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2010-01-08

善と悪について(4)

昨日は、一般的な善悪の基準というのは、それぞれ自分あるいは自分の所属する社会集団の(道徳や倫理に基づくとはいえ)都合によって決められているため、因果応報の実際とは一致しないという観点から、善と悪の基準を楽と苦の結果によって判断すべきということを説明しました。

先に決められた善悪の基準から世の中の有り様を判断するのではなく、世の中の有り様を謙虚に学んで、そこから善悪の基準を設定しなければならないということです。

今日は、別の観点から、善と悪の基準は、それが楽の果をもたらすか、苦の果をもたらすかによって判断すべきということを説明したいと思います。

世の中には、一般的に善いこと、悪いこととされていることがあります。

例えば、嘘をつくというのは悪いこととされています。嘘をつくのはいいことだと言う人は滅多にいないと思いますし、そう我が子に教える人など、まずいないと思います。仏教の十善戒にも不妄語戒(ふもうごかい)すなわち嘘をついてはいけないという戒がちゃんと入っています。

しかし、実際生活上では、絶対に嘘をつかない、必ず本当のことを言わなければならないと思っている人は少ないのではないでしょうか。世の中には、嘘をついたほうが、物事がうまくいく場合が少なくありません。

子供に「嘘をついちゃいけない」と教える親でも、実際に我が子が何でも馬鹿正直に話していたら、逆にたしなめるでしょう。

つまり、「嘘も方便」といいますが、私たちは嘘をつくことが悪いことだと思っている一方で、嘘をつくことが必要なこともあるということを知っているわけです。ですから、厳密に言うと、必ずしも嘘をつく(本当のことを言わない)ということそのものに善悪の価値があるとは言いがたいと言うことになります。

では、何によって善悪が決まるかというと、結果によって決まるというのが一番適切でしょう。

例えば、佐藤さんのところに言って「鈴木さんがあなたの悪口を言っていた」という嘘を言い、鈴木さんのところに行って「佐藤さんがあなたの悪口を言っていた」という嘘を言ったとすれば、当然、これは悪だといえるでしょう。

なぜなら、たいていの場合、その嘘によって佐藤さんと鈴木さんが仲違いをすることになるからです。あるいは、佐藤さんと鈴木さんが直接に話の内容を確認して、それが嘘だとばれた場合、嘘をついた本人が信用をなくすことになりますが、いずれにしても、善い結果にはつながりません。

そのような結果によって、悪だという判断ができます。

それに対して、本当に鈴木さんが佐藤さんの悪口を言い、佐藤さんが鈴木さんの悪口を言っている場合はどうでしょうか。

お互いに、お互いが悪口を言っているということを知らないのに、わざわざ双方に事実を知らせて(本当のことを言って)仲違いをさせたということになれば、それは悪なる行為です。

逆に、佐藤さんには「鈴木さんがあなたのことをほめていた」と(嘘を)言い、鈴木さんには「佐藤さんがあなたのことをほめていた」と(嘘を)言って、お互いの関係がよくなったとすれば、それは善なる行為です。

それが善か悪かを決めているのは、結局、佐藤さんと鈴木さんの仲が悪くなるか、良くなるかという結果によっているというのは議論の余地がないと思います。

「いや、結果よりも、その行為の動機が問題だ」という意見があるかもしれません。動機が善意か悪意かによって善悪が決まるという議論ですが、これは正しいとは言えません。

江戸時代の禅僧である良観さんが出家する前の話です。

良観さんの実家はいわゆる名主の家柄で、18歳になった良観さんは名主見習いを務めることになりました。

あるとき、代官と漁師の間に争いが起こり、良観さんが調停に当たることになりました。ところが、良観さんは漁師が言った代官の悪口をそのまま正直に役人に伝え、役人の言った漁師の悪口をこれまた正直に漁師に伝えたため、かえって事態が紛糾し、問題が大きくなってしまいました。

そのために代官の叱責を受けることになったのですが、良観さんは人を騙すことが利口と言われる世の中は間違っているといって、それが出家の動機になったともされています。


まあ、そういう世の中が間違っているかどうかはともかく、この時、良寛さんには問題をこじらせようというような気持ちはなく、純粋な善意から「本当のこと」を双方に伝えたはずです。しかし、結果として、その善意は問題を拡大させただけだったわけです。

※仏教が出家すなわち出世間(社会の枠組みから外に出る)を前提にしている理由の一つがここにあると私は考えます。

この例から見ても、動機が善意か悪意かではなく、結果によって善か悪かを判断すべきであることは明白だろうと思います。

また、例えば私などは「がんばれ」と言われると非常に心の負担となり、かえってがんばろうという気がなくなります。ですから、私のような人間に「がんばれ」というのは、たとえ善意であっても、かえって逆効果となりますから、それは私にとっては悪なる行為です。また、同じような気持ちの人は少なからずいるだろうと思います。

で、昔は自分がそうなものですから他人もそうだと思い込んでいたので、絶対に「がんばれ」と言うことはありませんでした。ところがある時、同じ職場の人から、自分が大変なときでも「がんばれ」と言わないのは冷たいと言われ、世の中には「がんばれ」と言われることでがんばれる人がいるのだと認識したのです。

それからは相手を見て、「がんばれ」と言うようにしているのですが、そういうことですから、「がんばれ」という声をかけるのも相手次第、あるいは状況次第で善にも悪にもなるといって間違いありません。では、何によって判断できるかというと、結局、それによって相手ががんばれるか、がんばれなくなるかという結果によるわけです。

あるいは、今はまったくの悪者とされている体罰もそうです。

もちろん、むやみな体罰は決して善いものではありませんが、現実には体罰によって悪から引き戻されることもあり、あるいは相手が体罰を通じて自分に対する愛情を感じ、生き方を改めることさえあります(当然、逆もあります)。

何でも体罰で解決しようというのは論外であるにしても、何が何でも体罰はダメという教育が人命軽視、人を大切にしない社会を作っているという現実を見れば、これまた問題があることは明白です。

望ましい結果をもたらす行為(業)が善であり、望ましからざる結果をもたらす行為(業)が悪であるという単純な基準に立てば、例えば体罰は認められるべきか、認めるべきではないかなどという不毛な議論もまったく不要になります。

現実の当たり前のことをつきつめていけば、善と悪の基準は楽なる果を生じるか、苦なる果を生じるかによって判断できるというのは、当然の結論であろうと思うわけです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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