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2010-01-07

善と悪について(3)

仏教においては、すべての業(カルマ)を善・悪・無記(善でも悪でもない)の三性(さんしょう)に分類します。

その説明として、前回は

・善…楽(自分にとって望ましい)の果を生ずるもの
・悪…苦(自分にとって望ましくない)の果を生ずるもの
・無記…楽の果も苦の果も生じないもの


善が楽の果を生じ、悪が苦の果を生じるということから、楽の果を生じさせる業(カルマ)は善、苦の果を生じさせる業(カルマ)は悪と定義すれば、因果応報は100%の確立で成立することになります。

よって、善と悪は、それが楽の果を生じるか、苦の果を生じるかによって定まるというのが「善と悪について(1)」での内容でした。

善悪の定義についてはいろいろな議論がありますが、因果応報を考える上でも、実際の生活上でも、この定義に基づくのがもっとも有効だろうと思います。

なぜ、この定義が有効かということについてはいくつかの理由があり、また、突っ込んだ解釈が必要なのですが、わかりやすいところから説明していきたいと思います。

その前に一つ、上記の善悪の定義について、次のように修正したいと思います。

・善…楽(望ましい)の果を生ずるもの
・悪…苦(望ましくない)の果を生ずるもの
・無記…楽の果も苦の果も生じないもの。


「自分にとって」というのは、果を受ける当人にとってという意味なのですが(例えば、Aさんがしたことについて、Aさんのみならず、BさんやCさんもその影響を受けます。そのBさんやCさんにとっての楽・苦は、BさんCさん自身にとって望ましいか、望ましくないか、ということになる)、普通に考えれば因縁となる業(カルマ)作った当人の意味になりますので、今後の議論を進める上で誤解を生じる可能性があり、修正します。

さて、まず一般的な善と悪の基準いうのは、どんなにご立派なことを言っているようでも、たいてい自分の都合に合わせて決めているものです。もちろん、普通は道徳的な基準に従っているとはいえ、その道徳の規準も、自分が所属する社会集団の都合によって決まっています。

それが証拠に、国や民族、文化的な背景が違うと善悪の基準は変わりますし、時代によっても変わってきます。必要性という側面も含め、その社会集団の都合によって決まっているということには違いがありません。

時代によって、あるいは所属する集団によって変わるような基準による善悪で、因果応報による苦楽の結果が決まるものでしょうか。いくら何でも無理というものでしょう。

ただ、そういう善悪の基準も、そのもっとも基本的な部分は、楽の果を生じる行為が善、苦の果を生じる行為が悪という基準に則っていることは間違いありません。であればこそ、漠然と因果応報はあるという観念を共有しているわけですし(といっても、それは人類共通というわけでもなさそうです)、弱肉強食・優勝劣敗だけの社会にもならないわけですから。

それでも、やはりそういう不安定かつ不適切な善悪の基準に基づくため、必ずしも因果応報は成り立たないのではないかという疑問も起こってくるわけです。

特に宗教というのは、何が善で何が悪かというのを明確にするところのはずですが、実際には、それがなかなか当てになりません。それは、謙虚にこの世界の有り様から善悪の基準を探り出そうというのではなく、往々にしてそれぞれの経験や価値観、伝統に基づいて善悪の基準を先に決め、それに基づいて世界の有り様を判断しようとするからです。

まして、それが宗教団体(宗教と宗教団体は区別されるべきです)ともなると、組織の維持や指導者の絶対化が優先され、神仏の心に添うものが善などという名目を立てて、実際には神仏の心など普通の人間にはわかりませんから、教団や教祖の意に従うものが善、反抗したり敵対するものが悪と分類されます。

ですから、教団に従順な人は幸福になるはずだし、教団をやめたり、敵対している人は不幸になるはずだと信じ、あるいは期待しています。

某教団が作った政党の憲法試案に「神仏の心を心とし」などという一節がありましたが、あれを見て、本当にこの人たちは自分の都合と神仏の心の区別がついていないんだなあと思いました。底意はないんでしょうが、それだけに危険極まりありません。

まあ、そういう基準に基づいていますから、宗教団体に所属している人の大半は、因果応報とはいいながら、善を行っているつもりでもなかなか相応の報いがないわけです。もちろん、中にはそれによって幸福になったという人もいます。しかし、大半は実感がなく、しかし、いずれ報われるだろうと信じ、報われなければ報われないほど、自分の信仰が足りない、善行が足りないのだと思って、さらに一生懸命がんばっているというのが実態だと思われます。

中には、一部の教団の信者のように、因果応報の結果をおとなしく待つだけではなく、それを自分の力で実現しようとして、教団の敵対者にストーカー並みの嫌がらせの電話をしたり、暴力行為に及んだりするケースもあります。

これなど、第三者として冷静に見れば、それ自体が明らかに悪なのですが、当人たちは善だと信じているわけです。これで、どうやって良い果報があるというのでしょうか。

「悪をきらうを善じゃと思う きらう心が悪じゃもの」(盤珪禅師)

報われる人と報われない人がいるのは、確かに異熟因・異熟果の関係は時間差があり、すぐに報われるとは限らないという側面があるとはいえ、基本的には善悪の基準が不正確だからです。

つまり、教団で言われているところの善悪の基準と、苦楽の果を分ける善悪の基準にずれがあるので、当たり外れが出てくるというだけのことです。

しかし、当の本人たちは自分たちの信じている価値観が絶対だと思っていますから、あくまで自分たちの価値観に基づいて善悪を判断しようとします。そして、自分たちの思う善が楽の果を生じなければ、まだ本来の結果が出ていないだけだと考えたり、それは間違っているから自分たちの力で正さなければならないと実力行使に出たりして、更なる悪因縁を作り出します。

それは、宗教団体の信者に限りません。一般の人たちも、自分たちの伝統や経験、価値観によってできた道徳や倫理に基づいて善悪の基準を決め、さらに、それを自分に都合よく解釈した上で因果応報を適用して、結論を勝手に決めているという点では変わりがないからです。

そのような問題を解消するためには、いったん自分たちの価値観を棚に上げ、謙虚にこの世界の有り様を学んで、善悪の基準を設定し直す必要があります。そのためにも、楽の果を生じるか、苦の果を生じるかによって善悪を判断することが必要になるわけです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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