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2009-12-07

慧春尼(4)

慧春尼(えしゅんに)について、いよいよ最後の火定(かじょう)の話です。

火定とは、燃えさかる炎の中で座禅を組み、そのまま瞑想しながら命を絶つというものです。

慧春尼は最乗寺のふもとに摂取庵(せっしゅあん)・慈眼庵(じげんあん)・正寿庵(しょうじゅあん)という三つの庵を建て、道行く人々を接待しながら教え導いていました。

そして、応永9年(1402年)5月25日と伝えられていますが、慧春尼は最乗寺の三門(山門)の前の大きな石の上に薪を積み、その上に乗ると自ら火を放ちました。そして、炎の中で座禅を組みました。

炎の煙が辺り一面に立ちこめると、了庵(りょうあん)禅師が駆けつけ、「尼よ熱いか、尼よ熱いか」と最後の問いを投げかけると、慧春尼は声を張り上げ、「冷熱は生道人(なまどうにん)の知るところにあらず(熱いか冷たいかは生半可な修行者の知るところではない)」と答えました。そして、平然として炎の中で遷化されたのです。

僧たちはお骨を集め、摂取庵に塔を建てました。また、今も最乗寺には火定石があり、慧春尼堂が建立されています。

そして、慧春尼は女性救済の悲願を持っておられたということで、祈念すれば必ず感応がある、祈れば必ず応えられるということで、今も女性の参拝者が絶えないということです。


これを見て、伝統的な日本の感覚ならすばらしいと思うかもしれませんが、現代の人の中にはとてもよいこととは思えないという人もいるかもしれません。現代的な価値観で表面だけを見ると、単なる焼身自殺のように見えるかもしれないからです。

今回はそのあたりを考えてみたいと思います。

そもそも仏教は自殺を認めるのか。

結論から言えば、仏教は極めて厳しい条件付きで自殺を認めます

しかし、認められるのは、輪廻と輪廻からの解脱を前提とした仏教の世界観の中で、完全に悟って仏の境地に到達した人においてか、悟りを得るために有効である場合においてのみです。

それ以外は、認められないというより、本人自身にとって深刻なマイナスにしかならないので、自殺など考えないほうがよいということになります。わざわざ毒を食べるなという法律を作らなくても、普通の人なら敢えて食べようとはしないのと同じです。

慧春尼の場合は、まだ悟って仏に成ったというわけではありませんから、悟りを得るために火定に入ったということになります。

なぜ、悟りを得るために有効なのか。それについては三つの方向(実際には二つの方向)から考えることができます。

まず第一は「捨身(しゃしん)供養」つまり自らの身を差し出して供養するというものです。真理を得るため、あるいは慈悲の布施行の究極として、自分の体をもって布施をするわけです。

代表的な話としては、釈尊(お釈迦様)の前世の物語である本生経(ジャータカ)に出てくる雪山童子捨身飼虎シビ王の物語などが有名です(詳しくはリンク先を)。

ただし、釈尊の前世の物語としての捨身供養は、それぞれ具体的な目的があるのに対し、慧春尼にはありません。そういう意味では単純に比較できませんが、私は大きな意味では捨身供養と考えてもよいのではないかと思います。それは、残り二つの観点が、それぞれ真理を得るため、そして慈悲の布施行の究極ということに相当すると考えるからです(そのため、実際には二つの方向からということに)。

また、捨身供養の中でも自らの身を焼いて供養する焼身供養というのが法華経の中に出てくるのですが、その内容は明らかに比喩であり、自ら教えを実践することが本当の布施であることを示すものです。そういう意味で、慧春尼の火定を含む人生も焼身供養といえるかもしれませんが、単純にそれだということは難しいと思われます。

第二は、六道からの解脱を完成させるための修行という観点です。

人間にとって、もっとも根本的な執着の対象は自分の命、つまり「生きたい」「死にたくない」というものです。

自殺というのは、さまざまな要因によって「死にたい」という衝動が「生きたい」という衝動を超えたときに起きるもので、通常の精神状態ではなかなか死ぬことは難しいと聞きます。精神の病やさまざまなストレスによって「生きたい」「死にたくない」という衝動がすり切れてしまい、「死ぬしかない」という状態になったときに自殺してしまうのだそうです。

ですから、特にストレスが原因となっている場合、別な要因が加わって(たとえば声をかけられるなど)「生きたい」という根源的な衝動がよみがえると、ハッと気づいて思いとどまることができるようです。

通常の精神状態で自分を殺すというのは非常に難しいことなのです。

ところが、解脱(六道の世界から抜け出す)というのは一切のとらわれやこだわり、執着がなくなるということですから、究極的には生死というとらわれ・執着からも自由になるということになります。

