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2009-12-19

業(カルマ)について(2)

昨日に続き、業(カルマ)について考えます。

カルマに考えるときに注意しなければならないことは、ある業(カルマ)が因(原因)となって何らかの結果をもたらすにせよ、それが「いつ」「どのような」結果になるかは決まっていない、ということです。

このことについて、少し考えてみたい思います。

なぜ「いつ」「どのような」結果になるかは決まっていないのか。それは、いかなるカルマであれ、どのような縁(条件)と結びつくかによって結果が変わるためです。

「人を殴った」という例で考えてみましょう。

相手が自分と同等、もしくは自分より強い場合、殴り返される可能性が高くなりますが、相手が自分より弱い場合は、相手が引き下がる可能性が高くなります。あるいは、相手が弱くても武器を持っている場合には反撃される可能性があります。周囲に人がいるかどうかでも違ってきますし、連れがいる、警官がいる、昼か夜か、天気はどうか、体調はどうか、社会的立場はどうか、などの条件によって、その後の展開はまったく違ってきます。

また、その場で決着がつくこともあれば、何年か後に仕返しされるということもあります。たまたま知り合いに見られていて、家族や学校の先生あるいは職場の上司に告げ口されるということもあるでしょう。条件次第で、予想外のときに予想外の影響が出てくるわけです。

あるいは、新しく上司になった人が、実は昔、自分の親からさんざんいじめられていたという例で考えてみます。

自分がその上司にとって敵ともいうべき人間の息子だということがばれた場合、仕返しをされる可能性もないとは言えません。

上司と部下という縁ができることにより、親が作った過去の業が結果を生じるわけで、単に因と果の間に時間的な経過があるというばかりではなく、本人には責任のないにもかかわらず「親の因果が子に報い」ることがありうるということです。

この場合、上司をいじめた自分の親は、将来、自分の息子がその相手の部下になるとは想定していなかったでしょう。親と子は異なる人格なのだから、子供に向かって仕返しするのは理不尽だというかもしれませんが、理不尽でも仕返しされることはありえますし、そうなると正しかろうが間違っていようが、そういう現実があるだけです

しかも、この時でさえ、例えば父親が今でも会社の重役として残っているとか、直属の上司は父親を恨んでいるが、その上の上司は父親に恩義を感じているとか、上司と自分の相性とか、諸々の条件によって結果が違ってきます。

このように、業(カルマ)の問題、さらには縁起という内容は非常に微妙な問題を抱えているのです。

悟りを開いて仏陀になれば、過去を見通す「宿命通」、未来を見通す「天眼通」という神通力を得て、ある出来事がいかなる因縁によって生じたのか、また、ある行為がいかなる結果を生じるのかを知ることができるようになるとされますが、仏ならざる私たちにおいては、わかることにも限界があります。

このことを心得ていれば、未来に対するうかつな断定は慎むようになるはずです。

もちろん、だからといって予知や予言を否定するわけではありません。むしろ、はっきりと肯定する側の人間ですが、しかし、それは未来が確定しているということではなく、現時点ではその可能性が高いという話です。

ですから、例えば某ブラジルの自称予言者のような「何月何日にどこで何が起こる」などという形の予言は、それだけで偽物だと判断すべきなのです。なぜなら、縁起を前提とすれば、そのような予言は偶然以上の確率で当たることはないからです。

実際、某自称予言者の場合も事前に世間に公表された予言を見れば、当然の結果しか出ていません。

また、ある種の宗教団体では、教団をやめたり、批判したりすると罰が当たるとか地獄に堕ちるなどと脅したりしますが、これもまったく論外です。逆に、教団を批判する側からは、そういう人は幸福になるに違いないと考えがちですが、それもそうとは限りません。

なぜなら、その教団をやめたり批判したりすることが悪業(悪いカルマ)になるか善業(善いカルマ)になるかはともかくとして、当然、それぞれ異なる縁(条件)がありますから、一律に罰が当たるとか、地獄に堕ちるなどということはありえませんし、その逆もしかりです。

