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2009-12-22

善因善果・悪因悪果

異熟因(いじゅくいん)異熟果(いじゅくか)同類因(どうるいいん)等流果(とうるか)から、もう少し因果応報について考えてみたいと思います。

昨日も書いたように、一般に因果応報といえば「善因楽果・悪因苦果」の異熟因・異熟果の関係を想定するのではないかと思います。

それはそれで間違いありませんし、苦楽の果が生じるからこそ、善を行い悪を避けようとする動機づけにもなるのですが、しかし、むしろ重要(あるいは深刻)なのは「善因善果・悪因悪果」の同類因・等流果ではないでしょうか。

異熟果は、その時々においては喜ばしいことであったり、つらく苦しいことであったりしても、一応、そこにおいて、その果をもたらした過去の因縁は決着がついたとみなすことができます。その果を善に活かすか、悪に活かすかは本人次第ですし、苦なる結果であればこそ善なる方向へ舵を切ろうというきっかけにもなります。

また、未だ結果を生じていない悪因に関しても、善き業(カルマ)を積み、善き縁としていくことで、より災難を少なくしたり、むしろ良い結果につなげることだって可能です。

ところが、等流果というのは、ただただ本人の善悪についての指向性を強化する形で現れます。本人が自分の善悪の傾向を自覚しないかぎり、変わるということがありません。

しかも、異熟因・異熟果との関係でいえば、異熟因・同類因といっても別の業(カルマ)というわけではなく、同じ業(カルマ)を、それによって生じた果との関係から別の呼び方をしているに過ぎません。

ですから、例えば万引きをしたとき、異熟果はいつ生じるかわからないという性質がありますから、警備員に捕まるという苦なる結果を生じるかもしれませんが、見つからずに成功するという可能性もあります。

しかし、そこで異熟果としての苦の果を生じなかったとしても、同類果として悪の傾向性を強め、将来においてさらに万引をしたり、さらに大きな犯罪に手を染めるようになる可能性を高めます。しかも、異熟因としての業(この場合は業力といったほうが正確ですが)は残り、犯罪を重ねれば、その分、業も積み重なっていきます。

そして、例えば薬物所持や強盗などという段階までエスカレートした時点で異熟果としての苦の果を生じると、万引きのときは罰金か、うまくすれば説教されるだけで終わったものが、実刑判決を食らうなどという、より厳しい苦の果を受けることになるわけです。

このあたりと深く関連するのが「ハインリッヒの法則」です。一つの重大な事故・災害の背後には29の軽微な事故・災害があり、さらにその背後に300のヒヤリ・ハット(事故にはならないけれども、ヒヤリとしたりハッとした事例)があるというものです。

職場における不安全行動が安全の軽視という風潮を作り、そのためさらなる不安全行動が引き起こされ、その結果、「ヒヤリ・ハット」する事態が起きたにもかかわらず、それを改めないために軽微な事故・災害が起こり、それでも「同類因・等流果」の流れを断ち切らなければ、重大事故や災害が起きるというわけです。

悪いことをした人が、その報いを受けることなく、さらにせっせと悪事を繰り返しているのを見たからといって、因果応報を疑う必要はありません。悪事を繰り返すということ自体が、同類因・等流果による悪因悪果の因果応報です。

こういったことを認識すれば、悪いことをしながら処罰を免れ、うまい汁を吸っている人間を見ても、さほど腹が立たなくなります。そういう人は、自らの悪なる傾向性を是正しようとはしませんから、同類因・等流果の繰り返しによって悪の傾向性を強めつつ、将来に苦の結果をもたらす異熟因をせっせと溜め込んでいるだけのことだからです。

そして、いつの時かわかりませんが、本人が否応なく気づかざるを得ない形で苦の果を受ける時が来る。しかし、彼が苦の果を受けたからといって私の人生が良くなるわけではありませんから、彼は彼、自分は自分として、ただ自分が善い因縁を作っていけばよいということになります。

もちろん、止めれば止められるのに彼が悪の方向へ進むのを止めないとすれば、それは自分が悪因を作ることになりますから、止めるべきです。しかし、止めて止められないのであれば、こちらとして見守るしかありません。いくら悪人であっても、気の毒な結果を期待するのも善いことではありませんから(そういう期待は悪なる意業になる)、彼が善いほうに転換することを願うとしても(そう願うことが善なる意業になる)、そうならないことに心を痛めなければならない義務もありません(「心神(わがたましい)を傷まし」めないため…心を痛めることは悪なる意業になる)

ですから、因果応報ということをよく理解すれば、周囲の状況や自分の境遇がどうであっても、無駄に悩んだり心を痛めたりすることなく、淡々と善業を積み重ねることができるようになるわけです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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theme : 宗教
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質問いたします。

 お世話さまです。

 21日22日の内容は、正直言って、なかなか覚えられませんね。こちらの頭の弱さが原因ですが、すぐこんがらがってしまいます。ワープロソフトに要約を作って、しょっちゅう見直しています。(これはお釈迦様以降の教えですか。上座部仏教ですか?)そういう有り様ですから、質問しても、単にこっちがうっかりしているだけでしたら、すみません。

 さて、自分の心の中に起こったことは「果」には入りませんか。

>等流果というのは、ただただ本人の善悪についての指向性を強化する
>形で現れます。

 善事でも悪事でも、それをさらに続けるというのは、やはり心の中に満足が生じるからではないでしょうか。自分の善事・悪事が誰にも知られなくても、自分の心にさえかなえば、行なったときに「やったー」と思うことは多いのではないでしょうか。その満足というのは「果」「楽果」とは言えないでしょうか。

 では、どうぞよろしくお願いします。

Re: 質問いたします。

>荻野様

いつもご質問、ありがとうございます。ご指摘の問題は、この問題を考えれば当然出てくるないようだと思います。

これについては、年明け以降の「善と悪について」で論じていますので、詳しくはそちらを読んでいただきたいのですが、結論を言えば、おっしゃる通り、その範囲内において楽の果というべきです。その範囲においてというところがポイントです。
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