それは通常、現実に死ぬということではなく、いつ死んでもいいという覚悟をもって生きるということになるでしょうが(だから、日常で死と直面している武士たちが禅宗に惹かれたわけです)、究極的な修行の完成として自ら命を絶つという考え方はあり得ます。四聖の中で一挙にレベルアップを図ろうというわけです。

しかし、それを実践する過程で命に対する執着が起きると、それは取り返しのつかない失敗です。悟りなどとはほど遠くなり、下手すれば地獄落ちですから、大変な賭であるわけです(だから、確実に地獄落ちに決まっている一般人は、絶対に自殺などしないほうがいいのです)。

そして、六道を解脱して四聖の境地に入るということは、自分の心が、自分の置かれた境遇に影響されず、平安を保つということでした。

焼け死ぬというのは、六道でいえば地獄の状態です。熱くて苦しいのが当たり前なのですが、それで心の平安が揺らぐようでは失敗になります。ですから、了庵禅師の最後の問いが「尼よ、熱いか?」、つまり、六道の段階は超えることができたかということであったわけです。

冷熱は生道人の知るところにあらず」とは、もう冷たいとか熱いということは超えている、自分の今の状態は生半可な修行者の知るところではない。地獄の境遇であろうがまったく心が左右されることはない、つまり六道の世界から解脱しているということです。

かつて、ある禅宗の管長が肝臓病を苦にして首つり自殺をしたというニュースがありました。むしろ自ら命を絶つのであれば、そういう仏道と無縁な方向ではなく、いろいろ批判する人はあるかもしれませんが、現代の火定なり何なり、積極的な方向へ進むべきではなかったかと惜しまれます。また、それぐらい強い気持ちになれば、自殺する必要もなく、生きて精進をすることができたのではないかと思います。

それはともかく、そういう意味で、解脱を完成させるために自ら命を絶つということがあり得るということです。言葉を換えれば、真理を得るためとなるだろうと思います。

次に、慈悲の布施行の究極としてということです。慧春尼堂に女性たちが参拝するのもこの意味によると思います。

なぜ慈悲の布施行かというと、これは「代受苦(だいじゅく)という考え方によります。

仏教は因果応報・自業自得ということを説きます。自分のした善悪の行為は苦楽の結果として自分に返って来るという考え方です。現在の自分の境遇は(前世を含めた)過去の自分の行為の結果であり、現在の自分の行為は(来世を含めた)未来の自分の境遇を作るというわけです。また、過去の行為で、まだ結果として表れていないものも、未来の自分の境遇の原因になります。

すでに結果として表れたものはそれで終わりになりますし(だから、現在の境遇はさして問題ではないのです)、これからすることは悪を行わず、善を行うように気をつければいいわけですが、問題は過去の行為で、まだ結果として表れていないものです。

今さら変更することもできず、ただ結果が現れるのを待つしかありません。

そこで、自分が本来受けなければならない以上の苦を受けることによって、他の人が受けるべき苦を代わりに背負うというのが代受苦です。

苦の中には「願いが叶わない」「求めるものが得られない」というものもありますから、苦を背負っていただくことによって、願いが叶うということも含まれます。

自らを犠牲にすることによって、人々の苦痛を和らげ、喜びを与えるので、究極的な慈悲の布施行ということになるわけです。

そんなことってありえるんだろうかと思うかもしれませんが、小さなことなら、身近にいくらでももあります。

例えば、学校で忘れ物をしたりした罰として掃除当番を言いつけられたとします。本人が掃除をするのは自業自得ですが、それを手伝ってあげたとしたら、本来する必要のない相手の苦痛を引き受けてあげるのですから、小さな代受苦ということになるわけです。

友人をかばって、代わりに罰を受けるのも代受苦です。あるいは、正統な神学では違うのかもしれませんが、イエス・キリストの十字架による贖罪と救いというのも、一般的にはそういう受け止め方をしているのではないでしょうか。

日本の仏教史上、自らの命を絶つ修行として、火定補陀洛渡海ふだらくとかい。入水、もしくは大海にあてもなく船でこぎ出していく)、即身仏そくしんぶつ。食を断ってミイラになる)などを実践した僧が何人もいますが、たいてい、この代受苦の誓願をもって実行しています。

慧春尼がそういう志を持っていたかどうかは記録に残っていないようですが、女性救済の悲願を持っていたと伝えられ、多くの人が救われて、今も参詣が絶えないということをみるとき、きっと代受苦の誓願を持ち、人々の幸福を願って火定に入られたに違いないと思うのです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。
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theme : 宗教
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