏に詣るのが好きなので、休日には快う詣らせてください」と答えました。これも思いがけない答えでしたが、粂治郎夫妻は、月に一、二度の休みのことだから、好きにすればよいと許してくれました。

このように、川手家では大切にされた文治郎ですが、やはり他村生まれの養子というのは肩身の狭いもので、村では長い間よそ者として扱われたといいます。ある時、遊び仲間に誘われて賭け事に手を出し、お金を取られて養父母に叱られたことがありましたが、それも仲間はずれにされたくないという思いから、断り切れなかったためだそうです。

13歳になると、庄屋の小野光右衛門から手習いを受けました。当時は、農民に読み書きは不要とされていた時代ですが、粂治郎の計らいにより、足かけ2年間、読み書きそろばんを学ぶことができました。

後年、自身の半生を記した『金光大神御覚書』や、神様からの重要なお知らせを記録した『お知らせ事覚帳』を遺すことができたのも、この時の手習いのおかげといえるでしょう。

実の父母も養父母も実直で勤勉な人柄でしたから、文治郎もとても真面目な働き者の青年となりました。自分の家の農作業は当然のこと、実直な人柄が信頼されて、庄屋の光右衛門から、領主の役所へ文書を届けたり、お金を納めたりする仕事を申しつけられることがたびたびありました。

あるいは、農家にとって水は死活問題ですから、井出(田んぼに入れる水をせき止めたところ)の水番は公平でなければなりません。これも文治郎の真面目な人柄が評価され、よく任されたそうです。道路や池の普請を行うときでも、骨惜しみせず働くので、よく動員されました。

これらの仕事には賃金が出るので、それが家計の助けになったといいます。

天保元年(1830)17歳になった文治は、村人十人とともにお伊勢参りをしました。

この年は江戸時代でも最大の御蔭参りがあったことで知られており、3ヶ月間で420万人以上が伊勢神宮にお参りしたといわれています。一日に4万数千人が参拝する計算ですから、その賑わいは大変なものであったと思われます。

文治郎たちにとっても見るもの聞くもの珍しい体験が多かったと思うのですが、『金光大神御覚書』には、養母のいわが足の三里に灸をしてくれたのだが、旅の途中でそれが化膿し、難渋したということだけが書いてあります。

確かに、今と違って歩かなければ前に進まない旅である上に、仲間もいることですから自分のペースで歩くわけにも行かず、そう考えれば、旅を楽しむどころではなかったのでしょう。

一行は伊勢を参拝した後、大峰山を参拝して帰ったようです。

翌年、養父母に実の男の子が誕生しました。当時、粂治郎は61歳、いわは41歳、諦めていた実の子どもの誕生でした。高齢出産のため、産後、いわは血の道を患い、100日余り体中が腫れて苦しみました。生まれた子どもは鶴太郎と名付けられ、すくすくと育ちました。

養子である文治郎にとっては複雑な心境もあったかもしれませんが、しかし、川手家にとってはもっとも幸せな時期ではなかったかと思われます。

金光教祖に限りませんが、実直な人間が周囲から浮き上がった立場に置かれたとき、否応なく自己の内面を見つめることになり、それが宗教的な飛躍へとつながることがあるのではないか、という気がします。十代の金光教祖などは特にそのような感があります。

もちろん、実の父母、養父母を含め、周囲の人たちは金光教祖を慈しみ、また、その人柄を信頼していました。そういう愛情にあふれた人間関係があってこそ、後年のバランスが取れた金光教祖の教えにつながっていくのだろうと思います。

なお、この年、文治郎はおこり(マラリア)にかかり、60日間苦しみました。

翌天保3年(1832)、蒔田広運が領主となりました。広運は幼名が荘次郎であったため、領内で「じろう」という名が禁じられ、粂治郎・文治郎親子も、それぞれ川手多郎左衛門・川手国太郎と改名しました。

今回も、名前が変わったところで次回に続きます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

参考:
『金光大神』『金光教教典』(金光教本部教庁)
『新訳 金光大神御覚書』(金光教日本橋教会)


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