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2009-11-14

十界について(中)

普通、宗教においては、善行を積むことにより安楽な世界(天国)に行くことを願います。もちろん死後の話というだけではなく、この世の幸せも含めます。

宗教によって、その善行の内容が、人に親切にすることであったり、修行や現実的努力をすることであったり、祭祀を行うことであったり、身を慎んだり清浄を保つことであったり、それらの複合であったりというような違いがありますが、基本的な考え方は同じです。

これは仏教でも認めていることで、初期の経典以来、功徳を積むことによって、この世とあの世でも喜びを得られると説いています。

また、在家の仏教信者に対して、八斎戒(殺生をしない、淫行をしない、酒を飲まないなど在家信者の守るべき八つの戒め)を月に六回の定められた日に守り、托鉢の僧に布施し、不正をしないで財を稼ぎ、その財で父母を養えば、死後、神々の世界(天界)に生まれることができるという教えもあります。

ただ、仏教が他の宗教と違うのは、功徳を積むことによって行くことができるのは六道の世界の天界であって、いずれ喜びに終わりの来るものであるということです。だから、六道の世界を解脱して、苦しみや悩みのない仏の境地を目指しなさいと説くわけです。

この苦しみ悩みのない仏の境地を彼岸(ひがん)すなわち「あちらの岸」といいます。十界うちのの四聖のことです。これに対して、苦しみ悩みに満ちた六道の世界を此岸(しがん)すなわち「こちらの岸」といいます。

六道の迷いの世界を離脱し、四聖の覚りの世界に入ることを、此岸から彼岸に渡るというわけです。

では、六道の世界と四聖の境地とは何が違うのでしょうか?

簡単に言えば、六道の世界というのは、環境や自分の状態(身体や感情)すなわち現象によって自分の心の状態が決められてしまうという状態です。病気になれば辛くなるし、思いもかけないお金が入れば嬉しくなる。

苦しい状態だから苦しいし(地獄)、喜ばしいことがあるから喜ぶ(天界)というわけです。

ですから、善いことをすれば楽の結果が生じ、悪いことをすれば苦の結果が生じるという因果応報の道理に基づいて、功徳を積むことにより、地獄の状態を避け、天界の状態を望むのです。

たとえ天界の状態にいても、いつまでもそれが続くということはありません。それが終わってしまうと、天界の喜びが終わるということ自体が苦しみ悩みの原因となってしまいます。ですから、環境や自分の状態が幸せだから幸せだという天界の状態も、しょせん六道の迷いの世界でしかないのです。

これに対して、四聖というのは、環境や自分の状態にかかわらず、自分の心が安定し、平安を保つことのできる境地だと言えるでしょう。

わかりやすい話が、普通、難病に冒されると心が暗くなり、苦しみや絶望にさいなまれるものです。ところが、まれに難病に冒されても心の明るさを失わない人がいます。

私たちは環境や自分の状態が苦しいから地獄だと思い、楽しいことや嬉しいことがあるから天国だと思っているわけですが、実はそうではなく、単にその状態に心が反応して、地獄や天国だと思いこんでいるに過ぎません。

十界は心の状態なわけですから、心が地獄か天国かが問題なのであって、客観的に地獄や天国があるわけではないのです。

それが証拠に、例えばサウナの好きな人はサウナの中が天国でしょうが、私などには苦痛です。焦熱地獄とまではいわないまでも、まあ、餓鬼界でも畜生界でもないからプチ地獄でしょうか。ということは、サウナの中が客観的な天国なのでも地獄なのでもなく、それに反応して生じた自分の心によって天国や地獄になるのです。

一般道を時速130キロで突っ走って天国の快感を感じる人もいれば、地獄の恐怖を感じる人もいます(まあ、天国か地獄か知りませんが、あの世に行く確率は高くなるでしょうが)。

あるいは極寒の雪の中、用事をするために出て行くのは地獄だけど、スキーをするためなら天国でしょう(スキーをしない、というか、できない私には想像するしかない世界ですが)。

激辛料理、完全菜食主義者の料理、セロリにニンジン、まあ、世の中にいくらでも、人によって天国と感じるか地獄と感じるかの違うものがあります。

ずいぶん話がずれましたが、ともかく、一般には環境や自分の状態が苦しければ心も苦しくなり、楽しければ心も楽しくなるものですが、それは絶対的なものではありません。

難病に冒されても心を明るく保つ人がいるように、環境や自分の状態に関係なく、自分の心を平安に保つことは可能なのです。それが四聖の境地です。

この四聖の境地を、禅宗では「日々是好日」といいます。毎日毎日嫌なことがない好日ばかりだという意味ではなく、いいことがあろうと、悪いことがあろうと、どんなことがあった日も好日だ、ということです。心が喜んでいれば好日なのです。

とはいえ、いきなりそんな境地になることはできません。

まず、善い指導者を得て、どうして苦しみ悩みが生じるのか、どうすればそれを脱することができるのかを教えてもらい、知識として「そういうものか」という新しい視点を持ったというのが声聞の段階です。

これをきちんと理解し、自分のものとして、自分の人生や世の中を、そういう目で見ることができるようになった段階が縁覚です。とはいえ、まだ知的にそう整理できるというだけで、湧いてくる思いは昔と変わりません。それでも、ずいぶんな進歩です。

菩薩というのは、頭で理解するだけでなく、自分の根底から改めていく修行の段階です。

そして、完全にそういう覚りの境地になった、つまり根底から変わって、環境や自分の状態がどうであろうと、まったく平安を保つことができるというのが仏の段階です。

ただし、お釈迦様であっても、35歳で覚りを開き、仏となられましたが、完全なる仏の境地に入られたのは入滅された時だということは付け加えておく必要があるでしょう。まず、生きている人間の到達できる境地ではありません。

それはともかく、つまり環境や自分の状態にかかわらず、自分の心を平安に保つ四聖の境地を目指すことが大切なわけですが、ここで押さえておきたいことは、四聖の境地と「莫令傷心神」というのは同じだということです。

仏教は魂を認めないなどというのは無意味な揚げ足取りです。

人生にはいろいろなことがあります。なるべく苦しみが少なく、楽が多くというのは当然の願いですが、思うようにはなりません。そこで、失われない絶対的な安楽を得ようとすれば、自分の心を変えていくしかないのです。

仏教のすばらしいところは、そのことを明確に説き明かし、かといって六道の世界における天界の果報も否定せず、二重構造の救いを取っているところです。とはいえ、他の宗教でも同じであって、この四聖の段階、「莫令傷心神」という境地にならなければ、真の救いにはなりません。

次は、そのあたりについて、少し考えてみたいと思います。

心神を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。
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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

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なるほど!

納得です!
スッキリしました、ありがとうございます。
四聖の境地と「莫令傷心神」というのは同じ・・・。

続きが楽しみです~!!

Re: なるほど!

>しーさー様

いつもありがとうございます。

続きはご期待に添えたでしょうか?
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古今宗教研究所のブログです。

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