--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2009-11-16

十界について(下)

前回は、十界を通して、仏教の救いが二重構造になっていること、絶対的な救いは六道の世界を抜け出して四聖の境地に至ることであること、四聖の境地と「莫令傷心神」は同じであることを説明し、他のいかなる信仰であっても、四聖の境地にならなければ真の救いにはならないということに触れました。

とはいえ、仏教以外の宗教で、救いを明確に二重構造として説明しているところはまずないんですね。

いや、仏教者であったも、この救いの二重構造を理解せず、現世利益や因果応報を否定したり(六道の中における救いの否定、または無視)、功徳を積むことで六道を解脱することができると説いたりする(天界と四聖の混同)人がいるぐらいですから、しかたがないのですが。

特に前者は、六道の中での救い(地獄などの悪趣を避け、天界を望む)を仏教の夾雑物(外から入り込んだ異物)のように考えているのですが、まあ、実際に人を救おうとしたことがないのではないかと思いますね。もし、救おうとしたことがあるというのであれば、間違いなく、救う対象を自分の基準で取捨選択しているはずです。

それはともかく、大半の宗教では、善行を積んで、あるいは信仰によって天国、すなわち六道の世界の天界に行くことを目的としています。

逆に、悪行を避けることによって、地獄をはじめとする苦しい世界にことを願うことに重点が置かれる場合もありますが、重点の置き方の違いであって、基本は同じです。

これは死後の問題としてもそうですが、現世においては環境や自分の状態が幸福になってほしい、あるいは苦しみや不幸にならないようにというものです。いわゆる御利益信仰というのも含まれます。

こういう地獄や餓鬼などの三悪趣・四悪趣を避けて、六道の天界を目的とする信仰のあり方を生天信仰(しょうてんしんこう)、つまり天界に生まれることを願う信仰といい、仏教においては一段低い信仰のあり方とされます。

仏教はあくまで六道を解脱することが目的だからです。

これを根拠にして、他宗教の批判をする一部の排他的な仏教徒もいますが、ちょっと考えればわかるように、そういう心根が四聖とは相容れません。だいたいそういう人は修羅界に安住しいます。

天界すら目指さないという意味では、確かに生天信仰ではないのかもしれませんが…

そもそも、やはり現に苦しんでいる人に対しては、心の持ち方だのなんだのよりも、目の前の問題を解決することも必要です。普通、やはり六道でも人天の状態ぐらいでなければ、なかなか四聖の境地を目指そうというような余裕はありません(だから、六道の中での救いを否定する人は、救いの対象を自分の基準で取捨選択しているのです)。

では、仏教以外の宗教が六道の天界を目指すだけでよいと考えているかというと、そういうことはありません。

このことを考えるのに、イドリース・シャーの『スーフィーの物語』(平河出版社)の中に、非常にわかりやすい話があります。スーフィーというのはイスラームの神秘主義者のことです。

主人公はマルヤムの息子イーサー(マリアの息子イエス)すなわちイエス・キリストです。イスラームにおいてもイエス・キリストは重要な預言者として尊ばれています。

マルヤムの息子イーサーが道を歩いていると、道ばたに大勢の人が悲痛な顔で座っていました。
イーサーが
「あななたちは、どうして苦しんでいるのか」
と聞くと、人々は
「地獄への恐怖が私たちを苦しめているのです」
と答えました。

さらにイーサーが歩いていくと、道ばたで大勢の人々が苦悶していました。
イーサーが
「あなたたちは何を苦しんでいるのか」
と聞くと、人々は
「天国への渇望が、私たちを苦しめているのです」
と答えました。

さらに歩いていくと、そこにも大勢の人々がいましたが、彼らはさまざまな苦難を受けながらも、喜びに目が輝いていました。
イーサーが
「あなたたちは、なぜそんなに満ち足りているのか」
と聞くと、人々は
「私たちは真理の霊によって神を知り、低次元の欲望について思い煩うことがなくなったからです」
と答えました。それを聞いたイーサーは次のように言いました。
「あなたたちは真の信仰者である。最後の審判の日には、神のお顔を拝することができるだろう」


もはや言うまでもないでしょう。第一グループの地獄への恐怖、第二グループの天国への渇望、これらは六道の世界の中において、よりよい世界を願う信仰のあり方です。

第三のグループは、そういったものを「低次元の欲望」と呼んでいます。つまり、「真理の霊によって神を知る」ことで、六道の世界を抜け出したわけです。そして、イエス(イーサー)は、彼らを真の信仰者と呼んでいます。

さまざまな苦難を受けながらも、喜びに目が輝いているというのは、まさに前回までで説明してきた四聖の境地であり、莫霊傷心神ということではないでしょうか。

また、地獄を恐れ、天国を渇望している人たちが、そのこと故に苦しんでいる…つまり「自分の魂・心を傷めているというのは、きわめて象徴的です。

仏教のように、天界の喜びも永遠性がないと喝破している宗教はごくわずかですが、現実問題として、信仰しているからといって、環境や自分の状態が天界状態でありつづけたり、地獄や餓鬼、その他の状態に遭遇しないということはありえません。

そもそも人類出現以来、信仰しているからといって死ななかった人はいません(イエス・キリストは死から復活して昇天したという熱心なクリスチャンはいるかもしれませんが、でも、それは空の上に人が住める世界があるとみんなが信じていた時代の話ですからね…)。

ですから、熱心で誠実である人ほど、六道の中で地獄を避け、天界を願うという信仰には限界を感じるようになります。当然、表現やアプローチは違っても、結局は六道を離脱し、四聖の境地を目指すようになります。

表現やアプローチの違いに惑わされなければ、結局のところ、目的とするところは同じです。それを突き詰めれば「心神を傷ましむること莫れ」ということになるわけです。

ただ、アプローチのしかたはいろいろあるのですが、やはり仏教における十界が一番特殊な色がなく、どのような宗教の人にとっても参考になるのではないかと思います。最初に十界がわかれば、宗教・信心の目的、その過程の中で自分の今いる位置が非常にわかりやすくなると書いたのもそういうことです。

ということで、特に信仰を持っている方におかれましては、自分が十界の中でどこにいるのかということを改めて考えてみていただきたいと思います。

と同時に、もし自分が信仰によって「心神を傷まし」めていると思ったならば、自分自身の信仰のあり方、もしくは自分が信じている宗教について見直してみることをお勧めします。正しい宗教・信仰は、決して「心神を傷まし」めないものだからです。

心神を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。
スポンサーサイト

theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

活かされています~

十界について(上中下)は、日々の生活の中、いろいろなところで、とても活かされるものですね。

四聖の境地と「莫令傷心神」は同じであることの意味がわかりました。

益々、今後が楽しみです!!
有り難うございました~。

Re: 活かされています~

>しーさー様

いつもありがとうございます。

宗教というのは、ある面では日常生活の範囲を超えた高尚なものでもあるでしょうが、やはり、私たちのレベルでは日常生活に活かせるものじゃないと意味がないと思いますよね。
プロフィール

こまいぬ

Author:こまいぬ
古今宗教研究所のブログです。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ランキングに参加しました
人気ブログランキングへ
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。