中には不幸に見舞われる人もいるでしょうし、幸せになる人もいるでしょう。

教団をやめたり批判したりというのも、しょせんはさまざまな要因の一つでしかなく、しかも、それが「いつ」結果を生じるかも決まっていないわけですから、教団をやめて不幸に見舞われたり、幸福になったりしたというのも、必ずしも教団をやめたことばかりが原因だとは限らないわけです。

ただ、そういう「やめたら不幸になる」「批判したら罰が当たる」などという教団は、おおよそロクなものではないでしょうから、基本的にはやめたほうが幸せになるだろうとは思います。

いずれにせよ、一つ一つのカルマの積み重ねが因となり縁となって果を生じていくのですから、それらをおろそかにすることはできませんが、だからといって一つのカルマによって人生や来世が決まってしまうような錯覚にとらわれてはいけないということが大切です。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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質問いたします。

しばらく失礼しておりました。年末年始の多忙から解放されました。本年もまたよろしくお願いします。

恐れ入りますが、「業(カルマ)について(2)」までを拝読しての質問を二つ、よろしいでしょうか。

あらゆる行為は、必ず本人に何らかの結果をもたらすのか、ということです。周囲に何らかの波紋を広げることはあっても、波紋もいつか消えてしまうように、本人に何の結果ももたらさない場合はないのか、ということです。

「いつ」行為の結果が来るのか、決まっていない、ということでしたら、行為の主が死ぬまでその結果が来ないということもあるのではないか、ということです。「来世に来る」というお答えでしたら、私は来世はないとまでは断言しませんけど、余り信じていないもので・・・。来世があった方が嬉しいですが、人生は一回きり、を前提としております。

それではよろしくお願いします。

Re: 質問いたします。

>荻野様

ご質問、ありがとうございます。今後の話に関わる問題なので、詳しくは後ほどということにして、とりあえずご質問の内容にお答えします。

> あらゆる行為は、必ず本人に何らかの結果をもたらすのか、ということです。周囲に何らかの波紋を広げることはあっても、波紋もいつか消えてしまうように、本人に何の結果ももたらさない場合はないのか、ということです。

これは、「善因楽果・悪因苦果」と「善因善果・悪因悪果」を読んでいただければわかりますが、必ず何らかの結果をもたらします(特に「同類因・等流果」の関係においては絶対ですが、詳しくは読んでみてください)。

ただ、ご質問の趣旨は「善因楽果・悪因苦果」で説明している「異熟因・異熟果」に関する内容だと思いますが、これは「本人に」と限定すれば次の質問に関わると思います。「波紋もいつか消えてしまうように云々」というところを問題とすれば、それ自体はなくならないが、他の要因(縁)との関わりにおいて結果が変わりますから、事実上、なくなるに等しいケースはありえます。

> 「いつ」行為の結果が来るのか、決まっていない、ということでしたら、行為の主が死ぬまでその結果が来ないということもあるのではないか、ということです。「来世に来る」というお答えでしたら、私は来世はないとまでは断言しませんけど、余り信じていないもので・・・。来世があった方が嬉しいですが、人生は一回きり、を前提としております。

来世を前提としなければ、当然、行為の主が死ぬまでに結果が来ないということはあります。というか、そういうことは現実にいくらでも見聞きしていることと思います。

簡単な話、死ぬ直前に、イタチの最後っ屁みたいな悪事をすれば、その報いを受けない可能性は極めて大きくなります。

また、輪廻を信じている人でも誤解している人が多いのですが、前世の「私(なるもの)」と現世の私と来世の「私(なるもの)」は、人格が継続するわけではありませんから(つまり人格は別)、事実上他人です。私という存在(人格)は現世の一回限りですから、来世の「私(なるもの)」にとっては、私の業の報いを受けるというのは、他人の尻ぬぐいをするのと同じ感覚ということになります(それは前世の「私」に対する現世の私と同じです)。

