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2010-07-15

金光大神(11)

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さて、おかげを受けて病の癒えた文治ですが、よく安政3年(1856)までは体調が悪く、大変だったようです。それで、毎月1日・15日・28日の3日間、朝の時間を使って神様にお参りすれば、合わせて一日分になると思いつき、あちこちの神々を巡拝するようになりました。

安政4年(1857、文治は44歳)10月13日の夕方、文治の実弟・香取繁右衛門(かんどり しげえもん)が住む浅口郡亀山村(現在の倉敷市玉島八島)から使いが来ました。

※繁右衛門については「しげうえいもん」と読ませている資料もある。

「あなたの弟の繁右衛門さんの気が違い、『金神様お乗り移り』と言って乱心したようになって、『早く大谷に行って、兄の文治戌の年を呼んでくれ』と行っています。どうぞ、早く来てください」

急いで亀山に行くと、家族や親類、村内の懇意な人たちが待ち受けていて、「よく来てくださった。なにぶん苗にも稗にもなって(相手の言うとおり逆らわずに聞いて、という意味らしい)、どうぞ繁右衛門さんが治まるようにお願いします」と言いました。

それで、繁右衛門のところへ行くと、繁右衛門(に懸かった金神)が言うには、「戌の年(文治のこと)、よう来てくれた。金神が頼むことがあって呼びにやった。金神の言うことを聞いてくれるか」とのこと。文治は「私の力でかなうことなら、させていただきます」と言いました。

すると、「他のことではない。このたび、この未の年(繁右衛門のこと)はやむをえず家屋敷を替えなければならなくなったが、十匁の金さえ借りるところがない。建築の費用を金神が頼む」と言うので、「してあげましょう」と答えました。

「それで神も安心した。みなも一日ご苦労であった。お開きにしてくだされ。庄屋の奥様は若い人がお供していってくだされ。神が頼む」

その後、また「おいさみ」(神懸かりで興奮状態になること)がありました。文治が「おしずまりください」とお願いすると、「しずまりてやる」と言いました。そして、神棚に飛びつくと、そのまま倒れて寝込んでしまいました。

翌朝、繁右衛門が眼を覚ましたので、文治が「きのうのことを覚えているか?」と聞くと、「何も知らない」と言いました。しかし、建築費用のことは金神との約束でしたから、「覚えてないというのならしかたがない。お前の妻にでも、ご迷惑を掛けたところにはお断りを申し上げて、お世話になったお礼をして回らせよ。その後にお前が村役場にお礼に行って、それから建築にとりかかればよい」と言い置いて、家に帰りました。

18日に様子を見にいくと、すでに建築にとりかかっていたので、手伝いをしてやりました。20日には腕が腫れて痛んだので、一日休みました。しかし、その後は仕事をしながら自然に治り、文治はこれも金神様のおかげを被ったと感謝し、たびたび繁右衛門のところに参拝するようになりました。

この繁右衛門は、香取十平・しも夫妻の三男(文治は次男)です。

19歳で結婚したのですが、その頃から眼を病み、さらに3人の子どもの死や妻の病気が続きました。それは金神の祟りであるといわれ、21歳の時に妻の実家がある亀山村に移り、さらにこの年までに6度も家を移っていますが、それでも不幸は治まりませんでした。

それで、「堅磐谷の元金神」と呼ばれた小野うたのもとに通い、熱心に金神信仰をするようになります。この小野うたの金神信仰は、それまで祟り神としてただ恐れられ、避けられていた金神を、逆に熱心に信仰するというもので、うたに懸かった金神から直接その意志を聞くというものでした。

そのうち、繁右衛門自身が金神の神伝を受けるようになり、神懸かりになったのが、この時のことだと思われます。

そして11月6日、神懸かりとなった繁右衛門から「未の年(繁右衛門)を神が自由に使う時が来た」という言葉が伝えられます。

これまで繁右衛門が苦労をしてきたのは修行のためであり、今後、神が生まれ変わらせて使いにするというのです。そして、家族のものには、これから次第に楽になるから辛抱せよと言います。繁右衛門のことは一家の主人と思わず、夫とも親とも思わず、神の子として神に任せよ、と言うと、息が細り、顔色が変わって、死人のようになりました。

それで家族が「神様のなさることは、どうすることもできません」と答えると、みるみる息を吹き返し、六根清浄の祓を奏上して、「ああ、有り難いことであった」と言った。そして、この日から農業をやめて神前奉仕に専念することとなりました。

ただ、『金光大神御覚書』によれば、11月9日に建築が完成し、神様をお祀りして、それからすぐに農業をやめ、神前奉仕に専念するようになった、とあります。神懸かりがあったのが6日で、神前奉仕の開始が9日ということでしょうか。そこはよくわかりません。

ともかくこの時、文治は建築費用からお祝いの費用や酒まで贈りました。さらに、繁右衛門が心配しなくていいように、その他の費用も準備しました。

繁右衛門の始めた教えは香取金光教(かとりこんこうきょう)として現在にまで継承されています。平成18年版の『宗教年鑑』を見ると、本部は文治や繁右衛門が生まれた浅口市金光町占見にあり、教会数は7、公称信者数は865人ということです。

続きます。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

参考:
『金光大神』『金光教教典』(金光教本部教庁)
『新訳 金光大神御覚書』(金光教日本橋教会)
『新宗教教団・人物事典』(弘文堂)


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