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2010-07-12

金光大神(9)

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文治が「のどけ」を患って、ものも言えず、湯水ものどを通らなくなり、医者からも見放された状態になったため、親類縁者が集まって、石鎚山の先達である義弟の古川治郎を中心に病気平癒の祈願をしました。

この時、古川治郎に石鎚の神が懸かり、「家の建築、移転について豹尾神、金神に無礼がある」とお知らせがありました。それに対して、義父の古川八百蔵は「この家において金神様へのお障りはない。きちんと方位も見て建てた」と言い返しました。すると石鎚の神は「それなら、方角を見て建てたら、この家が滅亡になっても、亭主が死んでも構わないのか」と告げました。

文治は、皆が祈願をしている隣の部屋で寝て、祈願の様子を聞いていたようですが、その言葉を聞いて、ハッとしたに違いありません。

当時の人々は、金神などの祟りを恐れ、ご無礼のないように気をつけていました。そのために日柄や方位を見たり、金神封じをしたりしたのですが、極端な言い方をすると、神様から逃げたり、神様を出し抜いたりしようとするようなものです。

文治も当時の人の常として、小野光右衛門に日柄・方位を見直してもらい、その通りに建てたわけですが、本当にそれだけでよいのかという迷いがあったことは間違いありません。そのことが、建築に懸かる際の「どのようなご無礼をしているか、凡夫なのでわかりません」という祈りにつながっていると思います。

もともと光右衛門からは年回りが悪いから建築はよくないのと言われていたのに、そこを敢えて見直してもらったという事情もあります。しかし、もともと信心深く敬虔な文治にとっては、人間の知識や考えだけですべてがわかるものだろうかという根本的な疑問もあったに違いありません。

そして、日柄方位を見てもらい、(かなり無理をして)その指示通りに作業を進めたにもかかわらず、牛がその年、翌年と同じ日に死んでしまい、墓を七つ築くことになったわけですから、日柄・方位を見るだけで十分なのか、それは人間側の勝手な思惑ではないかという疑問はずっと残っていたでしょう。しかし、それを確認する術はありませんでした。

ですから、古川治郎に懸かった石鎚の神の「それなら、方角を見て建てたら、この家は滅亡になっても、亭主は死んでも構わないのか」は、長年の疑問に対して神様から答えが与えられたようなものだったわけです。

文治は義父の「この家において金神のお障りはない」(当時の人としては、当たり前の思いだったでしょう)という言葉を聞いて、「何ということを言われるのじゃろうか」と思いました。そして、自分の本意を神様に伝えなければならないと思いました。

すると不思議なことに、急にのどが開いて、ものが言えるようになりました。そこで、床の中から「ただいまの義父の言葉は、何も知らないから申したことです。私戌の年(戌年生まれである文治のこと)、年回りが悪くて建築をしてはならないところを、方角を見てもらい、作業の日程を何月何日と決めていただいて家を建てました。しかし、狭い家を大きい家にいたしましたから、どの方角へご無礼を致しましたか、凡夫でありますからわかりません。方角を見たから、それですんだとは私は思いません。以後のご無礼をお詫び申し上げます」と言いました。

すると、治郎に懸かった神が言いました。

「戌の年(文治)は心がけがよろしい。ここへ這いながらでも出てこい。今言うた氏子(八百蔵)は心得違いをしているが、その方は行き届いている。
正月元日、その方は氏神の親善でどのように手を合わせて頼んだか。氏神を始め、神々はみな、ここへ来ておるぞ。その時、『私、戌の年は当年42歳の厄年でございます。厄負けいたさぬようにお願い申し上げます』と願ったであろう。
戌の年は、本当は熱病になるところであったぞ。しかし、熱病では助からないので、のどけに神がまつりかえてやったのである。信心の徳によって神が助けてやる。
吉備津宮に参拝したときも、二度のおどうじがあり、どういう意味だろうと考え込みながら戻ったであろう。それは病気になるという知らせであったのだ。
信心しなければ厄負けをする年であった。五月一日には霊験を授ける。今晩のうちに、金神、神々へお礼として般若心経を百巻上げよ。
妻は、七日の間、衣装を着替えて、石鎚の神に香、灯明を供え、神前に五穀を供えよ。
日天四(日天子)が、毎日正午には戌の年の頭の上を舞って通ってやっている。戌の年、一代、まめ(壮健)で米を食わせてやるぞ」


そして、治郎が持っていた御幣が、五穀を供えたへぎ盆の上に引きつけられ、御幣を持ち上げると、大豆と米がくっついて上がりました。それを盆で受けると、「これを粥に炊いて、戌の年に食べさせよ」とお告げがありました。

この後、文治の病気は次第によくなり、5月4日には起き出して粽(ちまき)を結い、安心して端午の節句を祝うことができました。

この出来事が大きな転機となります。

続きます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

参考:
『金光大神』『金光教教典』(金光教本部教庁)
『新訳 金光大神御覚書』(金光教日本橋教会)


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