そういう意味では、来世を前提としても、私にとっての人生は一回きりというのが正しいと思います。

このあたりについては、いずれ詳しく考えてみたいと思っています。

質問いたします。2

わざわざのご説明、ありがとうございました。

最初の質問の方、12/21「善因楽果・悪因苦果」を拝見したこともあり、了解しました。

>前世の「私(なるもの)」と現世の私と来世の「私(なるもの)」は、人格が継続するわけではありませんから(つまり人格は別)、事実上他人です。

なるほど、初めて聞く見解です。では、いきなり身も蓋もない質問で恐縮ですが、どうしてそういうことが分かるんでしょうか。お釈迦様がそうおっしゃっているから、ということでしょうか。

前世・現世・来世の私に何か共通点はありますか。何の共通点もなかったら、AさんがBさんの転生だとは言えないのでは? 

お手数ですが、どうぞよろしくお願いします。

Re: 質問いたします。2

ご質問の内容は、仏教の議論の中でも極めて難しい部分であり、簡単にお答えすることはできません。

釈尊の教えは輪廻を前提にしていますが、その目的は輪廻からの解脱ですから、輪廻そのものについてはほとんど説かれていません。ただ、仏教の中核には無我説(非我説とも)がありますから、輪廻の主体を立てないというのが正統な仏教の見解です。

では、主体がないのに、なぜ輪廻するのかというのが非常に困難な問題になるわけで、仏教哲学というのはこの難問を説明するために高度な発展を遂げたと言ってもよいほどの問題です。日本の仏教学者や仏教者の中に輪廻を否定する人がいるのも、この問題が理解できないためです。

この問題については、いずれ項目を立ててエントリーしたいと思いますが、そのさわりの部分だけ簡単に書いておきたいと思います。

まず、主体であれば、何が継続するのかということについては、業(カルマ)の継続だとされます。自分の残した業(カルマ)が次の生存を引き起こすというわけです。

先の質問でもお答えしたとおり、仏教では業(カルマ)はなくならず、何らかの影響を引き起こすまで、その潜勢力が継続すると考えます。つまり、善悪の業(カルマ)を消滅させるまで輪廻を繰り返すと考えるわけです。

特に、死ぬ瞬間に人間は「死にたくない」という執着が起きるため、その執着が次の生を引き起こす直接の契機になるともいいます。

業(カルマ)の継続ですから、ダライ・ラマによれば一人の人間が一人になるとも限らず、来世は複数の人間ということもあるそうです(これなど、私にもわかるようでわかりません)。

その上、来世も人間であるという保証はまったくありません。牛になったり、蠅になったりする可能性があるわけです。蠅になれば蠅としての生を送るわけで(知能も感情も蠅)、そこに人間としての人格が継続できるはずがありません。また、蠅に生まれたりすれば、よりよい存在に生まれるための善行を積むことなど期待できませんから、次に人間並みの知能を持った生物に生まれるのはいつのことになるか見当もつきません。

それで、仏教では「人身受け難し」人間に生まれることは難しいとして、「大海の針、妙高の糸」すなわち、大海に落とした針を拾い上げるような確率、あるいはヒマラヤの頂上から糸を垂らして、麓にある針の穴に通すような確率に喩えられます。

ですから、仏教で考える輪廻は、通俗的な輪廻転生やスピリチュアル系の人たちが考えるような生まれ変わりとは非常に異なるものだということを知っていただければと思います。

また、「諸法無我」という観点からいえば、仏教では昨日の自分と今日の自分も別のものだということになります。ただ、記憶が継続しており、「我」というものに対する執着があるために、自分が継続していると錯覚しているだけだと考えるわけです。

