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2010-07-06

金光大神(6)

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二人の子どもは助かったものの、不幸はそれで終わりませんでした。

7月16日、飼い牛の具合が悪くなりました。牛とはいえ貴重な働き手であり、当時の農民にとっては家族同然の存在です。医者を呼んで、鍼をして薬を飲ませ、つきっきりで看病をしました。

幸い、18日になると具合が良くなり、医者がもう治ったと言いました。そして、「私も帰るから、皆さんも用事をするといい」と言ったので、妻の叔父さんと建築のための材木を買いに玉島(現在の倉敷市玉島)へ行きました。

ところが、用事を済ませ、途中まで帰ってきたところで、妻の弟の古川参作に行き会いました。参作が言いにくそうに「牛が急に悪くなった」と言うので、文治は事情を悟り、「牛が悪くなっただけで、わざわざ言いに来ることはないだろう。よほどのことだろうから、死んだと言われてもしかたがない」と言いました。

すると参作はホッとして、「そう言われると助かります。実は食事の後に急に牛の具合が悪くなって、医者を呼んだのですが、来る前に死んでしまい、どうしようもありませんでした」と言いました。

文治は、帰ったところでしかたがないし、牛を見るのもかわいそうだし、どうするか迷ったものの、後のことは参作に任せて、当初の予定通り、益坂村へ用材を買いに行くことにしました。

それにしても、これで粂治郎から数えて6つ目の墓を築くことになりました。金神の祟りに対する恐れはますます大きくなっていたに違いありません。

8月3日、光右衛門の指示通り、母屋の取り壊しを行いました。

金神への無礼になることを恐れた文治は、次のような祈念をして、建築にとりかかったそうです。

「方角は見ていただき、何月何日と教えられたとおりに行います。しかし、小さな家を大きな家にするので三方へ広げることとなり、どの方角へご無礼をすることになるか、凡夫の身ですのでわかりません。建築が完成しましたら、すぐに神棚をお作りし、六根清浄の祓と般若心経を50巻ずつお唱えします」

実は、この祈念の中に、すでに後年の金光教祖の教えにつながる要素が見られます。

当時、金神の祟りを避けるには、まず日柄方位を確かめて、無礼がないようにするのが基本でしたが、それでも避けられないときは、金神封じの祈祷をしてもらったり、金神除けのお札を神棚に祀ったり、「出雲屋敷」と称して家を出雲の神々に供えたりして、金神の祟りを逃れようとしました。つまり、神という存在に対し、ただただ恐れて遠ざけようとするか、人間の知恵や力で事態をコントロールしようとしようという発想だったわけです。

これに対して、文治は「できるだけのことはしたが、凡夫の身なので、どのようなご無礼があるかわかりません」と、あくまで金神を神として奉り、慈悲と寛恕を願っています。

後年の金光教祖の御理解に次のようなものがあります。

信心はむずかしいと言うが、信者が難しくするのである。神様と心安くすることが信心になる。それを、金神様は恐ろしい神様のように思うから、逃げ逃げ拝むようになる。金神様は祟り神でもなく、人を殺す神でもない。人を助ける神である。金神様どうぞ助けてくださいと申して、信一心におすがり申して信心するものには、すぐにおかげをくださる神である。(大喜田喜三郎の伝え)

もちろん、この時点では文治も金神を恐ろしい神、祟る神としてとらえていたのですが、それでも、理不尽に祟る存在としてではなく、あくまで自分がへりくだった立場で、正面から関係を構築しようとしています。

それが、金神への無礼というのは、金神のいる方角でことを起こすからではなく、金神のいない方向、つまり留守を狙ってことを起こすからだという解釈になります。つまり、日柄・方位を見ることこそが金神への無礼だという教えになっていくのですが、それはまだまだ先の話です。

母屋を取り壊すと、翌4日には基礎工事を行い、6日に棟上げをして、28日までに移り住まなければならないという、大変慌ただしい日程でした。しかも、途中で7、8日も雨が降ったりして非常に困りましたが、それでも何とか予定通りに引っ越すことができました。

そこで、棟梁に頼んで神棚を作ってもらい、棟梁に教えられたとおりの供え物を供え、約束通りに六根清浄の祓と般若心経を50巻ずつ唱えてお礼をしました。

ところが翌嘉永4年(1851)7月16日、また飼い牛の具合が悪くなりました。医者を呼び、昼夜看病しましたが、7月18日に死んでしまいました。不思議なことに、前の牛が死んでちょうど1年目の同月同日のことでした。

こうして義弟と養父、息子2人と娘1人、牛2頭と七つの墓を築くことになりました。信心深い文治にしてみれば、これが金神の祟りではないかと考えるのは自然のことだったでしょう。

しかし、すでに見たように、文治は決して金神をおろそかにしたわけではなく、日柄・方位を見てもらい、厳格に実行するのはもちろん、供え物をしたり、六根清浄の祓や般若心経を唱えたりと、考えられるかぎりのことをしています。そればかりでなく、普段から信心深く、社会人としても信仰者としても非の打ち所のない生き方をしてきているわけです。

それでも祟りが避けられないことに、始終残念至極と思い暮らしていたといいます。また、家の改築に当たって、小野光右衛門から止められたにもかかわらず、あえて調べ直してもらった上で進めたことも、心に引っかかっていたのではないかと思われます。

改築に当たって祈願したように、凡夫の身である自分では、何がご無礼になっているかはわかりません。そのあたりから、自分自身の心や行動を中心に見つめる観点や、神の意志を知りたいという願いが切実になったのではないかと思います。

とはいえ、悪いことばかりがあったわけではありません。同じ年の12月、次女のくらが生まれました。

なお、この年には実の母のしもが、嘉永6年(1853)には実父の十平がなくなっています。

続きます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

参考:
『金光大神』『金光教教典』(金光教本部教庁)
『新訳 金光大神御覚書』(金光教日本橋教会)


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