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2010-01-02

終わりなき世のめでたさを

年の初めの例とて
終わりなき世のめでたさを
松竹たてて門ごとに
祝う今日こそ楽しけれ


ご存知『一月一日』の歌です。

この歌詞、作詞は千家尊福(せんげたかとみ)です。第80代出雲国造(出雲大社宮司)にして出雲大社教の初代管長、後に貴族院議員となり、東京府知事や司法大臣を歴任した傑物です。

とはいえ、何も一日遅れで『一月一日』について考えようというわけではありません。注目したいのは歌詞の二行目、本日のタイトルにもした「終わりなき世のめでたさを」という一節です。

で、何が言いたいかというと、2012年人類滅亡説などくそ食らえ! ということです。

世の中には世界の終末を前提とする宗教と、そんなことにはまったく無関心な宗教があります。一般的に考えて、キリスト教やイスラームは前者、仏教や神道、ヒンドゥー教などは後者といえるでしょう。

ちょっと詳しい方なら仏教には末法、ヒンドゥー教にはカリ・ユガという考え方が有るじゃないかというかもしれませんが、インド宗教では世界は生成と破壊が繰り返されると考えられる上、個人の輪廻が中心ですから、今の世界がなくなっても次の世界ができる、つまり継続しているのと同じです。

そして、世界の終末を前提とする宗教と、そんなことには関心のない宗教のどちらが健全かというと、絶対的に後者なのです。

「終わりなき世のめでたさを…祝う今日こそ楽しけれ」実に健全です。作者が千家尊福、すなわち神道界の大物だったことを考えると、よけいに意味の深さを感じます。

そういうことを言うと、ではキリスト教やイスラームは不健全なのか、ということになるかもしれませんが、もともと不健全であったが、健全な方向に修正されていると言うことができます。ですから「一般的に考えて」とつけたわけです。

現代の主流的なクリスチャンやムスリムで、終末の到来を真面目に考えて、それに本気で備えている人などどれだけいるでしょうか。考えればわかることですが、教典や教義の上ではともかく、実際には終末の到来など前提とはせず、「終わりなき世」という感覚で生きているわけです。

特に、世の成功者などたいていそうです。終末が来ることを心配していたら、わざわざ現世的な成功などのために一生懸命にはならないでしょう。

初期のクリスチャンの中は、イエス・キリストがすぐ再臨すると信じていたため、いつキリストの再臨と終末が来るかと待ちかまえていて、人生を棒に振った人がたくさんいました。そのため、再臨は必ずあるが、それがいつかはわからないということで、次第に終末と再臨を信仰の中心から外すことになりました。

つまり、健全化が図られたわけです。

では、キリストが再臨したり、最後の審判があったりするかどうかは別として、人類は滅びないのかというと、そういうことはない、いずれ人類は滅びるだろうというのが妥当なところだろうと思います。

冷静に考えれば、宇宙の終末が来るかどうかは仮説の域でしかないわけですが、地球や太陽系の終わりは必ず来ます。それまで人類が存続しているかどうかもわかりませんし、私は地球人類が永遠に存続するだろうとは思っていません。

そもそも過去の地球の歴史を考えれば、隕石の衝突とか何とか、地球が滅びなくても人類が滅びるぐらいの天変地異が起きても不思議はないわけです。過去三千年か四千年、たまたまそういう大災厄がなかったから文明がここまで発展したとも言えます。

そういう意味では、「終わりなき世のめでたさを」などというのは、よほどおめでたい、脳天気だということになるのではないでしょうか?

しかし、そうではありません。「終わりなき世のめでたさを」というのは正しい態度なのです。

というのは、たいていの場合、世界の終末を発想の中心に置く人たちというのは、実はもっと確実で、絶対に逃れることができない終末を想定していないからです。それは、自分の死です。

「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」

一休禅師の作と伝えられる道歌です。

世界の終末が来ようが来なかろうが、確実に自分は死ぬのです。もし、自分が生きているうちに世界の終末が来て、それに巻き込まれて死ぬとしても、その時が死ぬときなのです。自分が死ぬという意味では同じこと。

逆に言えば、自分が生きているということは、世界も(かろうじてではあっても)存続している、つまり終末は来ていないということになります。自分が生きているかぎり、世界は存続しているというのであれば、自分にとっては、どこまで行っても「終わりなき世」なのです。

ですから、「終わりなき世のめでたさを」という言葉の背後には、世界は続いても自分は死ぬという当たり前の事実が前提とされています。そこには無駄なあがきがありません。自分の生をまっとうするということだけが問題になりますから、実に健全です。

それに対して、終末を発想の中心に置く人たちというのは、たいていの場合、世界が滅んでも(選ばれた存在である)自分は生き残るという余裕、もしくは、生き残る側に入らなければならないという焦りがあります。

つまり、世界は滅んでも自分は滅びないという倒錯があるわけです。そこがとても不健全。

まあ、中には本当に自分たちも滅んでしまうと心配している人たちもいますが、そういう人たちには、世界が滅びようが滅びまいが、どっちにしても人間は死ぬんだということを思い出してもらいたいものです。2012年を待たなくても、2011年に交通事故に遭うかもしれないじゃないかと。

心配するだけ無駄なことです。

でもって、そういうことを言いふらしている人は、たいてい自分は選ばれた人間で確実に生き残ることができるから、気の毒な滅びの側にいる人を助けてあげようなどと考えているのでしょう。が、実際のところは自分に関心を向けさせ、自分のいうことを聞かせたいという無意識レベルの欲求に動かされているに過ぎません。

ハルマゲドンを説いて信者の終末意識をあおり、清貧な出家修行生活を強いていた麻原彰晃が、自分ではどういう生活をしていたかを考えればわかろうというものです。

まあ、もし終末が来て、人類が選別されるようなことがあったとしても、終末のことばかり心配して、人生においてやるべきことをやらなかった人が選ばれるようなことはまずないでしょう。もちろん、物質的欲望のために他人を犠牲にしても平気という人も選ばれないでしょうが。

日々の生活をきちんとして、神様の御心に適うような人生を歩んでいる人が選ばれることは疑いありません。

2012年の終末を説く人たちによれば、世界の終末は2012年の12月頃だそうですから、あと3年足らずということになりますが、まあ、終末が来ても自分たちは選ばれて滅びないというようなことを言っている人は、終末が来ても選ばれることはないし、終末が来なければ何もないし、気をもむだけ無駄なことですから、正月は正月らしく「終わりなき世のめでたさを」祝いながら、冥土への旅を充実したものにしていくのが何よりではないでしょうか。

2012年人類滅亡などくそ食らえです。まあ、個人の自由ですから、信じたい人は信じればいいと思いますが。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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