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2010-07-05

金光大神(5)

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金光大神(4)

嘉永3年(1850)の家の改築について、少し詳しく見てみます。

嘉永2年(1849)の年末、いとこの森田八右衛門が来て、須恵村の青木竹治郎の古い家を買わないかという話を持ってきました。といっても、家を買って引っ越すのではなく、買った家を解体して移築する、つまり人間が引っ越すのではなく家が引っ越すという話です。

当時、文治一家が住んでいたのは六畳間と納戸だけという狭い家でした。夫婦揃って勤勉に働き、今では村の有力者となった文治にとって、家の改築というのは心動かされる話でした。

しかし、文治には気になることがありました。

文治は長男・長女を相次いで亡くしていますが、それぞれ、その少し前に風呂と便所、門納屋を建てています。当時の人々の常として、文治も子どもを亡くしたのは日柄や方位に障りがあったのではないだろうかと考えたようです。

だからといって、文治が建築に当たって日柄や方位を気にしなかったというわけではありません。文治は「信心文さ」と呼ばれるほど信心深かったこともあり、日柄・方位についてもきちんと注意を払っています。

門納屋を建てるときにもきちんと日柄・方位を見てもらい、天保14年の12月18日に手斧始めをし、15年1月8日に工事を始め、26日に建て前をするようにという指示をもらっていました。

用材は紀州(和歌山県)に注文していましたが船が戻らず、この日程には間に合わなくなってしまったので、余分な出費になるにもかかわらず、玉島(倉敷市玉島)で柱にするための材木を買い入れ、指示通りに建て前をしたほどです。

逆に考えれば、それほど気にするから、そのように見えるということでもあるでしょうが…

ともかく、文治にとっては深刻な問題でしたから、まず庄屋の小野四右衛門に相談して、日柄・方角の吉凶を見てもらうことにしました。四右衛門は、文治が手習いを受けた小野光右衛門の息子で、陰陽道も父から学んでいたからです。

その結果、問題ないということでしたので、家を買い取ることにしました。

年が明けた嘉永3年1月4日、四右衛門が井手村にある領主の役所へ年賀の挨拶に行くので、文治もお供として同行しました。役所には光右衛門が大庄屋として勤めていましたので、四右衛門が文治の家の改築について、改めて光右衛門に尋ねてくれました。

ところが、光右衛門の見立ては「今年は戌年で、文治も戌年の生まれ。年回りになるから、この建築はしてはならない」とのことでした。

しかし、すでに買い取りの話は決まっています。文治は困り果て、何とかお繰り合わせをいただけないかとお願いしました。

そこで、調べ直した結果、
「3月14日に母屋の盗難に仮の小屋を建てて引っ越しし、8月3日に古い家を取り壊し、4日に地固め、6日に棟上げをして、28日に移り住めばよい」
ということになりました。

というような次第で、無事に家の改築にとりかかることになったのですが、それでも心の片隅には本来は許されないところを無理にお願いしたことが引っかかっていたのではないでしょうか。

1月28日には買った家を解体して運ぶために須恵村へ行き、29日には運び終えました。光右衛門の指示通り、3月14日には次男の槙右衛門(9歳)とともに仮小屋に引っ越しています。

ところが5月10日頃から槙右衛門の具合が悪くなりました。医者を迎えて診てもらい、薬も飲ませました。最初、医者は心配ないと言っていたのですが、その夜、一晩中高熱で苦しみました。それで、夜が明けると早々に往診を頼んだところ、「これは意外に難しい」と言いました。

文治は驚いて一心に神仏に祈願し、親類や近所の人たちもあちこちの神々へ裸参りをしてくれたのですが、その甲斐なく、5月13日に亡くなったのです。

しかし、ことはそれだけでは済みませんでした。見舞いに来た客が三男の延治郎を見て、「この子は疱瘡が出ている」と知らせてくれたのです。槙右衛門のことにかかりきりで、三男の病気に気がつかなかったのです。それだけではなく、四男の茂平にも湿疹が出ていました。

そこで、槙右衛門の遺体を門納屋に移し、二人の子どものために「注連おろし」という疱瘡の全快を祈願する神事を行ってもらいました。文治夫妻はそちらで手一杯だったため、槙右衛門の葬儀は親類たちが執り行ってくれました。

幸い、二人の疱瘡は軽くて済みました。一人は死んでも二人は助かったということに感謝し、注連上げ(注連おろしのときに張った注連縄を外し、疱瘡の厄守りの神様にお帰りいただく神事)には親類も招き、神様に喜んでもらえるようにとごちそうをたくさん供え、神主の神田筑前にも喜んでもらえるようにお礼をしました。

神田筑前も大変喜び、お礼の品々を神主仲間にも配り、ことの次第を吹聴しました。後日、神田筑前が「神主仲間も喜んで、『なんと思い分けのよい人じゃのう。今まで、全員が揃って疱瘡を無事に済ませた家でも、これほどのお礼をした人はいない』と申しておりました。お心遣いいただきました。かたじけなく存じます。お礼申し上げます」と言いました。

それでも、文治には家の改築が金神への無礼になったのではないかということが、ますます重くのしかかってきたであろうことは間違いありません。

続きます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

参考:
『金光大神』『金光教教典』(金光教本部教庁)
『新訳 金光大神御覚書』(金光教日本橋教会)


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