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2009-12-17

感謝の効用

難しい話が続いたので、このあたりで軽い話を一つ。

宗教であれ、自己啓発であれ、「感謝」が大切だというのはよく言われることです。しかし、どうもそういう場でいわれる感謝の話というのは堅苦しい感じがして、自分が何か立派な人間にならなければいけないと強要されているような感じを受けるのではないでしょうか。

感謝できないような嫌なこと、苦しいことをグッと耐えて感謝に転換する、というような…。

しかし、感謝が大切だというのは、立派な人格になるとか何とかいう高尚なレベルで大切だというだけではなく、信心の御利益をいただく上でも非常に大切です。

しかも、その感謝の内容というのは、特別高尚なレベルの感謝が必要なのではなく、深く考えずに何でもかんでも有難いと感謝して、人から馬鹿に見られるぐらい有り難がるというところにポイントがあるようです

さて、私が某宗教団体の機関誌の編集をしていた頃、ある支部から信者の豆腐屋さんの証し(いわゆる体験談)が寄せられ、その内容が大変評判になりました。

その豆腐屋さんは奥さんを亡くし、息子さんと二人暮らしでした。

本人が熱心に先祖供養を続けていて、いろいろな恩恵を受けるようになったのですが、それにとどまらず、仕事をせずにブラブラしていた息子が、家で先祖の姿を見て、それをきっかけに反省し、真面目に働くようになったというものだったのです。

ある時、息子さんがコタツで寝ころび、うつらうつらしていると、誰かが部屋に入ってきて、ふすまを開けて仏壇のある隣の部屋へ行きました。男性の足が見えたので、てっきり父親だと思っていたそうです。

ところが、そこへ父親が帰ってきたので、びっくりしました。「あれは一体誰だったのか」と隣の部屋を見ましたが、誰もおらず、誰かが入ってきた様子もありませんでした。しかし、うつらうつらしていたとはいえ、誰かが入ってきて、はっきり足も見えたというのです。それで、結局、あれは先祖だったに違いないということになりました。

それで女性記者が取材に行ったのですが、帰ってきて「とにかく感謝がすごい」というのです。「先祖を見たというのも、ただ信仰していたからというのではなく、感謝の積み重ねがあったからだ」としきりに言っていました。

その支部の責任者が同期で研修を受けた友人だったので、後日、私も支部を訪問して話を聞かせてもらったのですが、たしかに感謝がすばらしい。ああ、感謝の積み重ねによって御利益をいただくようになるというのはこういう心情によるのだなあと実感しました。

で、どのような感謝をしていたかといいますと、とにかく感謝なのです。何でも神仏のおかげ(その教団は弥勒様を本尊とするので、何でも弥勒様のおかげ)と感謝するのです。

例えば、ある朝、豆腐を作る機械が動かなくなりました。そこで、弥勒様にお祈りしたところ、何となくスイッチが気になりました。そこでスイッチのカバーを開けたところ、中に蜘蛛か何かが卵を産んでいて、接触が悪くなっていたそうです。

それで、さっそくスイッチの掃除をして、無事に機械が動いたそうなのですが、そこで弥勒様に感謝。自分の中だけに留めておくのではなく、弥勒様に助けられたとみんなに言って回ったそうです。

そうは言っても、常識的・合理的に考えれば、機械が動かなくなればスイッチを見るというのは特別のことではありません。周囲の人から見れば、弥勒様のおかげも何も、当たり前のことではないかとしか思えないわけです。

一事が万事、その調子で、その方は常識的に考えれば何の不思議もないことでも、すべて弥勒様のおかげだと感謝していました。

しかし、日頃、何でも弥勒様の恩恵にしたがる支部の幹部や信者たちも、さすがにそんな「低レベル」の「当たり前」のことまで弥勒様のおかげと感謝するその人を、少々頭が悪いのではないか、馬鹿みたいにそこまで何でも弥勒様のおかげと思わなくても…と思っていたそうです。

ところが、そういう常識的に考えれば当たり前のささいな「御利益」に感謝し続けているうちに、だんだん起こることが大きくなり始め、受けられるとは思わなかった有利な融資が受けられるようになったり、商売がだんだん上向きになったりという、めざましい「御利益」が与えられるようになりました。

そして、息子が先祖の足を見て、心を入れ替えて真面目に働き始めるという、ちょっと当たり前ではない体験をすることになったわけです。

この頃には周囲の信者さんたちも決して馬鹿にするようなことはなくなり、むしろ立派な信仰者として、ある種の敬意を払うようになっていたのですが、ご本人はそういうことに頓着せず、あいかわらず感謝感謝の毎日を送っていました。

というように、御利益につながるような感謝というのは、常識的・合理的な思考とは無縁の、ともかく何でも有り難がって感謝する、頭のいい人からは馬鹿じゃなかろうかと思われるような感謝をするところにポイントがあるようです。

ですから、頭のいい人たちから見て信仰者が愚かに見えるのはしかたがないとも言えます。なぜなら、理性が邪魔をしている中途半端な信仰者を除けば、愚かに見える本当の信仰者か、本当に愚かな人のどちらかしかいないわけですから。

ただし、一点だけ気をつけなければならないことがあります。それは、信じている対象が正しいから有難いというわけではないということです。

ポイントは「正しい」ではなく「有難い」というところにあります。「正しい」か「正しくないか」はまったく無関係で、「有難い」に徹することができれば、謝った宗教を信じていてもある程度の恩恵を受けることができ、時が来れば自然に離れるように導かれるものです。そのとき、うかつに「正しい」にとらわれていると、離れるべきところから離れることができなくなります。

この時、一つのバロメーターになるのが「莫令傷心神(わがたましいをいたましむることなかれ)」ということです。自分がそこにいてしっくりするか、自分の心や魂は生き生きとして前向きになれるかということを見つめれば、自ずと正しい判断が可能になります。

しかし、そんなことを考えずとも、ただただ「有難い」と感謝に徹することができれば、自然に「心神(わがたましい)を傷ましむること」もなく、よりよい方向に導かれるものです。

感謝ほど有難いものはありません。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。


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