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2010-01-05

善と悪について(2)

まず、昨日のエントリーでもっとも訳がわからないであろう部分、すなわち何が善で何が悪かは苦楽の結果から決めるべきと言いながら「必ずしも苦楽の結果で善悪を決めきれない」と書いたことについて説明をしておきたいと思います。

意味不明になった直接的原因は、時間がない中で無理にまとめたからため、言葉足らずになったことによりますが、それは単なる言い訳として…。

わざわざこのようなことを書いたのは、往々にして見られる「★★教をやめたら不幸になる」というような脅しの文句を念頭に置いてのことです。あるいは、因果関係が不明確なことについて過剰な縁起担ぎをして、物事の判断を誤らないようにという意図もあります。

もちろん、物事の予兆を感じ取る手段として、因果関係が不明確なことについての過剰な縁起担ぎというのも意味がないわけではありません。しかし、基本的には「思い込み」の可能性が大きいことを忘れるべきではありません。

例えば、宗教団体の信者であれば、教団の打ち出した方針がおかしいと思い、指導者に疑問をぶつけたが、それに対して「信仰が足りない。もっと素直にならないといけない」と言われたとします。たいていの人は、頭の一部では「もっと信仰的に受けとめないといけない」と思いながらも、一部では「でも、納得できない」という気持ちになるだろうと思います。

そういう葛藤を抱えて家に帰る途中、後ろから車に追突されたとしましょう。事故の程度は問いません。そのようなとき、往々にして「ああ、自分は不信仰な思いを持っているから、神様からの警告を受けたのだ」などと思ってしまい、教団の言うことに盲従しなければならないと思い込んだりしてしまいます。

しかし、ちょっと考えればわかることですが、「教団に対して反抗的な態度を取った」あるいは「教団に対して反抗的な思いを持った」ということと、交通事故の間に直接的な因果関係はありません。

その事故に警告なり予兆なりの意味がないとは言い切れませんし、私はそれを否定しません。しかし、それが直近の問題、この場合であれば教団に反抗的であったことに対する警告あるいは罰であるとは限らない、というのが重要なポイントです。

前回も説明したとおり、「異熟因・異熟果」つまり善悪の因縁に対する苦楽の果報は、結果として表れるまでの時間が決まっていません。ですから、この場合の交通事故という苦の果も、教団に反抗的な態度を取ったことが原因だとは限らないし、むしろ無関係であるという可能性も大いにある、ということです。

また、因果関係があるとしても、その因縁となったものが「教団に反抗的な態度を取った」ということだとは限らないということも指摘しておく必要があります。むしろ「信仰的に受けとめなければならない」という思いと「納得できない」という思いの葛藤がマイナスの縁となって、事故という苦の果報を生じたという可能性が高いのです。

これは、(一般的にいう)善であれ悪であれ、信じ込んで邁進していれば案外うまくいくのに、それに疑問を抱いたり、葛藤を始めたりすると、途端にいろいろな障害が起こるというのと共通しています。

冷静に見ていればわかりますが、教団に対して疑問や不満を持っている人でも、自分に自信を持ち、疑問や不満を持っていることに罪悪感を持っていない人(教団側から見れば一番悪い人のはず)は案外物事がうまくいっているのに対して、自分の不満や疑問をよくないことではないかと思い、葛藤や自責の念がある人には、いろいろな問題(教団で信仰の程度が低い人に起こるとされているような)が起こっているはずです。

そして、問題が起こったために、やはり自分の不信仰が問題だと思い込み、教団に盲従しなければと思うようになります。しかし、本心は偽れないために更なる不満や葛藤、それに対する自責の念が生じ、それがマイナスの縁となって、ますます問題が起きるという負のスパイラルに落ち込み、自分は何のために信仰をしているんだろうというようなことになってしまうのです。

実に悲しむべきことです。

「教団をやめたら不幸になる」というのも同様で、「そんなものはまったくバカげている」と割り切っている人が不幸になることは滅多にありません(教団をやめることとは無関係に、その人自身に不幸になる因縁があることもありますから、絶対不幸にならないとは断言できませんが)。

それに対して、教団をやめることに不安感を持ち、何か不幸な出来事が起こるのではないか、病気になったり事故にあったりするのではないかと思っている人は、たいてい何か問題が起こっているものです。

そういうところまできちんと見れば、教団をやめたことと苦楽の果報に直接の関係はなく、むしろ、教団をやめることに不安や恐れを持つことが苦の果報の原因となることがわかるのですが、そこまで考えずに悩んだり苦しんでいる人が少なくないようです。

そういう意味で、「必ずしも苦楽の結果で善悪を決めきれない」ということがあるのですが、以上の内容を読めばわかるとおり、きちんと苦楽の果報に対する原因(因縁)を分析すれば、短絡的に因果関係を判断して、誤った結論を出すこともなくなります。

特に、自分たちの思惑を果たそうとする連中は(無自覚的にではありますが)、このあたりの因果関係を都合よく解釈して私たちを不安にさせ、それを縁として不幸な現象を起こさせ、負のスパイラルに落とし込むことによって私たちを支配しようとします。

悪質な反社会的カルト教団がなかなか潰れないのは、信者をこういう負のスパイラルに陥れているからです。

そういう罠から逃れ出るためにも、因果応報の問題を正しく理解し、何が善で何が悪かを見極める必要があります。世の中全体がそうなれば、悪質な反社会的カルト教団など、朝日の前の朝露のように消滅してしまうことは間違いありません。それこそ、たとえ信者1千万人を呼号し、ばかでかい教団施設を次々建設するようなところであるとしても、です。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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