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2010-07-10

教祖といえどもただの人間

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教祖といえどもただの人間です。当然のことですが、往々にして忘れられていることです。

といっても、教祖だからといって偉いわけではない、などと言いたいのではありません。当然のことですが、教祖とされる人たちの中には立派な人がたくさんいます。しかし、普通の人間と隔絶した存在ではなく、本質的には我々と同じ人間であって、特別な存在になったわけではないことをわきまえておくことが大切です。

ところが、「教祖」とかという肩書きがつくと、それだけで色眼鏡がかかって、五割増し、十割増しぐらいで見えるようになってしまい、客観的な判断ができなくなってしまうということがよくあります(だいたいそういうものです)。そして、神聖犯すべからざる存在として祭り上げてしまい、下手をすると教祖も信者も不幸になるということさえ起こります(オウムみたいな極端な例でなくても)。

まあ、人間というのはそうしたもので、人の判断についても、なかなか自分の感覚だけで判断することはできませんから、肩書きや学歴、過去の実績といった情報に影響されます。また、見た目による影響も大きいことは当然のことです。

とはいえ、例えば会社の社長が相手であれば、会社の社長という肩書きの人は世の中にごろごろいますし、よほどカリスマ的(教祖的)な社長はともかくとして、本質的には同じ人間と思っていますから、盲目的に信じるなどということはないでしょうし、社員の間では辛辣な評価が出ることも珍しくないでしょう。

だからといって、社長に価値がないわけではありません。何か人より優れた面があって(それが能力とは限らず、血筋の問題だったりもするわけですが)社長になれたわけですから、人として価値を認められるべきであることは言うまでもありません。

ただ、社長の場合、本質的に社員と変わらない人間だということはわかっていますから、社長というだけで盲目的尊敬を集められるわけではなく、社長個人の実力(能力、実績、カリスマ性など)によって信頼と尊敬を集めなければなりません。

で、私としては、教祖だって同じだということを言いたいわけです。神様から選ばれた特別な存在などではなく、宗教者・信仰者としての姿勢、あるいは教祖としての能力について、社長が社長としての実力が問われるのと同じように問われなければなりません。

とはいえ、教祖と社長では同列に論じられない部分もあります。信仰というのは信じる度合いによって恩恵が違ってくるという面がありますから、むやみに疑うよりも盲目的に信じるぐらいのほうが本人のためになるということもないわけではないからです。

教祖が大したことなくても、信じる側が一心に信じれば、教祖も驚くような結果が現れることもありますから(そういうとき、実力のある教祖なら、信者の信仰の力が大きいことを理解しているからいいのですが、実力のない教祖は自分の能力を過信してしまったりすることもあります)、信仰者にとっては、客観的な目で教祖を見るより、自分の親交を深めるほうがいいとも言えます。

まあ、そもそも疑うのなら、信じなければいいという話ですが…

でもまあ、社長に対してだって、むやみに批判して逆らえば会社がおかしくなるわけで、客観的な目でばかり見るというのは、生きていく上ではいろいろ問題があります。

ですから、まあ、教祖を生き神様と慕い、一心に信じるというのも大切なことなのですが、一方で、そういう信仰に値する相手ばかりとは限らない、という問題があることも事実です。

信じるものは救われるといっても、その前提として、信じるにふさわしい相手を信じたほうがいいはずです。よほど純粋な人ならともかく、普通の人は、やはりおかしな教えや指示を出されると、疑いの心が起きるものです。

そういうとき、社長が本質的に社員と同じ人間であるように、教祖だって本質的に信者と同じ人間であるということを忘れないで、社長だからといって絶対でないように、教祖だって絶対などということはあり得ないということをわきまえておくことが大切だということです。

ただし、ここで難しい問題があります。それは、おかしな教えや指示が出されたとき、それが教祖が間違っているからおかしいのか、それとも自分に理解できないだけなのかという問題です。

社長に対する評価でも、社長が求められている職責の中には、他の社員には理解できない内容もありますから、社員の目からはおかしくても、社長にとっては(ひいては企業にとっては)必要不可欠ということがあります。

まして、教祖となれば、一般人に理解できない宇宙の法則なり神様の意志なりを知ったから教祖になれるのであって、それが理解できるぐらいなら、自分が教祖になる必要はないまでも、わざわざ教祖の下にいる必要はありません。つまり、わからないからこそ教祖を信じているのであって、一から十まで教祖の言うことが納得できるということはあり得ないはずです。だから信仰が必要ということですし。

とはいえ、教祖がわかっているふりをしているだけ、あるいはわかってないのにわかっているつもりというケースもあります。これがなかなかやっかいで、前者は演技により、後者は根拠のない自信と、わかってない人が考えることだから、わかってない人には納得しやすい教えになりやすいという皮肉な話から、本物よりも本物らしく見えることがあるものです。

まして、普通、意識的無意識的に、教祖というのは一般人とは隔絶した、我々とは違う存在なんだという思い込みがあるため、相手の言うことを五割増し・十割増しで聞いてしまうことが少なくありません。

当たり前のことを言っても、何か特別なことを聞いたかのような気分になりますし、少々おかしなことを言っても、そこに意味があるなどと思い込んだりするものです。

まあ、繰り返しになりますが、それぐらいの気持ちでいたほうが恩恵を受けやすいのですが、教祖に中身がなければ、教祖も信者も自己満足に陥り、自分たちの間では幸せな世界だけれども、世間的にはまったく通用しないなどという哀れなことになりかねません。

私の場合、教祖(称号は違いますが)の近くで仕事をする、しかも、外で本物の宗教者(亡くなった師匠ですが)に教えを受けるという特殊な経験をしたおかげで、教祖の肩書きに盲目的になるでもなく、かといって醒めた眼で信仰を失うでもなく、ということができたのですが、非常に幸運な経験だったと思います。

そういう中でつくづく思ったのは、教祖といえども人間でしかない、ということです。これはどんな立派な教祖であっても同様で、人間である以上、完全無欠ということはありません。人間に救ってもらおうといっても、絶対に限界があります。

ですから、自分が救ってやろうなどという教祖を信じると、不幸になるか、自己満足の世界に陥るか、どちらかです。自己満足の世界でも幸せだというなら、それもいいでしょうが、それが人生の最後まで続いてくれるという保証はありません。

では、どうすればよいかというと、教祖という人間を信じるのではなく、教祖を通じて、神仏であったり、宇宙の法則であったりというものを信じる、あるいは自分がつながっていくということです。

学校にたとえれば、教祖というのは先輩であって、先生ではないというところがポイントです。先生は神仏、あるいは大宇宙の法そのものです。優れた教祖、あるいは宗教者はそこのところをよくわきまえています。

ですから、それを教祖と信者がお互いにわきまえていれば、大きな間違いは起こりません。教祖といわれる人に接するときに、そういう基本的な姿勢を持っておくことが、信仰で不幸にならないために大切なことです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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