簡単な例を挙げれば、脳に損傷を受けて過去の記憶を失ってしまった場合、記憶を失った期間の自分を自分として実感できるだろうか、という話です。ただ、肉体が同じものだということと、周囲の人たちが同一人物として認識しているということから、知識として同一人物だと理解するのが精一杯だろうと思われます。

そして、サスペンス・ドラマではありませんが、記憶を失った期間に誰かの恨みを買うような行為をして、そのために現在の自分が仕返しを受ける場合(その記憶は存在しないわけです)、それを甘んじて受けようという気になれるでしょうか。

以上のようなことで、一応のお答えにしたいと思います。

お礼と質問いたします。3

 『心の風景』の掲示板のご挨拶拝見しました。わざわざありがとうございます。私の質問に非常に大きな規模でお時間を割いて丁寧にお答え下さり、本当にありがとうございます。
 ただ、申し訳ありませんが、私は、まだ12月22日のところまでしか、丁寧に読んでおりませんので、このブログにおいては後ほど改めてご挨拶いたします。
 さて、輪廻転生につきましては、別項にてご説明とのことですので、それをお待ちします。ただ、ここで生じた別の疑問点(というか勝手な想像)についてちょっと書かせておいてくださいませ。これに対して、お答えくださるとしても、後日でけっこうです。

>牛になったり、蠅になったりする可能性があるわけです。

 以下「蠅」に触発された私の妄想ですが・・・他の生物にも転生するなら、確率的には99.999・・・%は細菌など微生物でしょう。ところが微生物は寿命がなく、分裂していきますから、「私」が何万人何億人にもなってしまいます。また、外力で死ぬものもありますので、他方は生き続け、他方は転生するということもあり、「私」というものはバラバラになってしまいます。ダライ・ラマ様のおっしゃるのも私には意外と納得できます。
 もし「私」が1万人になったら、前世の果も1万分の1になるのでしょうか。そうすると、楽であれ苦であれ、ほとんど影響がなくなるのでは。
 今生きている人のほとんどは前世が一度も人間だったことはないのでしょうから、前世の因縁といっても、動植物が悪事を働くわけはなく、それほど気にすることはないと思いますが。

>蠅に生まれたりすれば、よりよい存在に生まれるための善行を積むことなど
>期待できません

 これは批判ではありません。またちょっと気づいたことを。・・・人に生まれてしまったために、より悪い存在になる悪行を積んでしまうということもあるでしょう。または、虫や花ははかないけれども自然に溶け込んだ生活をしているのに、人間だけが自然と不調和な生き方をしているという考え方もあるでしょう。輪廻転生の底には人間が一番価値があるという古代インド人?の価値観があるようにも受け取れます。もちろん、それが悪いということではないのですが。

 失礼しました。それではまた。

Re: お礼と質問いたします。3

>荻野様

このあたりについては、あまり論を深めることには意義を感じておりません。そのことについては1月14日、15日のエントリーに書いていますので、そちらを参照していただきたいのですが、要は輪廻については証明できないので、いくら議論を深めたところであまり意味がないという立場です。

ただ、微生物は分裂するから云々という視点は目から鱗が落ちる感があります。

> 輪廻転生の底には人間が一番価値があるという古代インド人?の価値観があるようにも受け取れます。

人間に価値があるというのではなく、輪廻からの解脱を目標としています。人間以外の生物は確かに自然に生きていますが、それは因果の流れに沿った生存のあり方であり、つまり輪廻からの解脱はほぼ不可能です。人間に不自然な生き方ができるということは、因果の流れから抜け出す可能性を持っているということでもあります。つまり、人間に生まれるということは輪廻から解脱するチャンスだということになるわけです。インドの輪廻思想では、例えば目の前の牛や馬が亡くなった親や祖父母の生まれ変わった姿かもしれないわけですから、あらゆる動物の生命を平等と見ます(山川草木=植物・鉱物にまで広げるのは日本仏教の独自性とされ、たぶん神道の影響です)。むしろ人間を最上位に置くのはキリスト教などセム一神教の特徴です。
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